2024-01-01から1年間の記事一覧
永禄11年(1568年)、戦国時代末期。 尾張一国から瞬く間に勢力を拡大させた織田信長なる男が、前将軍弟の足利義昭を奉じて上洛、前将軍を弑殺した三好三人衆を屈服させ、畿内の支配を確立させつつあったその頃、その畿内にて悪名を馳せる「山の民」なる非合…
ヒジュラ暦518年。アラムートの城塞の中で一人の老人がその生涯を終えようとしていた。 彼は自らの信念と正義のもとに、暗殺教団と呼ばれる組織を作り、信仰の敵と対峙し続けてきた。組織は巨大化し、優秀な後継者にも恵まれ、彼は満足した様子でこの世を去…
スペイン帝国がその権威と権勢を失うことなく存続し続けている世界。 千年の歴史を誇るヴェネツィア共和国もまた、史実におけるナポレオン戦争での消滅という運命を回避し、19世紀後半においてもなお、その命脈を保っていた。 それでも、すでに国際貿易にお…
17世紀末のスペイン継承戦争が起こらず、「日の沈まない帝国」スペインの王朝も領土も保全された世界。 ナポレオンの台頭もスペインによって抑え込まれ、この世界では神聖ローマ帝国も、そしてヴェネツィア共和国もまた、生き存えていた。 とは言え、すでに…
この世界の歴史は1669年に大きな変化を迎える。 4年前のスペイン王フェリペ4世の死後、その妃であったマリアナ王妃がわずか3歳の息子カルロス2世の摂政となり政権を牛耳ると、これに反対する勢力(主にアラゴンとカタルーニャの貴族たち)によってフェリペの…
1845年「一月革命」。この世界のフランスが選んだのは帝政でも共和制でもなく、レジティミストたちによるブルボン王朝の再復活、すなわち新復古王政であった。 軍事的英雄にして熱心な絶対王政信奉者であったニコラ・シャンガルニエ元帥の下、選挙制度は廃止…
フランス革命とナポレオン戦争の後、ウィーン体制によって復活したブルボン朝フランスは1830年の七月革命によって再び打倒された。 しかし、王政とは名ばかりでブルジョワによる支配に服するこの七月王政に対し、国内では様々な勢力による不満が蓄積されてお…
1836年。 あの狂乱のフランス革命から半世紀、そして皇帝ナポレオンの即位から30年、王政復古から20年・・・時計を戻したはずのフランスは、再び混乱の渦に巻き込まれ始めていた。 すでに、王権を取り戻したブルボン朝は1830年の七月革命により打倒されてお…
1467年の応仁の乱以降、全国に広がった騒乱と混沌の「戦国時代」。 その「最終局面」が始まったのは間違いなく、1560年の「臼木ヶ峰の戦い」で、2万7千の今川軍を1万7千の織田軍が打ち破ったその瞬間からであろう。 そこから40年。 1576年にはその織田信長が…
百数十年にわたり続いた戦国乱世を平定した天下人・豊臣秀吉が、この世を去った。 遺された幕臣たちに課されたのは、この傑物が築き上げた静謐の世を維持し、後世に継承すること。 しかし、あまりにも偉大過ぎた存在の喪失は、この遺された政権に必然的に混…
かつては素性も知られぬ父母の下で生まれ育った木下藤吉郎秀吉。その知略でもって昇り龍の戦国大名・織田信長の下で名を上げ、丹波摂津を治める大大名へと成長する。 信長死後は織田家中における存在感をさらに高め、1586年には信長の後継者・信雄を臣従させ…
1576年。征夷大将軍・織田信長がその志半ばで斃れる。 1584年。織田家が四国、畿内における三好勢力を完全に滅ぼし、天下の大半を手中に収める。 そして1586年。前年に始まった織田家の内紛が丹佐秀吉の手によって鎮圧され、征夷大将軍・織田信雄も将軍位を…
1576年の織田信長の死後、征夷大将軍の座は存命の次男・織田信雄の手に渡った。 まだ若年の信雄を支えるのは、信長時代からの重臣で各方面軍を担当していた丹佐秀吉・佐々成政・丹羽長秀・浅井久政の「織田四天王」。 しかし1578年には久政が謀反の末に敗れ…
1576年8月6日。 征夷大将軍となったばかりであった織田信長は、突如その命を落とす。 遺された織田家と幕府を引き継いだのはその嫡男の織田信雄。 そして佐々成政、丹羽長秀、浅井久政、丹佐秀吉といった信長重臣たち。 彼らは生前の信長の遺志を継ぎ、1577…
歴史はその細部を異にしつつも、大きな流れとしては変わらず流れていく。 この世界においても、戦国時代末期、織田信長という天才が現れ、瞬く間にその領域を広げていった。 彼は天下を手中に収め、新たな時代を築き上げた。 しかし、それは決して安寧に到達…
1560年の臼木ヶ峰の戦いにおける今川軍への勝利以降、破竹の勢いでその勢力拡大を成功させている尾張の大名、織田信長。 1572年には室町幕府を滅ぼした天下人・三好長慶を敗北せしめ、京周辺から摂津丹波に至るまでの広大な勢力圏を築き上げることに成功した…
我々の知っている歴史と似ているようで、少しずつ異なっているこの世界。 のちの天下人たる織田信長はこの世界においても1570年頃までの間に北近江・越前・加賀・伊勢に至る広い領域を支配するなど、その勢力を大幅に拡大させていた。 一方、史実同様に今川…
1560年。臼木ヶ峰の戦い。柴田勝家が今川義元を討ち取る。 1562年。稲葉山城合戦。疫病の流行で柴田勝家や前田利家を喪うも、同じく斎藤義龍も病死したことで美濃はすべて織田家のものとなる。 1563年。愛知川の戦い。北近江の浅井家に攻め込んだ足利・三好…
1560年8月15日。 尾張侵攻を目論み軍を進めていた今川家当主今川義元が、柴田勝家率いる織田軍1万7千の奇襲に遭い、織田方に滝川一益など重臣の犠牲を払わせつつも、その首を討ち取られることとなった臼木ヶ峰の戦いから始まるこの物語。 続く美濃攻略戦にお…
1560年8月15日。 三河国加茂郡の山中にて、織田攻めのため滞在していた今川軍本隊2万7千が、柴田勝家を総大将とする織田軍1万7千によって奇襲を受ける。 織田軍は勇将・滝川一益が討ち取られるなど大きな被害を出すも、勝家の手によって敵総大将今川義元の首…
史実では、英露のグレート・ゲームに巻き込まれ、その主権を奪われる結果となった中央アジアの小国、アフガニスタン。 この世界では、その運命を乗り越え、改革と革命を経て1900年、ついに「列強」の地位にまで昇り詰め、英露とも肩を並べることに。 そして…
史実では19世紀後半にグレート・ゲームの犠牲者となり、実質的に英国の従属国へと成り下がったアフガニスタン。 この世界では、1856年にロシア帝国からの侵攻を受け、助けを求めた英国にも裏切られ、一時は拡張したその領土の大半を奪われる憂き目に遭った。…
19世紀前半。 かつて、アフガン帝国とまで呼ばれた巨大勢力圏を築き上げたアフガニスタン・ドゥッラーニー朝は、内紛により分裂状態に陥った上で、家臣筋であったバーラクザイ部族により政権を追われることとなる。 このバーラクザイ部族の長ドースト・ムハ…
11世紀初頭、現在のフィンランドの一地域を支配していたクルキ家は、その後、約1世紀にわたりその勢力を次第に拡大させていき、「太祖」ミッコの代にはキリスト教国家のスウェーデンまで征服し、バルト海イタメリを囲む大領域を支配した。 ミッコの子アンリ…
豊穣なるメソポタミア地域とインド地域に挟まれたアフガニスタンは、古来よりペルシャ帝国やイスラーム帝国、あるいはモンゴル系の帝国など、数多くの巨大帝国の支配に服し続けてきた。 この地の固有民族とも言えるパシュトゥーン人*1による国家が成立したの…
クルキの一族は11世紀半ばの時点ではフィンランドの一部族の長という立場に過ぎなかった。 しかしミッコという名の男がその勢力を一気に拡大させ、最終的にはキリスト教徒のスウェーデン王国を滅ぼし、バルト海沿岸地域における最大勢力へと成長。 その子ア…
フィンランドの一部族から一気にその勢力を拡大し、ついにはスカンディナヴィア半島全域を手中に収める大帝国を築き上げたクルキ家。 しかしこれを実現させた初代皇帝アンリ・クルキは、その晩年に異教徒との結婚や残虐な振る舞い、そして帝国統一期に為した…
11世紀後半、フィンランド族をバルト海を囲む巨大国家へと成長させた太祖ミッコ・クルキは、1107年に唐突にこの世を去った。 ミッコが築いた巨大王国は、ミッコの長男のアンリ、次男のヴォイット、そして三男のクーティによって三分割されるが、直後の長い内…
12世紀後半、のちにフィンランド王国として統一されることとなる地方の弱小な一部族の長でしかなかったクルキ家のミッコは、幼くして父アンリを喪い、母アームや養育係でもあった将軍サタヤルカの補佐を受けつつ次第にその権力と影響力を増していった。 そし…
現在のフィンランド、スウェーデン、ノルウェーとデンマークの一部にまたがるバルト海沿岸地域に、かつて巨大な帝国が存在していた。 土着の信仰をベースとした統一の宗教体制と、フィン語を中心とした複数の言語によって統治された大帝国。 これを成り立た…