1576年。征夷大将軍・織田信長がその志半ばで斃れる。
1584年。織田家が四国、畿内における三好勢力を完全に滅ぼし、天下の大半を手中に収める。
そして1586年。前年に始まった織田家の内紛が丹佐秀吉の手によって鎮圧され、征夷大将軍・織田信雄も将軍位を秀吉に譲り渡し、臣従することを決断。天下は丹佐の手に渡さるることとなった。
いよいよ、信長死後の混乱は完全に収まり、天下は一統に向けて速度を上げて進んでいくこととなる。
その物語は果たしてどんな結末へと収束していくのか。そして、結末の先にあるものとは?
Crusader Kings Ⅲ Shogunate AAR「戦国」編第玖話。
「天下統一」編、開帳。
目次
※ゲーム上の兵数を10倍にした数を物語上の兵数として表記しております(より史実に近づけるため)。
Ver.1.12.5(Scythe)
Shogunate Ver.0.8.5.6(雲隠)
使用DLC
- The Northern Lords
- The Royal Court
- The Fate of Iberia
- Firends and Foes
- Tours and Tournaments
- Wards and Wardens
- Legacy of Perisia
- Legends of the Dead
使用MOD
- Japanese Language Mod
- Shogunate(Japanese version)
- Joseon (Shogunateの朝鮮半島拡張)
- Joseon JP Translation
- Japanese Font Old-Style
- Historical Figure for Shogunate Japanese
- Nameplates
- Big Battle View
- [Beta]Betray Vassal(JP)
- Battleground Commanders
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西国征服
1587年春。大坂。
秀吉の下に、一人の客人が訪れていた。
「この度は内大臣昇任、祝着至極」
出雲・隠岐・伯耆・因幡・但馬・石見・備前・備中・備後・美作の山陰山陽「十か国守護」を務める中国地方の大大名・尼子義久。
その義久が、秀吉に対して恭しく首を垂れ、殆ど臣下と変わらぬような振る舞いを見せている。
それもそのはず。今や秀吉は征夷大将軍として武家の頂点に立つのみならず、朝廷への工作を進めて異様な速度での昇官を進め、この3月には正二位・内大臣の地位すらも獲得していたのである。
武威のみならず朝廷の権威をも獲得した秀吉はまさに日の出の勢い。
義久もまた、この世の情勢を巧みに乗りこなすべく、一早く臣従を自ら申し出るに至ったのである。
「ーー改めて、内府様にお願いしとうことが」
「分かっておる」
秀吉は快活に笑い、義久の手を取る。
「そう畏まらんでも良い。先の大乱での勝利は義久殿のお助けあってのこと。今はこうして臣下となれど、儂の中ではあくまでも対等の同志の積り。
その同志が為に、そして先の協力への返礼が為にも、義久殿の所有すべき土地の一部を不法に占拠し続けているかの毛利への懲罰を、朝命と共に敢行することを約束しようぞ」
突然の「将軍」丹佐秀吉の侵攻を前にして、かつての大国・大内家を滅ぼし、強大なる隣人・尼子家と長年に及び渡り合ってきた西中国の雄・毛利家も、ろくに抵抗らしい抵抗もできずに、ただただ蹂躙されていく。
1588年の夏には、備中高松城を舞台とした決戦が繰り広げられ、丹佐軍は2万を超える毛利軍を全滅させる大戦果を挙げる。
焼け落ちる備中高松城の中で、秋月種実や村上武吉などの有力な武将も次々と討ち取られていった。
同年10月には毛利家当主・輝元も降伏を受諾。
その所領の一部を臣従した尼子に渡し、残る西中国の地は、秀吉の養子で後継者となっていた丹佐秀門に与えることとした。
これで中国地方は完全に丹佐家の支配下に収まることとなったのである。
秀吉の動きは止まらない。
次いで、彼は九州において島津と対立を深めつつあった九州探題・大友宗麟に接触する。
元々、宗麟の娘と尼子義久の弟との婚姻により、尼子家との関係は良好であった大友家。今回も尼子義久が仲介となって両者は誼を通じ、最終的には宗麟も秀吉に臣従する代わりに九州戦役における島津への討伐を要請した。
そして秀吉もこれに応える。
1589年4月9日。南九州四か国の支配者であった島津義久に宣戦布告。
特に大友氏の本拠地である府内城に攻め込んできた島津軍を討ち倒した「府内の戦い」は激戦となり、義久率いる島津軍主力3万を壊滅。義久の弟で軍略の優秀さに定評のあった島津家久を討ち取るなど、決定的な勝利を果たした。
その後は島津側も抵抗らしい抵抗を見せることもできず、本拠地の薩摩に至るまで各地を次々と制圧される。
そして義久は1590年3月6日に降伏を宣言。
家督を弟の義弘に譲り自らは隠居。さらに肥後国を大友に譲り渡し四か国から三か国に減封することを受け入れての降伏であり、これで島津を含めた九州全土が秀吉の支配下に入ることが確定したのである。
「――瞬く間、でしたな」
大坂城にて戦況報告を伝えに来た弟の丹佐秀長の言葉に、秀吉は「そうじゃなぁ」と呑気な声を挙げる。
「兄者が将軍職を得てからわずか四年足らず。西国はすべて兄者の手中に収まることとなりました」
「残るは東国――そのうち北条については、すでに当主の氏直殿が誼を通じようとしてきており、臣従も近いかと。
問題はやはり――武田」
「先達て当主の義信が死去し、その嫡男の胤和が新たな当主となったものの、まだ若年にて、その国内は不安定さを見せております」
「先代の義信殿は無駄な戦を好まぬ思慮深き御仁であったが、胤和はそうではないと聞いておるなぁ」
秀吉は応えながらも秀長に背を向けて歩き回っている。その顔には柔和な笑みを広げており、手元に収めた小さな影――赤子をあやしている。
昨年、秀吉の正妻である光が、ついに二人の間の実子である鶴松を産んだのである。
すでに秀吉には養子として後継者の秀門がいるものの、それでも実子となればその可愛がりようは尋常ではなく、大坂に滞在しているときはこうして客人があったとしても常に鶴松を傍らに置き続けているような有様であった。
「のう、小一郎」
秀吉は振り返らぬまま、秀長に尋ねる。しかしその声色がいつもの戦国大名としての秀吉のそれであることに秀長は気が付き、背筋を伸ばす。
「儂はただ、平和な世の中を望んでおるだけじゃ。朝廷の権威と将軍の権力の下、この日ノ本からすべての諍いを消し、誼を結んだ大名たちと共に争いのない天下惣無事を創り上げる――それが儂の唯一にして最大の願いであり、鶴松に遺したい未来なのじゃ」
「だが――もしもその儂の願い、邪魔する者がいるのであれば――」
秀吉は振り返らない。
しかし――その背中からは、有無を言わせぬ迫力を、秀長は感じ取っていた。
かくして、1590年夏。
秀吉の天下統一事業における最後の仕上げとも言うべき――武田家殲滅戦「甲州征伐」が開始される。
甲州征伐
開戦に至るまでの間に、秀吉はいくつかの「準備」を進めていった。
今や日ノ本10万近い兵力を動員できるだけの力をもった彼であったが、無駄な犠牲を減らし、圧倒的な物量差で一気に勝負を決める――それが「天下人の戦い方」であると認識していた。
そしてそのための第一手として、秀吉は長年にわたる武田との同盟あるいは宿敵関係を繰り返してきた東の北条氏と同盟を締結。
当主・北条氏直の娘と、生まれたばかりの秀吉の実子・鶴松との婚約によってそれは締結された。
さらに秀吉は当主死去に伴う武田家内での混乱を狙い、各勢力に調略を仕掛ける。結果、15年前の戦いで織田家を苦しめた秋山虎繁の嫡男・秋山綱信や、同じく武田四天王の一角であった馬場信春の嫡男・馬場昌房といった武田の重臣たちが次々と寝返り。
さらに極めつけは、前当主・武田義信の弟にして武田家随一の武勇を誇る勇者であった武田勝頼が密かに秀吉の傘下に加わったこと。
この勝頼に甲斐信濃を渡すことを条件にその協力を取り付けられたことで、秀吉による甲州征伐は正当性をも確保することとなったのである。
そうしてすべての準備を整えた後、1590年8月14日。
天下人・丹佐秀吉は武田家当主・胤和に宣戦布告。
丹佐・北条合わせて14万にも及ぶ前例のない大軍勢が、武田家の領土へと押し寄せることとなったのである。
数だけではない。丹佐軍10万を率いる武将の面々がまた、精強なる兵揃いであった。
まずは第一軍を指揮するのが四国の大大名・浅井長政。秀吉に忠誠を誓う、日ノ本随一の武辺者と噂される男である。
その弟、浅井治政もまた、軍略の才においては兄に引けを取らない。より知略と冷静さに長け、城攻めも得意とする戦巧者である。
第三軍を率いるのは長宗我部元親。三好家により土佐の領地を追われ、息子の信親と共に放浪の身にあった彼を秀吉が目をつけ、家臣として迎え入れた。その軍略の才はかつて「鬼若子」「土佐の出来人」と呼ばれただけあり、長政にも劣らぬ才覚を誇る。
なお、息子の信親もまたその武勇と美貌とを秀吉に気に入られ、現在は秀吉側近の黄母衣衆の一員として、その中でもとくに「丹佐三将」と呼ばれる栄誉ある称号を与えられている。
そして第四軍を率いるのは、先の九州戦役において敗北した島津義久に代わり、島津家の当主となった島津義弘。寡黙だがその質実剛健たる軍略の才は一大名としては長政と双璧を成すほどであり、配下の島津兵たちの勇壮さもまた、日ノ本一の呼び声が高い。
これらの堂々たる指揮官たちに加え、島左近、鈴木孫市、十河一存、毛利輝元、織田信雄といった各大名・勇将たちを引き連れた丹佐軍はまさに古今無双の陣容。
10月8日に刈谷城陥落。
11月10日に岡崎城陥落。
12月4日には浜松城も陥落――。
年が明けて1591年1月21日。
本拠・駿府城に押し寄せた丹佐軍から逃れるが如く富士の麓・富士川にまで撤退した武田軍を、甲府方面から南下してきた北条軍と挟み撃ちの形にて襲撃する。
「――典厩様、敵軍は間もなくこの地にやってきます。さしもの勇猛なる武田兵と言えど、我軍の二倍近い陣容を誇る丹佐・北条連合に敵う由もなく・・・御嫡男の信豊様も、御屋形様を見限り、丹佐の軍門に降ることを考慮すべしと申しております」
側近の言葉を、武田軍6万を指揮する男は黙って聞いていた。
部下の言葉も、そして息子の言葉も、尤もであるとも、彼は理解していた。兄の信玄、その子である義信の時代は遥か昔のことのように思え、いつまでも自分のような老兵が過去の栄光に縋り、変化を受け入れられる若者たちの足を引っ張るような真似をすべきでない、とも理解していた。
しかし一方で――彼は、もはや一つの時代が終わりを告げようとしている今、老兵としてその背中を見せて学ばせるべき責務があるとも、感じていた。間もなく、戦乱の時代は終わりを告げる。だが、決して忘れてはならないのだ。この百年、この日ノ本が、これだけの暴力と狂乱に溢れていた時代を過ごしていたことを。
「最後の一戦、為すべき外に、途は無し。我が甥、義信が為し得なかった真の決戦を、ここに果たさんとす。――覚悟無き者は去れッ!! 我こそは武田の兵と誇る者のみ、付いて来いッッ!!!」
「――見事也。我が誇り高き武田の士たちよ。だがその命運、我が手で引導を渡してやろう。安心めされよ・・・我がこの武田を正しく引き継ぐ故になッ!」
戦いは日が沈む間際まで続けられた。
大地には無数の屍と旗が散りばめられ、富士の川は鮮血で染まったという。
平和を望んだ丹佐の軍は、誇りを願った武田の軍を蹂躙し、打ち砕いた。
後に残ったのは名だたる英雄たちの名誉だけである。
かくして、戦いは終わる。戦後、捕えられた武田信豊も秀吉への臣従を申し出る。
その後も武田傘下の兵らが次々と戦わずして投降し、諸城もさしたる抵抗もなく門を開いたことで、いよいよ武田はその抵抗を止めざるを得なくなりつつあった。
そして1591年8月1日。開戦からちょうど1年が経過しようとしていた頃、ついに武田胤和は降伏を決断。
武田家遺領は分割され、信濃と甲斐の地は約定通りに武田勝頼のものに。合わせて武田家の家督も彼が継承することとなった。
駿河と越後の地は此度の甲州征伐で功績を上げた北条氏直に丸ごと割譲。代わりに秀吉への臣従を受け入れたものの、その勢力は秀吉配下の中でも随一のものに。
そして――遠江と三河の地については、この男に「返還」されることとなった。
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「――此度は我が旧領を拝領頂き、恐悦至極で御座います」
秀吉の前でその男は深々と頭を下げる。
「そう畏まらんでよい。貴殿は儂にとっては同輩の如きもの。同じ主君に仕えし者同士としてな。いや、貴殿にとって信長公は同盟相手であり、主君とは異なったかの、徳川殿」
「いえ・・・確かに形上は同盟ではありましたが、我が心の内において、信長様は主君の如き輝かしき存在で御座いました」
「しかしその信長公によって、貴殿は裏切られ、領地を失ったわけだが、それでもその気持ちに変化はなかったというのか?」
秀吉の言葉に、家康は力強く頷く。
「あの選択に、誤りはなかったと拙者も理解しております。それに、その後身寄りを失った我が身を、信長様は自領内にて匿い続け、そして此度、こうして内府様に御好意を戴く形となったこと、身に余る光栄で御座います」
「ふむ――」
神妙な面持ちで殊勝なことを言い続ける家康を、秀吉は疑わしそうな目で見やり続ける。
しかしその目に、表情に、言葉とは異なる思いを抱いているようには感じられない。信長や天海がその心の裡を覗き込むことが困難であるのと対照的に、家康はその心の裡が実に浅い。律儀で単純。生真面目で誠実。信長や秀吉に対する敬意に、嘘偽りがあるようには全く思えない。
本当にーー? そんな戦国大名が果たして存在するのか? しかし、それだからこそ此奴は一度滅んだのだ、とも言える。
いずれにせよ、秀吉は自らの目を信じることにした。
「ーー良かろう。我が覇道の支えとして、その終生に至るまで尽くすが良い」
「はーー」
家康は即答する。
「かつて私は信長公に、その天下統一の覇業に人間をかけて尽くすと誓いました。それが叶わなかった今、その後継者たる殿下のその夢を叶うる機会を供にできること、至上の慶びで御座います」
「うむ――」
この誠実さの塊たる家康を、油断ならぬ東の北条に対する抑えとして使う。同様に忠義を誓っている浅井長政を、西の尼子大友への抑えに使うように。それが秀吉の、三河遠江政策の真意であった。
「しかし、殿下」
と、家康は不意に顔を上げ、秀吉を見据えて尋ねる。
「殿下の統一業は、間も無くしてその完了を迎えられましょう。その先は、如何なる統治をお考えで?」
「ふむ」
真っ直ぐに向けられた視線を前にして、秀吉は真面目な表情で答えを返す。
「これはまだ誰にも――小一郎にさえ――告げていないことだが」
秀吉は窓の外、大坂城の天守から見える遠い空とその向こうを見据えるようにして、告げる。
「この日ノ本を一統した暁には――かの国を、目指そうと考えている」
「――かの国?」
さしもの家康も、驚いた表情を見せる。
天下人・丹佐秀吉。
その、見据える先にあるのは――。
「――朝鮮、そしてその先にある・・・明国じゃ」
次回、第拾話。
「朝鮮出兵」編へと続く。
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