Crusader Kings Ⅲ Shogunate プレイレポート
異端なる物語はいよいよ佳境へと差し掛かっていく。畿内に舞い降りたその微かなる異物は、やがて瞬く間に巨大化し、畿内の諸勢力を飲み込んでいく。 この動きに危機感を抱いた天下人・織田信長は、これを打倒するための軍を挙げるも、天正9年(1581年)10月2…
それは、正しき歴史の一端に差し挟まれた偽りの断片に過ぎないはずだった。それは何事もなく見捨てられ、堆積した塵芥の一つとなるはずであった。 しかし、それ⚫︎ ⚫︎が持つ強き意志ゆえか、それは歴史の流れに大きな影響を与えうるほどの存在となり、その名…
永禄11年(1568年)、戦国時代末期。 尾張一国から瞬く間に勢力を拡大させた織田信長なる男が、前将軍弟の足利義昭を奉じて上洛、前将軍を弑殺した三好三人衆を屈服させ、畿内の支配を確立させつつあったその頃、その畿内にて悪名を馳せる「山の民」なる非合…
ヒジュラ暦518年。アラムートの城塞の中で一人の老人がその生涯を終えようとしていた。 彼は自らの信念と正義のもとに、暗殺教団と呼ばれる組織を作り、信仰の敵と対峙し続けてきた。組織は巨大化し、優秀な後継者にも恵まれ、彼は満足した様子でこの世を去…
1467年の応仁の乱以降、全国に広がった騒乱と混沌の「戦国時代」。 その「最終局面」が始まったのは間違いなく、1560年の「臼木ヶ峰の戦い」で、2万7千の今川軍を1万7千の織田軍が打ち破ったその瞬間からであろう。 そこから40年。 1576年にはその織田信長が…
百数十年にわたり続いた戦国乱世を平定した天下人・豊臣秀吉が、この世を去った。 遺された幕臣たちに課されたのは、この傑物が築き上げた静謐の世を維持し、後世に継承すること。 しかし、あまりにも偉大過ぎた存在の喪失は、この遺された政権に必然的に混…
かつては素性も知られぬ父母の下で生まれ育った木下藤吉郎秀吉。その知略でもって昇り龍の戦国大名・織田信長の下で名を上げ、丹波摂津を治める大大名へと成長する。 信長死後は織田家中における存在感をさらに高め、1586年には信長の後継者・信雄を臣従させ…
1576年の織田信長の死後、征夷大将軍の座は存命の次男・織田信雄の手に渡った。 まだ若年の信雄を支えるのは、信長時代からの重臣で各方面軍を担当していた丹佐秀吉・佐々成政・丹羽長秀・浅井久政の「織田四天王」。 しかし1578年には久政が謀反の末に敗れ…
1576年8月6日。 征夷大将軍となったばかりであった織田信長は、突如その命を落とす。 遺された織田家と幕府を引き継いだのはその嫡男の織田信雄。 そして佐々成政、丹羽長秀、浅井久政、丹佐秀吉といった信長重臣たち。 彼らは生前の信長の遺志を継ぎ、1577…
歴史はその細部を異にしつつも、大きな流れとしては変わらず流れていく。 この世界においても、戦国時代末期、織田信長という天才が現れ、瞬く間にその領域を広げていった。 彼は天下を手中に収め、新たな時代を築き上げた。 しかし、それは決して安寧に到達…
1560年の臼木ヶ峰の戦いにおける今川軍への勝利以降、破竹の勢いでその勢力拡大を成功させている尾張の大名、織田信長。 1572年には室町幕府を滅ぼした天下人・三好長慶を敗北せしめ、京周辺から摂津丹波に至るまでの広大な勢力圏を築き上げることに成功した…
我々の知っている歴史と似ているようで、少しずつ異なっているこの世界。 のちの天下人たる織田信長はこの世界においても1570年頃までの間に北近江・越前・加賀・伊勢に至る広い領域を支配するなど、その勢力を大幅に拡大させていた。 一方、史実同様に今川…
1560年。臼木ヶ峰の戦い。柴田勝家が今川義元を討ち取る。 1562年。稲葉山城合戦。疫病の流行で柴田勝家や前田利家を喪うも、同じく斎藤義龍も病死したことで美濃はすべて織田家のものとなる。 1563年。愛知川の戦い。北近江の浅井家に攻め込んだ足利・三好…
1560年8月15日。 尾張侵攻を目論み軍を進めていた今川家当主今川義元が、柴田勝家率いる織田軍1万7千の奇襲に遭い、織田方に滝川一益など重臣の犠牲を払わせつつも、その首を討ち取られることとなった臼木ヶ峰の戦いから始まるこの物語。 続く美濃攻略戦にお…
1560年8月15日。 三河国加茂郡の山中にて、織田攻めのため滞在していた今川軍本隊2万7千が、柴田勝家を総大将とする織田軍1万7千によって奇襲を受ける。 織田軍は勇将・滝川一益が討ち取られるなど大きな被害を出すも、勝家の手によって敵総大将今川義元の首…
それは、天に二つの太陽が在るが如しであった。 一方の太陽は長宗我部元親。20代の頃より家督を継承し、土佐一国のみならず瞬く間に四国全土を統一した、恐るべき「四国の狗鷲」。 もう一方の太陽は織田信長。こちらも20代の頃より尾張一国から美濃・伊勢・…
四国を統一した長宗我部元親、そして足利将軍を追放し畿内に新たな政権を打ち立てた織田信長。 元亀3年(1575年)に一度矛を交えるも、この両雄が再び激突することは時間の問題であった。 かくして天正2年(1582年)。 信長の毛利領侵攻をきっかけとし、元親…
四国南部・土佐の一領主に過ぎなかった長宗我部元親は、1560年代後半からその領域を広げ、かつての天下人・阿波三好家との激戦をも制し、元亀元年(1573年)には讃岐を除く四国のほぼ全域を統一するに至った。 だがここで、畿内にて勢力を伸ばしつつあった尾…
古来より土佐の国は北を四国山地、南を太平洋に塞がれた陸の孤島として、罪人の流刑地など散々たる扱いを受けてきた。 しかしやがて戦国時代に突入すると、この土佐の地では細川や一条などの守護代・国司勢力を凌駕する地方豪族たちが力をつけ、彼らはやがて…
長宗我部元親。 長宗我部家復興を実現した名将・国親の嫡男として天文八年(1539年)に土佐国岡豊おこう城で生を享ける。永禄三年(1560年)には父・国親が土佐郡朝倉城主・本山氏を攻めた長浜の戦いにて初陣を飾り、自ら槍持って突撃する勇猛さを見せるなど…
北条(きたじょう)高広。 こんな名前だが北条(ほうじょう)氏とは何ら血縁関係はなく、むしろ毛利家との関係の方が深い・・・というよりも毛利元就を含む安芸毛利氏よりも正嫡ですらある由緒正しき家柄だ。 そんな彼は戦国時代の真っ只中で、上杉輝虎(の…
天正6年(1578年)7月21日。織田信長、遠行。本能寺にて休まれている間に、何者かにより襲撃され、身柄不明に。 この混乱の中、織田家の実権を巡り、その筆頭勢力であった明智光秀と羽柴秀吉が全面対決。柴田を味方につけた明智方優位に進むも、天正9年(158…
明智家。 清和源氏土岐氏の流れを汲むとされるこの一族は、美濃国の斎藤家内紛に巻き込まれ滅亡間際に追いやられるも、そこから逃れた光秀なる男がのちに天下人・織田信長の側近となったことで歴史の表舞台へと登場する。 その出自においては不明な所の多い…
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い以降、破竹の勢いで勢力を伸ばしていた尾張の大名・織田信長は、天正6年(1578年)7月21日に起きた本能寺焼失事件にてその消息を絶った。 以後、織田家はその嫡男・信忠を新たな当主に据えるも、有力家臣たる明智光秀・羽柴…
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い以降、破竹の勢いで勢力を伸ばす尾張の大名織田信長。 元亀年間(1570-1573)には浅井・朝倉・本願寺・武田らが加わった「信長包囲網」によって窮地に陥るが、これを救ったのが信長重臣の一人、明智十兵衛光秀であった。 浅…
元亀2年(1571年)9月。織田弾正大弼信長は、浅井・朝倉・本願寺らによる信長包囲網を打開すべく、近江国滋賀郡に位置する聖山・比叡の焼き討ちという前代未聞の所業を果たす。 その後、この滋賀の地を与えられたのが明智十兵衛光秀。出自不詳で織田家への合…
関東最強の家宰としてその名を轟かせた太田道灌は、史実においては主君・上杉氏により暗殺され、その一族はその名声を超ゆることなく歴史の中に埋没していき、道灌亡き後混乱した関東はやがて、伊勢宗瑞と呼ばれし部外者によって蹂躙されていった。 しかし、…
文明十一年(1479年)。 すでに管領・細川勝元らの反乱や、側近・伊勢貞親の裏切りもあり、その権威を大きく失墜していた室町幕府は、越後上杉家当主・上杉顕定が中心となった大規模な反乱により、その命脈を実質的に絶たれる事態に陥っていた。 天下はこれ…
室町時代末期。 当時の関東は関東管領に任ぜられた上杉家と鎌倉公方との対立が激化しており、これが上杉方の勝利で終わったのちも、上杉家内での内紛が巻き起こるなど、五十年以上にわたる混乱が続いていた。 この状況を憂えた扇谷上杉家家宰・太田道真は、…
時は室町時代末期。 天下は八代将軍・足利義政の代であったが、嘉吉の乱以降の混乱により既に幕府の権威は地に堕ちており、地方では地場の有力諸侯がほぼ独立した権力を握り始めていた。 ここ関東も例外ではなく、関東管領に任ぜられた山内上杉家が関東一帯…