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【CK3】江戸城の主・結 小さき弥陀・太田道端(1534-1549)

 

関東最強の家宰としてその名を轟かせた太田道灌は、史実においては主君・上杉氏により暗殺され、その一族はその名声を超ゆることなく歴史の中に埋没していき、道灌亡き後混乱した関東はやがて、伊勢宗瑞と呼ばれし部外者によって蹂躙されていった。

しかし、この世界では異なる運命を描くこととなる。太田道灌の父・太田道真は逆に上杉氏を打倒し、関東管領の地位を奪い取る。

道灌はその後、越後上杉氏主導の道灌包囲網により危機に瀕するが、海野夜戦と五ヶ国崩しという大戦略によりこの危機を脱出。越後上杉氏を服従させ、武田・今川とも同盟を結ぶなど、関東における覇権を決定的なものとした。

そして道灌の子・資房は、甥の寅丸を擁立し、細川氏の傀儡となっていた将軍・足利義尚を追放。寅丸を第十代将軍・足利義澄として即位させ、権威を復活させた足利幕府の実質的な最高権力者となった。

かくして、父・道灌を超える名声を手に入れ、史実を超えた拡大を決定的なものとした太田資房。

その生涯は76年にも及び、最後まで天下の覇王として君臨し続けた英王は天文三年(1534年)に没する。

 

遺されし広大な帝国を継承せしはその嫡子・太田武蔵守資政

しかし、あまりにも広大なその帝国の継承は決して容易ではなく、彼は即位直後に巨大なる壁に直面することとなる。

 

Crusader Kings Ⅲ AAR/プレイレポート第8弾Shogunate「太田家」編最終章。

果たして、その一族の物語は最後にどんな未来を見せるのか。

 

Ver.1.11.3(Peacock)

使用DLC

  • The Northern Lords
  • The Royal Court
  • The Fate of Iberia
  • Firends and Foes
  • Tours and Tournaments
  • Wards and Wardens
  • Legacy of Perisia

使用MOD

  • Japanese Language Mod
  • Shogunate(Japanese version)
  • Nameplates
  • Historical Figure for Shogunate Japanese
  • Invisible Opinion(Japanese version)

 

目次

 

前回はこちらから

suzutamaki.hatenadiary.jp

 

天文の乱

動乱前夜

太田資政は、文明十七年七月十四日(1485年9月2日)、太田資房と斯波家の娘との間の最初の男子として、江戸で生を享けた。

当時すでに父・資房は太田家の家督と関東管領の地位を継承しており、松千代(資政の幼名)は将来の家督継承候補筆頭として寵遇されていた。祖父・道灌と対立した武田氏との和睦の際には、武田の娘との婚約を早くから定められてもいた。

1510年に資房が朝廷の命を受け越前を攻め落とした後は、その重要拠点たる越前の守護職を任され、大永二年(1522年)には一乗谷に引き篭もる朝倉貞景を打倒。これを獲得するに至る。

その頃には父も五十を優に過ぎており、また資政自身も三十半ばで良い頃合いであった。祖父や曽祖父のように、この辺りで資房も出家し、実権はともかく少なくとも家督は資政に継がせるのが通例であるように思われていた。

しかし、資房はそうはしなかった。彼は前例と異なり、いつまでも家督を譲ろうとはせず、さらには資政を越前に置き続けていたのである。

それは、世間からは余り評判の良くない資政への家督継承を資房が渋っていることの表れなのではないか――そのように囁く者たちの声は、否が応でも資政の耳にも入ってきていた。

それならそれで構わぬと、資政は考えていた。大きな野心はなく、自らの実力も自覚していた彼は、今与えられし越前で十分、兄弟の誰かが家督と関東管領の座を受け取るならばそれでも良いとさえ思っていた。

しかしその一方で父は、その晩年において、死後その領地のすべてを長子のみが相続するという法律への改正を行なってもいた。

これはすなわち、実質的な資政への後継者指名である。

一方でやはり正式なものは何一つなく、実権についてもその死の瞬間まで決して手放そうとはしなかった。

父の考えていることは理解ができなかった。それはおそらく資政だけでなく、親族一同や彼の家臣たちの多くにとっても。

いずれにせよ天文三年八月二十日(1534年10月7日)の太田資房の死により、新たな太田家当主及び関東管領の地位は資政に継承された。

そしてその事実を彼は、父の死の翌日に早馬によって越前の地で耳にしたのである。

 

「実に見事だな。江戸に来るのは十年以上ぶりかと思うが、その頃と比べても随分と様変わりしている」

八月三十一日(10月18日)。最低限の供回りだけ連れて取り急ぎ江戸にやってきた資政は、江戸の絢爛たる城下町の偉容に驚き、きょろきょろと首を回し続けていた。

「殿、あまり落ち着かぬ様子を見せないように。今や殿はこの江戸の主。町民も目敏く殿の資質を見極めようと注目しております故、威厳は決して崩さぬよう」

資政と馬を並べて江戸城への道を歩むは、彼の護衛兼侍医を務める長綱という男。

元は資政が越前にいた頃から茶人として仕えていた男であったが、医学や歌道にも通じるその聡明さから次第に資政にとっての重要な「相談役」すなわち側近中の側近となっていた。

叙勲騎士としては「太田の茶頭」の異名を持ち、騎士の上限を+1するという強力な「相談役」特性を有する。

その正体は史実における北条幻庵。この世界では伊勢宗瑞が生まれていないため後北条氏自体が存在しておらず、その才ある存在が平民として不意に誕生した様子。

 

「そう言えば長綱も元は関東の生まれだったよな。お前にとっても懐かしい光景なのではないか」

「さて、どうでしょうかな。拙者にとっては、殿と出会うて頃からが真の人生のようにも思われるものです故、故郷の思い出というのも色褪せてしまうもの」

他愛もない会話を交わしつつ、両名はやがて江戸城――太田道灌が手掛け、太田資房が増改築を繰り返し完成させた天下不双の名城。今や将軍以上の権力者たる太田家の威容を象徴する建物――の中へと吸い込まれていった。

 

「――して、情勢は如何ほどに」

広間にて長綱と二人きりになった資政は、険しい顔で尋ねる。

「はい。事前に間者を関東に送り調べさせておりましたが、やはり不穏の種が多くばら撒かれている様子。その筆頭は下総守護の千葉氏に御座います」

なお、物語上では資政を関東管領、足利義晴を資政の主君たる征夷大将軍として設定しており、画像もそれ用のものを用意して使っているが、実際のゲーム上ではこの時点で太田家が独自の幕府を成立した状態で進めている。よってこの画像でも「幕府」請求戦争となっているが、関東管領と読み替えていただければ幸い。

 

「千葉か・・・宗家の反乱に対し父が温情をかけ、庶家には引き続き下総の統治を認めさせたにも関わらず、結局は太田に楯突くか。やはり根絶やしにせねばならんのかのう」

「ええ――ただ、厄介なことに、奴らは殿の次男であられます資冬(すけふゆ)様を擁立し、殿の退位を要求する派閥を作っております。そしてその中には太田家一門の姿も多くみられ、殿が御嫡男、資実(すけざね)様のお名前も」

「我が息子たちが我に弓引くというのか」

資政は流石にショックを受けた様子で、項垂れる。

「擁立された当の資冬様自身はこれに乗り気ではないようで、もし反乱が起きた際には殿について戦う御意志があるようです。実質的には資実様が主導となった陰謀と言えるでしょう」

「何を考えているんだ、奴め・・・」

頭を抱える資房。もちろん、年齢だけで言えば、曽祖父・道真や祖父・道灌が如く、出家して息子に家督を継いでもおかしくない頃合いとなってはいるが、そもそも父・資房がそのようにせず死の瞬間までその実権を手放さなかった中で、ようやく手に入れた地位でもある。兼ねてより権力への志向はないに等しかった資政ではあるが、かといってこのように実力行使に出られるとなると素直に渡す気にはなれない。

それに、資実の反乱となると、彼自身というよりはその背後の存在が気になるところである。

「――管領殿の動きは?」

「ええ、流石は殿。御明察で御座います。我もすぐにその思いに行き当たり、調べさせております。まだ結果は出ておりませぬが、ほぼ間違いなく、資実様の義父にあたる管領・細川右京兆殿が糸を引いているかと存じます」

「江戸に向けて発つ前にすぐさま京に遣いを派遣し、もしもの時に備えた約定の締結を政房殿と結ぼうとしておりましたが、こちらも何かと理由をつけて拒否されている状況。剣呑限りなしで御座います」

「天下に覇を成す太田家は敵ばかり。父の死に伴い、その弱体化を狙う禿鷹共が俄かに勢いを増してきたか・・・我も権力の座にしがみつくつもりは毛頭ないが、曽祖父の代より続く太田家の栄光を我が代で潰すわけにはいかぬ。

 やる気というなら、受けてたとう。長綱、助力頼むぞ」

「勿論で御座います、殿。元より我が身は殿が為に尽くす所存。その全霊を以て御守り致しましょう」

 

河内の戦い

天文五年正月十九日(1536年2月20日)。

千葉氏第二十代当主・千葉綱胤を発起人とし、資政に対する太田家当主及び関東管領職の退位及びその次男・資冬への譲位要求が突きつけられる。

だが、資政はすぐさまこれを拒否。そして同盟国たる斯波氏にも支援要請を行いこれが受諾されたことによって、新関東管領・資政即位からわずか一年半で、東日本全域を覆う巨大な内乱が巻き起こることとなったのである。

 

「さて、どうするべきか。敵側は一万六千もの大軍。普通にぶつかり合えば勝ち目はないように思えるが」

資政の言葉に、長綱は頷く。

「確かに、総州から磐城、陸中南部、伊豆に甲斐信濃木曽と、広大な地域で蜂起が発生しており、その総兵数は莫大なものとなります。これらすべてを同時に相手しようと思えば対応は難しいでしょう。

 ですが逆に言えば敵の勢力は分断されており、こちらが戦力を集中させることで各個撃破は容易となります。既に事前にこの江戸に、反乱軍に与しなかった勢力を呼び寄せております。彼らに兵を率いさせ、まずは江戸に近い、資高殿のおわす荏原郡、そして政資殿のおわす埼玉郡を攻めるのが良いでしょう」

 

二月朔日(3月3日)。

まずは越後守護長尾為景が率いる三千の兵が江戸南部・荏原に向けて侵攻を開始。

太田家一門の太田資高が領する世田谷城は成す術もなく包囲され、四か月後にはこれを陥落させる。

長尾軍の出立と同時に、今度は陸奥国の守護を任せてある久慈伊勢守忠広*1が同じく三千の兵を率いて江戸北部へと出立。

資政の従弟にあたる太田政資が領する埼玉郡・岩槻城を包囲。こちらも五ヶ月後に陥落させた。

もちろん、反乱軍側もやられているばかりではない。反乱軍筆頭の千葉綱胤が、四千の兵を集め、筑波郡・小田城を包囲。江戸侵攻に向けての橋頭保を築こうと画策する。

これを受け、資政は世田谷城・岩槻城を包囲中の部隊から最低限の兵のみを残し、残りの七千の兵を糾合させた上で弟の太田兵部大輔資経に率いさせ、筑波へと後詰に向かわせる。

さすがにこの大軍を相手にはできず千葉軍も退却。これを河内郡で捕えたことで、本戦役最初の大規模な野戦が繰り広げられることとなった。

遮るもののない平原の地に、総勢一万二千の兵が並び立つ。足軽の数では太田軍が圧倒。一方で弓兵・槍兵の数は千葉軍側優勢。そして太田軍側には精鋭の武将と少数ではあるが騎馬武者の姿も確認されていた。

千葉軍側も健闘し、戦いの中で資政の客将となっていた織田信秀も討ち取られるなど、太田軍側にも相応の被害が生じる。

一方で千葉軍側も、反乱軍側についた太田家一門の資顕や千葉氏の一門も討ち取られ、その他重傷者多数。

最終的に敵兵の三分の一を戦死させるほどの大損害を与え、この「河内の戦い」は快勝と相成った。

太田軍で最も戦功を挙げたのは、当代随一の武辺者と称されし黒川右馬頭氏業。六尺を超える長身で十尺を超える長さの槍を自在に振り回し、雑兵を寄せ付けず一方的に首を獲り続けたという。その他、長野業正長尾親泰古川虎泰といったいずれも世に名だたる勇猛の徒を従え、彼らは太田四天王と呼ばれたとか。


戦勝に沸く本陣。続けて資政は敗走した千葉軍の残党を討ち取るべく追撃を資経に命じる遣いを送り出す。この調子で長綱の言う通り、各個撃破していけば・・・

 

そう考えていた資政のもとに、急使がやってきて衝撃の報せをもたらした。

「注進! ご注進――ッ! ・・・反乱軍側に与し甲斐国主・武田信虎軍が高島城を包囲! 当地を守ります甲斐宮内大輔殿が抵抗を試みているものの、陥落は時間の問題かと思われますッ!」


戦いは、第2ラウンドへと進むこととなる。

長綱の計略

「義弟殿が・・・」

報せを受けて、資政は絶句する。高島城を守る甲斐貞晴は妹を嫁がせており、重要な同盟相手であった。

それだけではない。高島城は京都のすぐ北に位置する要衝であり、ここを落とされれば越前と京とを結ぶ最短経路を寸断されることを意味し、将軍が敵の手に落ちるのを許してしまいかねない。

「何とかせねば――関東の兵の半数を後詰に出して・・・」

「落ち着かれよ、殿」

動揺する資政を、長綱が冷静な声色で制す。

「御心配なさらずとも、武田の動きは拙者の予想通りで御座います。寧ろ、奴が本国を離れるこの時を待っておりました」

「何――?」

聞いていないぞ、と抗議する資政に、申し上げておりませんので、と平然と応える長綱。

「既に手筈通り、甲斐国内にて動きが起こり始めている頃合いでしょう――即ち、信虎が嫡子・晴信を旗頭とした、当主信虎に対する謀反の動きが」

「――予め謀っていたのか」

「ええ。もとより信虎殿に対する甲斐国衆たちからの評判は芳しくはありませんでした。国内の安定よりも対外政策に力を入れるその志向や、独立心の強い甲斐の国衆を力で無理やり押さえ込もうとしていた姿勢は、いつ反発が起きてもおかしくないものでした。そこで、信虎殿の叔父にあたる縄美殿や信友殿に協力を頂き、信虎殿を強制的に退位させ、その子である晴信様に家督を譲ることを目的とした反乱を起こしてもらったのです」

「成程・・・さすがだな、長綱・・・」

「有難う御座います。これで武田率いる反乱軍西方戦線の動きはある程度押さえ込めるでしょう。その間にまずは東国、千葉氏側を完全に押さえ込む込んでしまいましょう」

 

長綱の言葉に従い、総州での攻勢を強めていく太田軍。真里谷城のある望陀郡での戦いに勝利し、千葉氏本拠となる土気城も陥落させ城代の津野摂津守を自害させるなど、着実に戦果を挙げていく。

磐城方面の反乱勢力も伊達家の助力により鎮圧。

甲斐においても縄美ら反乱勢力が順調に城を落としつつあり、全体として状況は資政側の優勢へと傾きつつあった。

開戦から2年ほどが過ぎた天文七年(1538年)に入ると東国はほぼ全域を鎮圧し終え、当初1.5倍程の差があった総兵力においてもほぼ拮抗した状況にまで持ち込みつつあった。

 

次なる目標は北信濃――越後国衆と連携し、北方からこれを圧迫し、東西の分断を図る。

その計略を携えて資政は自ら兵を率いてその地へと向かう。

 

――そして運命の地へと至る。

 

海野の戦い

天文七年(1538年)春。

太田軍七千の兵は千曲川を上り、海野の地にてついに反乱軍残党三千を捉える。

太田軍の総司令官は久慈伊勢守。山岳に囲まれた攻めるには難しい地形だけに、彼の臨機応変な用兵術はこの戦いを制する上で最適な選択肢であった。

戦いは苛烈を窮め、太田軍側の犠牲も非常に大きかったものの、それでも勝利をもぎ取ることに成功する。

 

だが、問題はこの後であった。

「――殿、大殿ッ!」

海野の陣中にて報告の束を裁いていた資政は、血相を変えてやってくる長綱を怪訝な顔で迎える。

「どうした、騒々しい。それにどこに行っていたのだ。予一人でこれだけの書状を処理せねばならず、苦労していたぞ」

「それどころではありませぬ・・・殿、今すぐここから退却するべきです」

「退却? 何を言っておる。この海野の城を押さえてこそ、この先の戦役の趨勢をより優位に傾かせることができると申したのはそなたではないか」

「状況が変わったのです。物見からの報告で、西方より敵軍四千がここに近づきつつあることが分かっております」

「四千? それならば恐るるに足らんであろう」

資政は苦笑する。

「我らは先の戦勝に拠って勢いに乗っている。寧ろこれは各個撃破を進める好機ではないか。地の利は今やこちらにあり。ここで退却なぞすれば、我が軍全体の士気にさえ関わる」

しかし長綱は表情を変えず、語気を強めて迫る。

「乱は治に生じ、怯は勇に生じ、弱は彊に生ず。治乱は数なり。勇怯は勢なり。彊弱は形なり。勢いなぞ、戦いの中で一瞬のうちに変わってしまいます。先ほど陣内を隈なく見て回りましたが、いずれも血気盛んというよりも弛緩してさえおります。既に戦いは三年目に入り、同胞の屍が積み重なる中で兵たちの士気は既に下がり切っております。

 関東にて招集した新たな部隊との合流を優先し、万全を期して迎え撃つべきです」

「時間がありません、大殿、決断をッ!!」

「わ、分かった」

普段冷静な長綱の思わぬ剣幕に、資政もそれ以上の抵抗は諦めざるを得なかった。

「すぐさま兵を纏め撤退をしよう」

 

「――太田軍に動きがあったと?」

「は。どうやら撤退を決めたようです。海野城を包囲する兵が少なくなりつつあります」

「フン・・・優秀な軍師がいるようだな。だが、奴らも緒戦は烏合の衆。撤退を決めて、すぐさま全軍がそれに従う程の統率力はあるまい」

山林を突き進む反乱軍を率いるのは上杉憲次上杉朝定の孫にあたり、代々伊豆守護の座を継承している「河津上杉家」の現当主である。太田家によってほぼ壊滅状態にまで追い込まれた上杉家の復活を誓い反乱軍に加わり、千葉家・武田家が脱落しつつある中、残る反乱軍の中でも中心的な立ち位置を得つつあった。

とくにその類稀なる戦略・用兵術によってここまでの戦役の中でも局地的な勝利を重ねてきたこともあり、この海野襲撃軍四千の指揮権を完全に掌握。資政軍の中に忍ばせた内通者たちを用いてその状況を完全に把握した上で、決戦へと挑もうとしていたのである。

「多少の犠牲は構わぬ。我らの軍が先行して奴らに仕掛けるぞ。さすれば後方の兵たちも勢いづくだろう。

 ――決して逃がさぬぞ、太田よ。必ずや、一族の復讐をこの手で果たして見せよう」

 

天文七年四月十八日(1538年5月26日)。

資政の軍は海野城の包囲を少しずつ解除し、ようやく撤退に向けての動きを開始し始めることができた。しかしすでに長綱の進言から丸一日近く費やしていた。その間、資政が述べたことと同様の理由で渋る久慈伊勢守始め諸将の説得に手間取っていたのである。

故に、彼らが兵を動かし始めたとき、西方の峠より、その一団がやってきた。

もはや逃げ切ること能わず。そのことを理解した資政は長綱の了解を得て部隊を反転。迎撃に出ることにした。

まずは敵軍先発隊八百。これを壊滅させ、後詰を万全な体制で迎え撃つ。

が、間に合わない。反転対応に時間を取られていた中で、次々と兵を集められ、戦いは互角へと戻されてしまった。

さらに敵兵には、海野城から出てきた守備兵たちも合流したようで、勢いにおいては完全に相手側に奪われてしまったようだ。

そうなると、形勢は一気に逆転する。

長綱の言葉通り、怯は勇に生じる――先ほどまで威勢の良い言葉を並べ立てていた兵卒たちが、恐慌をきたし武器を投げ捨て、てんでバラバラに逃げ始めたのである。

それは、資政の軍の中枢においてさえ、である。

 

「――待て! 貴公ら、なぜ逃げるッ! 堪えろ! ここを崩されれば我らが背後は本陣ぞ!」

資政が次男、太田資冬は、恐慌をきたす配下の兵たちに囲まれながらも、勇猛に刀を握り、迫りくる敵兵に向き合っていた。資政の子らの中でもとりわけ勇敢な彼は喉を涸らさんばかりに声を上げ兵たちを奮い立たそうとするも、その周りの兵数は着実に減りつつあった。

「なぜだ・・・! なぜ・・・!」

「これが戦いというものなのです、若」

その資冬の傍らで、その背中を守るようにして立つ男が、諦念を染み込ませたかのような声で答える。

「若・・・どうぞお逃げ下さい。もはや、この勝敗は決しております。今はとかく逃げ延びて、そして場合によっては反乱軍のもとに降りなされ。もとより奴らは若を旗頭にして兵を挙げており、自ら投降した若のお命を奪うことはしないでしょう」

「――ならぬ」

信頼する側近の言葉を、資冬はにべもなく切り捨てた。

「今我が奔れば、誰が父を救えるのか。父は世の中においては悪し様に言われることも多いが、その実繊細で人一番心優しい御方だということは、誰よりも予が知っておる」

それに、と資冬は口の端を上げた。

「兄上がこうして父に刀を向けたのだ。この乱に勝利せば、次の太田家当主の座は予に転がり込んでくるだろう。次期当主として、格好悪いところは見せられないさ」

「若――分かりました。それならば、我が命に代えても、その身、御守り致す」

「忝い――来るぞッ!」

 

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戦いは、およそ八時間にも及んだ。

双方、数多くの屍の山を築き、刀・矢ともに折れ無数に散らばり、千曲川は血の色で染め上げられたという。

結果として、資政の軍は敗北した。それでも、その兵の損害は全体の四分の一程度に収まり、資政自身や重要な武将の多くは無事、小県からの脱出を成功させた。

だが、それでも部隊の中には沈鬱な雰囲気が漂っていた。何しろ、より一層重要な存在がこの戦いで喪われたのである。

すなわち、資政の次男であり、嫡男・資実の裏切りの結果実質的なその家督継承候補となっていた勇壮なる資冬の討ち死にである。

六月十三日(7月19日)に江戸に帰り着いた資政は魂の抜けた抜け殻のようにして倒れ込み、具足を自らの力で脱ぐことも能わぬ程の様相。もはや、側近の殆どがうかつに声をかけることもできない様子であった。

「――殿。我らとの合流を狙って江戸から出発していた別動隊も、憲次の軍と鉢合わせ、壊滅したとの報せ。再び状況は劣勢に転じております」

唯一声を掛けられる男である長綱の言葉にも、資政はすぐには反応できず。

虚ろな目を二、三瞬いたのち、ようやくゆっくりと口を開いた。

「長綱よ・・・予はどうするべきなのか。このまま戦いを続けることに、意味はあるのだろうか・・・?」

「――それは私にはお答えでき兼ねます。私にできることは、殿が必要とする情報を整理し、お渡しすることだけに。ご決断は、殿に委ねられております」

長綱の言葉を、資政はゆっくりと時間をかけて咀嚼していった。長綱もまた、それをじっと見つめ待ち続けた。

「・・・今や奴らが旗印にしていた資冬はおらぬ。今、予が降伏を認めれば、資実が当主の座を得るだけとなろうな」

「ええ――その通りで御座います。反乱軍も戦いに倦んでおり、資実殿の後ろ盾に立つ細川方の圧力もあるため、太田家から関東管領の地位を奪うようなことまではしないかと存じます」

当初の開戦事由(資冬の請求権行使)が無効となったため、戦争の種類が「暴政への反乱」に切り替わり、敗北による効果が退位のみとなった。

 

「ならば・・・ここで諦めるのも一つの道よの。寧ろ抗うことで、より多くの屍が築かれてしまうことは必定。太田の名が残る以上、予の自尊心の為だけに、これ以上関東の民の血を流させるわけにはいかぬ・・・」

呟く資政を、長綱は沈黙したまま見守っていた。資政も目を伏せたまま、ある一つの記憶を脳裏に蘇らせていた。

 

それは、彼がまだ十かそこらの頃の記憶。

祖父・道灌――その人生の終端に至らんとしていた頃の彼の言葉が、今更ながらに資政の記憶に浮上してきたのである。その時は全く理解できず記憶にも残っていなかったはずのそれが、不意に天命にようにして降りてきたのである。

「――自らの行いが、全て正しきことであったのかという疑いは、常に自分の中に残り続けていた。父・道真より受け継ぎしこの巨大なる土地と民とを預かる責任を、儂は余りにも真面目に受け取りすぎておった。

 だが、仏門に入り、学びを深めるにあたって、その思いこそが、傲慢の極みであるという理解に至った。因果は応報し、安心は回向をも含む。それ故にこそ人は、念仏をただひたすらに唱えるのだ。事の善悪はなべて阿弥陀仏のみぞ知る。最後に浄土に行こうが地獄に落ちようが、それこそ我が立命。そこに責任を負う必要はないのだ、と。

 だが――松千代よ。汝が父は、賢すぎるが故に、その境地に至ることを懸命に拒んでおる。その先は苦悶しかあるまい。

 松千代よ・・・もし汝が父が最後までその思いのまま果てんとしたときは、どうかその思いを背負ってやってくれ。汝が将来果たすべき責任は、この広い国を治める責任でも、太田家のすべてを負う責任でもない。

 ただ、この儂でも救うことのできなかった左馬助の為だけに、わずかな責任を負ってやってくれ。小さき弥陀よ」

 

資政はゆっくりと目を開けた。

長綱は彼のその瞳に、はっきりとした意思が宿っていることを確認した。

「長綱よ」

「は」

「――ここから先、予は一国の主であることの責任を放棄する。ただ予は、太田資房が子であることの責任をのみ負い、その生を肯定することのみをこそ是として物事を決断するであろう。その先にあるのは、修羅の道やも知れぬ」

「構いませぬ。例え、御身が地獄に落ちようとも、我は最後まで付き従うこと、誓いましょうぞ」

 

結末

天文七年十一月から十二月(1538年12月から1539年1月)。

体制を立て直した太田軍は秩父、足柄と次々に勝利。敵兵も先の戦勝に気を良くしたのちに再び統率が失われ、少兵が散り散りになっていたところをいずれも狙い、強襲した形である。

足柄では反乱軍に加わっていた従兄弟の政資の身柄も確保。

そして――資政は、この政資の処刑を命じたのである。

男子のいなかった政資の領地は自動的に没収され、その一部を甲斐国での反乱を成功させた晴信に分け与える。

これにて、その軍才に高い評判をもつ晴信を、忠実なる家臣とすることに成功し、西方の守りをより強固に固めることとなった。

さらに翌天文八年(1539年)の春には河津上杉家の拠点・河津城を陥落させ、その娘の身柄を拘束する。

これを受け、反乱軍側は資政に対する「和平」の申し出を行うこととなる。すべてを水に流し、再び平和なる関東を取り戻そう、と――。

 

だが、資政はこれを拒否。

そしてその返礼とでも言うように、捕えていた上杉憲次の娘の処刑を敢行した。

 

これらの一連の苛烈な処置を受け、反乱軍側の士気・統率は地に落ちた。

以後、彼らは一切の統一した動きを取ることはできず、一部の寝返りや降伏も相次ぎ、その勢力はみるみるうちに減衰していった。

 

そして――天文十一年四月十三日(1542年6月6日)。

鎌倉で行われた最終決戦の末に千葉綱胤の次男・勝胤を捕縛したことを最後のきっかけとし、反乱軍側は降伏を受け入れ。六年に及んだこの「天文の乱」はついに終息を迎えることとなったのである。

そして、反乱に与した諸勢力たちは次々とその領地を取り上げられ、主要メンバーについてはその後切腹を命じられることとなった。

それは太田一門に関しても容赦なく・・・

実の嫡男である、資実についても、例外は赦されなかった。

 

「――ご大儀で御座いました」

長綱の言葉に、資政は頷く。その表情にはありありと疲労の色が浮かんではいたが、しかし目の奥に光る決意の炎に揺らぎはなかった。

「その中で大変申し上げにくいことでは御座いますが・・・別軸で拷問をしていた諸侯より、興味深い話を集めることができました」

只事ではなさそうな長綱の表情に、資政は姿勢を正し耳を傾ける。

「・・・どうやら今回の反乱に加担した勢力の下には、このような書状が出回っていたようです」

手渡されたその書面を開き、目を通したのち、資政は肩を震わせ始める。その両の手には力が込められ、今にも書状を引き裂かんばかりであった。

「――将軍、義晴公」

「その通りで御座います。巧みに隠してはおりますが、それは紛れもなく将軍から諸大名への反乱催促の指令書。恐らくは細川と手を組み、謀ったものとなるでしょう」

「そうか・・・」

資政は口元に笑みを作る。それは彼のもつ生来の残虐さを形にしたかのような笑みであった。

「知っておるか、長綱。予はかつて、父になぜ関東管領のまま留まらんとしているのかと尋ねたことがあった。父は自ら征夷大将軍の座を得られるだけの力と権利があるのではないかと」

「しかし父は予を諭したよ。それは間違っていると。それは新たな戦乱の火種を産むことにならんと。大いなる秩序を保持し、これを弼くことこそが、力有る者の責務であると」

資政は遠い目で天井を見上げる。

「――だが、それも思い返せば、父の強い責任感故に背負い過ぎた過ちであった。予はその全てを清算しよう。そして本来有るべき姿へと我が手で戻さん。我が手は既に汚れておるが故、これ以上の悪を何故恐れようか」

 

そして、物語は最終章を迎える。

 

 

天下分け目の決戦

太田盆地の戦い

天文十二年二月五日(1543年3月20日)。

関東管領・太田資政は、突如として自身の一万を超える大軍勢で以て上洛。

将軍・足利義晴の籠る室町御所を襲撃し、たちまちのうちに義晴を降伏させた。

ここに、二百年以上続いた室町幕府はついに終わりを迎えたのである。

当然、これまで将軍に楯突くことはあっても、その代わりとなる将軍さえ置かずにこれを滅ぼすというようなことは、この二百年においては例を見ないことであった。

しかしすでに先の天文の乱において見せた資政の苛烈さを前にして、これに反抗しようと考える勢力は少なくとも東日本には誰もおらず。

そして朝廷もまた、その太田軍一万の威圧の前にすぐさま平伏し、直ちに資政のもとに勅使を派遣。

彼を新たな征夷大将軍とすることを決定した。

 

「――この度の将軍職任官、御祝着に存じまする」

京都・二条御所。元は斯波氏の邸宅(武衛陣)であったが、同盟国太田の将軍職任官に伴いその祝儀も兼ねて譲渡されたものを改築し、在京時の太田将軍の御所として仕上げたこの屋敷に、次々と東日本の諸大名たちが上洛し、挨拶に参上してきていた。

そのうちの1人がこの男、今川義元であった。

「将軍様に置かれましては、先達ての我が駿河国奪還の助力まで頂き、誠に感謝しきれぬ思いで御座います」

駿河国は義元の父・氏親から長兄の氏輝に継承されていたが、それを15年前に遠戚の今川範氏に奪われ、兄も殺されていた。今回はその仇討と所領奪還を成し遂げたこととなる。

 

「何、必要の為にしたこと。これで駿河も安定し、犬猿の仲とも言うべき甲駿の関係も緩和に繋がれば良し」

「ええ。勿論で御座います。将軍様の配慮で、これもまた諍いの絶えなかった越甲の間柄も安定しているとのことで、これぞ泰平の世と言うべきですかな」

義元の目は真っ直ぐに資政に向けられている。口ぶりは穏やかだが、その背後には資政に対する問いかけが含まれていることを、資政もよく理解していた。

即ち、何故という問い。これが真に泰平の世が為、と信じてはいない目であった。

「――勿論、目的は泰平である」

資政は微笑み、回答する。

「だがその前に、一つ重要なことがある。その為に貴公ら今川、武田、長尾の力を存分に借りる必要があり、今回の施策はその為の一手となる」

「・・・細川の件、でしょうな」

義元の言葉に、資政は頷く。

西国、四国の統一を果たした管領・細川政房は、北九州と中国地方を制した大内元経大内政弘の孫)と同盟関係を結び、追放された元将軍・足利義晴を受け入れた上で太田家との全面対決に向けた準備を着々と進めつつあった。

資政にとってもこれは、避けられえぬ戦いであった。

真の太平の世を手に入れるためにも、そして何よりも――父の目指したものが間違いではなかったということを証明するためにも。

 

天文十五年三月二十二日(1546年5月2日)。

太田資政は足利義晴の身柄引き渡しと服従を要求して細川政房に宣戦布告。

対する細川も同盟国の大内を引き入れ、日ノ本を東西に分断する天下分け目の決戦が幕を開けた。

 

すぐさま京都・二条城に集まる太田軍一万二千。

敵の出方が分からぬため、西と南とに部隊を二つに分け、それぞれ第一軍を越後守護・長尾景虎に、第二軍を甲斐守護・武田晴信に率いさせ、進軍させる。

と、その時日本海を渡って細川軍五千が越前に上陸しようとしているとの情報を掴む。

越前は資房が後継ぎ、太田式部大輔高資が守る地。その兵は多くはなく、これを攻められては一溜りもない。

資房はすぐさま第一軍を率いる長尾に越前に向かうよう指示を出す。

長尾軍の接近を知るや、美濃方面へと逃れる細川軍。

最終的には美濃加茂郡の山岳地帯へと逃れようとしていた細川軍であったが、山地を神速で突き進んだ長尾軍がこれを回り込み、ついに捉える。

奇しくも、「太田盆地」と称されるこの地で、最初の「天下分け目の決戦」が繰り広げられる。

「――で、どうされるおつもりで? 大将」

長尾景虎隊の傘下に納まっていた今川義元は、総指揮官の景虎に伺いを建てる。

「確かに数ではわずかにこちらが有利だが、相手は山岳地形を活かして守りを固めている。闇雲にぶつかって勝てる相手でもないと思うが?」

水を向けられた景虎は暫し、思案気に視界の先を見据える。先回りして陣を展開したまでは良いが、相手は丘陵地帯に囲まれた隘路に陣取っており、無理に力攻めすればこちらの被害も馬鹿にはならなそうだ。

だが、景虎は次の瞬間、こともなげに言い放った。

「問題ない。突撃するまで。行くぞ!」

「な――?」

義元が制止する間もなく、景虎は自ら馬を引いて駆け出し始める。

突然のこの総大将の動きに、各国からの寄騎たちは慌て始めるも、元々の長尾の家臣たちは慣れきっているのか、すぐさま景虎の背後についてこれを追いかけ始める。

「く、くそっ――我らも行くぞ!」

義元も家臣団に命じ、追走を開始した。

 

「――右京兆様。敵軍が真っ直ぐこちらに向かってきております」

「本気か? 自殺行為にも等しいぞ」

5,000の兵を自ら率いる細川政房は、伝令の報告に耳を疑った。

「聞けば敵の総大将はまだ元服間もない若人だという。我々も随分と舐められたものだ。

 だがこれは最大の好機でもある。この機に太田軍を全滅させてやろう」

「先陣は我に任せよ、政房」

政房の背後から声を掛けたのは、彼の兄である足利義長

「太田家は我が母方の実家なれど、我らが兄上・義澄の仇でもある。奴らに一泡吹かせねば、死ぬに死に切れぬ」

そう言って二尺はありそうな槍を軽々と振り回すその姿は七十近い老人とはとても思えない程であった。

「・・・承知した。死ぬなよ、茶々」

「フン、それは約束できぬが、せいぜいこの老体、役には立たせてみせるさ」

 

そして十月十三日(11月16日)、巳の刻。

ついに両軍は激突した。

山岳地帯への攻勢にも関わらずかなり高い優位性を保ち続ける、さすが軍神である。

 

「――駄目です。このままでは壊滅は必至。義長様が負傷したとの報せも届いております」

「くっ・・・」

政房の逡巡は一瞬であった。これが太田の力か――認めざるをえまい。

「退却だ! 総員、北へ逃れ退却せよ――前線で戦っている者たちはそのまま殿の役目を務めてくれるはずだ! 振り返らずに、一人でも多くこの場から逃れ、こちらに向かってきているはずの大内軍と合流するのだ!」

(これで良いのだな、茶々・・・)

自ら馬を駆り先陣を切って逃れる政房。それは総大将としては決して誇れるものではなかったであろうが、それでも兄が身命を賭して与えてくれた機会を捨てるわけにはいかぬ。「来い! 一人でも多く生きるのだッ!」

 

だが。

 

逃れようとした細川軍の目の前に。

 

――いるはずのない、もう一つの長尾軍が、姿を現したのである。

 

「な――」

 

絶句する、政房。

そのあとはもう、戦いなどと呼べる代物ではなかった。

あるのはただ、一方的な虐殺のみ――。

 

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「――政房は逃したか」

日が傾き始めていた盆地の只中で、数多もの屍に囲まれ返り血を浴びながら、その男は平然と馬上にて辺りを見渡していた。

それは本当に元服したばかりの人間の青年なのか? 何か鬼神の類でも憑りついているのではないか? 義元はそんな風な思いで背中が凍るような心地を味わった。

何しろこの男は総大将ながら先頭に立ち、一人で百を超える敵兵の首を切り落としているのだから。その勢い故に、実は半分の三千にも満たない本隊にて細川軍五千を完全に瓦解させたのだ。普通の人間にできることではない。

「政房実兄の足利義長の首は討ち取った。あとは細川一門の身柄も拘束した」

そう言って実績を報告に来たのは、もう一人の「百人斬り」を成し遂げた二宮長職。何でも、元々は太田家家督継承者候補であった資冬の側近だったという男だ。

この男が北方に回り込み、逃げ惑う細川軍の蓋をする役目を任されていた。自分にすら聞かされていなかったその作戦の全容を任せられるだけの信頼を置かれているらしいこの男は、確かに景虎同様――景虎とはまた別種の――常人離れした雰囲気を醸し出していた。

「――政房の首を、何としてでも取りたかったのだがな」

悔やむ様子を見せる長職に近づき、その肩を叩く景虎。下手をすれば親子ほどに年を離れた間柄だというのに、全く違和感を抱かせぬ仕草でさえあった。

「気にするな。奴らが次にどこに向かうかは分かっておる。大内軍ともそこで合流するつもりだろう。それを追って向かってきているはずの武田軍と合わせ、挟撃するぞ。

 ――そこで、戦いの決着はつくはずだ」

景虎の言葉を受けて、義元は視線を各務原山地の向こう、西方へと向ける。

そう、天下分け目の決戦の舞台として相応しい、東西の連結路に位置するその隘路。

 

「――いざ行かん、不破関・・・関ヶ原へ」

 

関ヶ原の戦い

天文十五年十一月(1546年12月)。

冬が近づいてきており、山々の頂上はすでに雪で覆われつつある。

間もなく、戦争を続けるのも厳しい季節になろう。その前に、不破の関(関ヶ原)に陣を構えた大内軍は、細川軍の数少ない敗残兵を受け入れつつ、時を稼ぐつもりでいた。

元はと言えば、摂津方面へと進軍した武田軍の裏をかき、長尾軍を追うようにして琵琶湖北岸を通り、岐阜の地で細川軍と合流し、圧倒的な数的優位で長尾軍を打ち破る腹積もりであった。

しかし、まさかの積極攻勢に出た長尾軍の恐るべき力によって細川軍は壊滅。逆にこうして敵陣真っ只中で挟撃される状況に陥っていたのである。

 

「――全く、因果な役回りを押し付けられてしまったものだな」

大内軍総大将の元経はそう言って嘆息する。「酒でも飲まんとやってられんな。どうだ、今宵はありったけの酒を持ち込んで、兵士一同宴でも開くか?」

「何を言っておる、戯けが。そうするくらいならせめて先に太田軍に降伏でも申し込んでみる方が何倍も良かろう。そもそも、ここに酒などあるはずがない。太田軍ならば、多少は分けてもらえるかもな」そう言って窘めるのは元経の弟である大内義隆。戦国の世ではなかなか仲睦まじくとはいかない男子の兄弟でありながら、二人の間には余計な遠慮もなく信頼で結びついていた。

そんな二人の軽妙なやりとりは、希望など殆ど見いだせないこの戦場において、兵士たちの心に束の間の安息を与える効果をもたらした。

その後もこの二人が中心となってやんややんやと騒ぎ出し、この日も不安に押しつぶされそうな一日を過ごしたのである。

 

――その夜。

見張り役を残して多くの兵が寝静まった中、元経の座する陣幕内に、義隆が入り込んできた。

「――眠れぬのか」

義隆の言葉に、元経は頷く。「既に太田の軍は東西共にあと数日もせずにここに辿り着くと聞いておる故にな」

義隆は少しだけ沈黙を挟み込みつつ、意を決したように口を開いた。

「・・・兄上、昼間儂の言ったことは決して冗談ではない。無謀な戦いなどせず、降伏することこそが一番だと思っておる」

義隆の言葉に、元経は目も合わせず無言を返す。

「儂らはここまで、破竹の勢いで領土を広げてきた。とくに元経、お前の代になってからは、頗る。貴殿は紛れもない名君であり、それは誰もが認めることだろう。だが、これ以上はいかん。分を弁え、できるだけ有利な条件で講和を引き出し、所領を安堵してもらうのが最善だろう。間もなく、この戦国の世も終わる。これからは武ではなく、文にて世を統治すべき時代だと思っておる。

 儂の配下には優秀な文治官僚を多く擁している。兄上の役にもきっと立つと思うぞ」

「そうさな――」

元経は目を閉じて考え込んだ。

「亀堂丸。確かにお前の言う通りだと思っておる。それが最も合理的な道であると――だがな、儂はそれで本当に自国が纏まるのか、不安が残る。儂は確かに国を大きくしたが、その結果、力でなければ付いてこぬ臣下たちばかりが増えてきたように思う。こうして細川の戦いに巻き込まれ今があるのも、儂の意思というよりは、そういった戦いを求める者たちの意思に流された末のことであるように、な。

 いずれにせよ、ここで戦わずして降伏せば、儂を許さぬ者たちも多く出るだろう。そうすれば、例え所領安堵されようとも、その所領が内部から脆く崩れ去ってしまうだろう。お前も知っておるだろう。我らが大内家はあまりにも互いに猜疑心に満ち溢れており、常に誰かの寝首をかこうとしている者ばかりであると」

そこまで言い終わると、元経は義隆の方に向き直った。

「亀堂丸。お前はここで逃れよ」

な、と義隆は驚き、拒絶しようとするも元経はそれを手で制す。

「元はお前が大内の家を継ぐはずだった。その幼名も本来は嫡子が与えられしもの。儂は長子ではあるが側室の子であり、正室の子であるお前こそが大内の次期当主であると、儂でさえ思っておった」

義隆は押し黙る。元経は目を細めた。

「その命運を捻じ曲げたのもやはり家内の武断派であった。我らが父が叔父上に殺されたとき、まだ幼かった儂らが奴らの言いなりになったときからすべては狂ったのだ。

 儂はこの関ヶ原で、そんな奴らと共に散るつもりだ。代わりにお前が、本国にて平和で豊かな国を実現させてくれ。正しき道を通るのだ」

「――」

拒否しようとして、しかしできなかった。義隆を見る元経の目は、今まで見たこともないような強く、頑なな瞳であった。義隆は口を開きかけ、諦め、そして目を伏せた後に、立ち上がった。

「――分かった。だが、兄上、死なないでくれ。儂は独り先に本国にて待つ。兄上・・・当主の帰りを、しかと待ち侘びているぞ」

「・・・承知した」

元経の返答を聞き、義隆は踵を返し、陣幕から出ていった。

彼は分かっていた。その約束が決して果たされぬことを。

そしてその夜、大内義隆は数名の供回りだけを連れて密かに関ヶ原を抜け出し、そしてその数日後、運命の戦いが幕を開けた。

 

天文十五年十二月八日(1547年1月9日)。

明け方の霧が晴れたその先に、東西から中央の大内軍に迫りくる合計一万の太田軍の姿が確認できた。

東からは長尾軍。西からは武田軍。「大内軍四千の兵は皆勇敢に弓槍を振り回しけれども大勢に無勢 やがて元経も采を振て声も涸れ身も疲るる許に怒りつれ 残る軍兵も一面に掛かって責め戦いむれど為方無し」

「まるで童のようなはしゃぎぶりだな」

薄気味悪げに遠目で総指揮官の様子を眺むる晴信。西側より五千の兵を率いて援軍に駆け付けたものの、戦いはほぼ長尾軍の独壇場となっていた。

「寧ろ我にとってみればどこか安心する心地さえある。戦場の中の奴の姿と比ぶれば」

肩をすくめる義元。その背後では戦後の陣幕が造られ、捕虜にした人々を縄で縛り並べる姿、そして斬り取った首を台座に置き準備する光景が広がっていた。

「この戦いだけで数千の人死にが出た。大内家の面々の首も随分と用意されているようだな」

「ああ、それに敵の総大将の息子さんも生け捕りにした。敵方の戦意喪失は間違いないだろう」

「――その総大将は?」

晴景の問いに、義元は無言で首を振った。

「陣中で潔く腹を切っておった」

「そうか――大内元経と言えば、あの動乱の西国を纏め上げたほどの英傑。その男が、まさに一瞬にして物言わぬ骸になるとはな・・・」

晴信は唸る。

「とにかくも、この二つの戦いで凡そ決着は付いたものと言えるだろう。その先にあるのが、泰平の世であれば良いのだが――」

 

終幕

天文十六年六月二十三日(1547年7月20日)。

関ヶ原の戦いからもかろうじて逃れ、摂津方面で挽回を期そうとしていた細川政房も、その摂津の三島郡にて武田晴信率いる軍勢に捕えられ、壊滅。政房自身も囚われの身となった。

二宮長職はその首を獲ることを強く主張したものの、資政はその命を保証する代わりに政房を降伏せしめ、人質を取ると同時に太田家への完全服従を約束させた。

長らく細川氏が独占していた管領職も失われ、その役割を失い形骸化。新政権においては老中、大老といった役職が同等の役割を担うようになっていく。

 

そしてその一週間後。

亡き兄に代わり新たに大内家当主となった大内義隆と太田資政による会談の場が設けられていた。

「此度の戦、実に凄惨たるもの。予の願いとしては、大規模な戦争はこれ以上起こらぬものとして、天下泰平の世を築きたいと思っておるが、如何に?」

資政の問いかけに、義隆は真っ直ぐに彼を見つめたまま、押し黙り続けている。資政もこれを待つ。今、義隆が彼の人生において最も重大な責任でもって、最も重大な選択を取ろうとしていることは、十分に理解していた。

やがて、彼は口を開いた。

「拙者も・・・この戦いにおいて、多くの者たちの血を流してきました。一族の者、譜代の者、領民足軽の皆々をも、多く苦しめ、命を奪い尽くしていきました。

 戦国の世とは、かくも罪深き地獄のような様相でありまするな。泰平というのは、拙者も深く望んでいたものに違いないなれど、今こうして戦国大名としてそのすべての責任を預からんとする今は、果たしてその罪と向き合う中で、正しく取るべき道なのか、深く迷い申しておるところが本音では御座います」

「つまり、仇討ちせんことには気が休まらんと――それは、大内義隆として、ではなく、一国の主として」

問われ、義隆はゆっくりと首を垂れる。

「理解はできる。故に、予がそのすべてを引き受けよう。あらゆる戦国の怨嗟、恨み、次の時代へと行くことを拒む者共の願いを全て――そなたは、大内義隆として、自身の理想とする領国を築き給え。それが真に、未来を生くる民々の幸福とならん」

義隆は目を伏せる。やがて面を上げ、はっきりと資政を見据え直した上で、回答した。

「分かり――申した。それでは我が身、我が大内家も、太田将軍家に服従することを、誓いまする」

 

かくして、日ノ本は太田の名の下に統一された。

全ての悪徳と罪を産む戦国の世を終わらせ、多くの心優しき民々が浄土へと身罷れることを願って――

 

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「父上」

二条城の広間にて、思案に耽っていた資政のもとに、世嗣の高資が現れる。

「・・・おお、源三郎。すまん、少しばかり考え事をしていてな」
「構いませぬ。随分と、お疲れの御様子」

「ああ・・・何分、やることも多くてな。今や博多の先まで我が管轄下に入り、利益も莫大なれど、広く目をやる必要もある」

告げる父に向けて、高資は少し躊躇ったのちに、告げる。

「父上・・・ここは拙者にお任せ下さい。父上は江戸に戻り、領民と共に余生を過ごされては?」

高資の言葉に、一瞬、資政は驚いたような表情を見せる。

だが、すぐに優し気な表情に戻り、一息吐いた。

「ああ、そうか・・・予もいつの間にか、父と同じ道を・・・」

だが、と資政は続けた。

「源三郎、良いのか? この重責はあまりにも重い。一度は出家させた御前を、家内の騒乱がもとで還俗させ、今十分な整理もできぬままに背負わせようとしている。本来御前には苦手な道だというのに」

「ハッハッ、お気になされぬな、父上。寧ろ拙者くらいな心持の方が、能くこなし得るのやもしれぬ」

快活に笑う高資の姿を見て、資政は我が子がいつの間にか自分の想像を超え大きく成長していたことを知る・

「それに」と高資は続けた。

「拙者は何も、この天下の全ての責任を独りで背負うつもりなど御座いませぬ。父上から引き継ぐ多くの優秀な家臣たちがおりますでな」

「ただ、拙者が望むのは・・・愛すべき父を楽にさせたいという一心のみで御座います。父を助くるは、子の務めですからな」

 

ああ――。

資政は、ようやくその肩の荷が下りた心持ちを覚えた。

この六十余年にわたる生涯において、父に期待されず、民に期待されず、家臣にも裏切られ、煩悶し続けていた人生のその終着点において、このように我が子に愛される思いを感じられたことこそが、我が身の最大の幸福にして、到達しえた浄土なのやも知れぬ――。

 

「分かった。源三郎、いや太田高資よ。予の職責を貴殿に預く。よろしく、頼むぞ」

資政の言葉に、高資はしっかりと頷いた。

 

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天文十八年正月二十一日(1549年2月28日)。

江戸城に滞在する太田資政改め太田道端の下に、一人の客人が訪れた。

「かの織田信秀殿が子息、吉法師殿で御座います。舞を得意としており、道端様に一度お見せしたいとのこと」

長綱の紹介を受け庭先に現れたその青年は、美しきその姿でもって堂々たる舞を披露し、集まっていた一同は皆揃えて称賛の言葉を口にした。

しかし道端はその目こそ奪われてはいるものの、その表情は固く、また口も閉ざしていた。

「かの舞、お気に召されずや?」

耳元で小さく尋ねる長綱の声にハッとし、「いや」と首を振る。

「舞は実に素晴らしいことこの上なし。ただ・・・あの目つき、僅かばかりか不安を覚えて、な」

 

「いや――何でもない。

 予ももう長くはない。幾何かの気の迷いも、あるのだろう」

 

「――承知いたしました。道端様、今日はもう、お早くお休みになられては」

「うむ・・・」

 

その半年後。

太田道端は、その六十四年の生涯を終え、永劫の眠りへとついた。

 

 

これにて、太田の物語は終幕と致す。

かの者が築きし「江戸幕府」は、その後も長きにわたる泰平の世を生み出すことになるだろう。

――いや、もしかしたらそれは一瞬きの栄華に過ぎず、たちまちのうちにまたも混乱の時代が到来してしまうのかもしれない。

 

いずれにせよ、全ては阿弥陀仏のみぞ知る。

人間如きは、与えられた命のうちに、その全てを尽くすのみである。

 

 

かかる時 さこそ命の 惜しからめ

かねてなき 身と思い知らずば

 

 

 

 

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*1:南部家第十八代当主・南部時政の次男。兄の南部通継が男子を遺さずに44歳で没したとき、史実では南部家を継いだ親族の信時を含めすべての南部家男子がこの世界では既にこの世を去っており、独自の分家を創設していたこの忠広が実質的に南部家を相続。勢力を拡大し、今や陸奥のみならず陸中の3分の2をも支配する奥州最大勢力となっていた。