ロマノフ朝第12代皇帝アレクサンドル2世は、父ニコライ1世の始めた近代化改革を継承し、農奴解放や軍制改革、経済改革などを積極的に推し進めていった。
1880年代に入るとその経済成長は著しいものとなり、英仏を抜いて世界最大の経済大国へと台頭。
それに伴い、国内の資本家や労働者たちも徐々に力を蓄えていき、1885年選挙ではついに貴族たちによる十月党を破り、知識人・農村民・労働者たちによるロシア立憲民主党(カデット)が政権を握る結果となった。
1891年には選挙権を非土地所有者にまで広げる革新的な選挙制度改革が断行され、これまで抑圧されてきたブルジョワジーたちが躍進。
1893年の第8回選挙では、資本家を中心とした平和革新党がカデットを打ち破り、第一党の座を掴み取ることとなった。
発展を拒絶する貴族たちの既得権益を守るよりも、産業資本家たちに自由を与え、彼らの積極的な投資を受け入れて国家の発展に貢献させる方がより望ましいと考える「市場自由主義者」アレクサンドル2世は、国家の介入を極力減らし民間の自由開発を奨励する「レッセ・フェール法」を制定。
公共投資の割合を減らしたことで回復した財政を、さらに新たな投資へと回し無限の経済発展を目指していく――そんな、アレクサンドル2世の夢は、しかし唐突に失われることとなってしまう。
1893年12月23日。
改革の道半ばで、アレクサンドル2世は75年の生涯を終えた。
後を継いだのは嫡男のミハイル4世。
しかし「好戦主義者」の新皇帝は、ロシアを新たな混乱の時代へと導いていくこととなる。
そしてその中から生まれてきた新たな思想が――ロシアの運命を、大きく変えていく。
Ver.1.2.1(Beta)
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目次
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強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ:AI経済強化MOD「Abeeld's Revision of AI」導入&「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」、「AIの好戦性」を「高い」に設定
金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り
ミハイル4世の治世
アレクサンドル2世が亡くなり、新皇帝としてミハイル4世が即位したところからスタート。
「市場自由主義者」であったアレクサンドル2世に対し、ミハイル4世は「好戦主義者」として知られ、早速アフガニスタンの併合を開始。
互いにこの地域の不可侵を約束した1880年の「バルチスタン協定」に違反するロシアの行動に英国は怒り、彼らも協定で禁じられていたカラート藩王国の併合を決行。
13年間沈静化していたこの地域での英露緊張がピークを迎えることとなった。
さらに、ミハイル4世は祖父ニコライ1世時代以来となるオスマン帝国への介入も実施。
コンスタンティノープルの対岸に位置するブルサ(ヒュダヴェンディギャール)の割譲と、スラヴ民族の住むブルガリアやボスニア・ヘルツェゴヴィナ、さらにはアルバニアの独立をも要求した。
この横暴に対し欧米列強は皆沈黙し、オスマン帝国は単独でロシアに対抗。
できるはずもなく、この「露土戦争」はわずか7か月で終了。
コンスタンティノープル西方のサン・ステファノの村で結ばれた条約にて、ロシアの要求はすべて受け入れられることとなった。
さらにミハイル4世の征服は止まらない。
次に彼が目を付けたのはアフリカ南西部コンゴ地域。
元々ロシア国内では確保できないゴム、そして染料資源を求めてこの地に入植を開始したロシア帝国であったが、すぐさまフランスとアメリカ合衆国の植民地にこれを阻まれてしまい、拡張の余地を失ってしまう。
これを受けて、ミハイル4世は現地の総督に命じてコンゴ王国との国境紛争を起こさせ、現地民の保護を名目にコンゴの併合を一方的に宣言。
欧米諸国の中では唯一スペインだけがこれに反発し戦争に突入するも、もはや列強ですらない小国にロシアを止められるはずもなく、マドリードまで上陸された上で屈辱的な条約を結ばされ、プエルトリコの条約港を割譲されられるに至った。
このとき、コンゴに派遣されていたロシア帝国軍と、隣接するアメリカ合衆国の植民地遠征軍とが、バンドゥンドゥの村付近で接触する事件が発生。
このファショダ事件ならぬバンドゥンドゥ事件では、史実のフランスと異なりロシアは強硬な姿勢を堅持。この地からの撤退を要求するアメリカに対し、ロシアは皇帝ミハイル4世の名において徹底抗戦の姿勢を明らかにした。
ミハイル4世の命により、ロシア帝国軍最高司令官ニコライ・ニコラエヴィチ大公は帝国軍全軍に動員を指示。
そしてアメリカ合衆国に対し、そのコンゴ・ガボン・エクアトゥール植民地の割譲を要求。
列強4位アメリカ合衆国と、防衛協定を結んでいたブラジルをも巻き込んだ、南大西洋戦争が勃発する。
しかしこれは、ロシア帝国にとって、「終わりの始まり」を意味する大きなきっかけであった。
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1900年12月12日。
ヘルシンキ、カイサニエミ公園。
人気のない隅のベンチに、1人のフランス人と1人のフィンランド人の男性が並んで座っていた。
「決断されたんですね」
「ああ・・・俺にはもう、何も残ってはいない。ザイダもいなくなり、職も失った。すべてはこの耳のせいだ・・・俺は何かを成し遂げなければならない」
「分かりました。あなたのその一発は、たった一人の人間を殺す力しか持たないでしょう。しかし、あなたの意志はすべてのフィンランド人を奮い立たせ、そして世界のすべての抑圧に耐え続けている人びとにとっての希望となるでしょう。私たちの国もあなたの意志を確実な結果につなげるための最大の支援をすることを今一度、約束致します。
ですが、その一発の後、あなたはもうきっとこの世にはいないということを、改めて理解する必要があります」
「分かっている。他人の命を奪うということは恐ろしいことだ。俺は自分の罪を自分の命で償わなければならない。
それでも、俺はやらなければならない。自由は神聖なものであり、自由への愛は我々の心に根差した自然な情熱だ。俺はこの国を愛している。
だから俺は、ボブリコフを殺す」
1900年12月15日午前11時。
フィンランド総督ニコライ・ボブリコフが上院議会を主宰するために側近と共に元老院広場を歩いていた。
オイゲン・シャウマンは上院の最上階の窓からボブリコフの姿を追い、彼が一人で建物の中に入っていくのを確認した。
シャウマンは窓から離れ、ボブリコフが登ってくるであろう階段を降り始めた。二人は2階の踊り場で出会い、シャウマンは懐からFNブローニングM1900を取り出した。
彼は以前、医師の友人に、致命傷を与えるためにはどこを撃つべきか聞いてよく知っていた。彼は一歩前に出てから3発、ボブリコフに向けて撃ち放った。
一発目はボブリコフのコートのボタンに当たって跳ね返り、二発目は胸元の聖ウラジミール勲章に当たり、そのまま首を掠め取った。
そして致命的な第三発目がベルトのバックルに命中し、粉々になったその破片と弾丸はボブリコフの胃を貫通した。
シャウマンは数歩後ずさったあと、自らの心臓に向けて2発、打ち込んだ。
シャウマンはその場で即死したが、ボブリコフは足を引きずりながら上院議場に辿り着き、そのままウランリンナの外科病院へと運び込まれた。そこには若く有望な外科医がいたが、シャウマンの弾丸はボブリコフの内臓をひどく破壊していたため、数時間の手術でも彼を救うことはできなかった。
次の日の夜、フィンランドの「専制君主」ニコライ・ボブリコフは亡くなった。
このニュースは瞬く間にフィンランド全域に広がった。
シャウマンの名は国民的英雄として祭り上げられ、家々の扉の前には禁止されていたフィンランド国旗が掲げられた。
哲学者にして大学教授であるチオドルフ・レインはこの殺人を「すべての人のために行われた自己防衛の行為」であると宣言し、第2のシャウマンとも言うべき青年レナルト・ホーエンタールが親ロシア派の検事を射殺する事件まで起きてしまった。
報復を恐れた人々は団結し、ロシア人の経営する店や宿舎は徹底的に破壊された。
膨れ上がった暴力と独立への機運は、フィンランド全体を包み込み一斉蜂起へと繋がったのである。
そしてフランスと隣国スカンディナヴィア帝国が直ちにフィンランド支援を表明。
まるで準備していたかのような迅速さでバルト海を経由して次々とフランス軍がフィンランドへの上陸を果たした。
ニコライ大公は南大西洋戦争のために海外に派遣されていた主力部隊を急いで呼び戻す。
しかしその間にも、フランス海軍に守られるような格好でバルト海を渡ってきたブラジル軍がサンクトペテルブルク近郊に上陸。
現地防衛部隊は訓練もままならない新兵たちばかりが配置されており、瞬く間に大部分を占領されてしまう事態に陥ってしまった。
ニコライ大公は反撃を開始する。
まずはアフリカ戦線にて、戦略目標であったアメリカ植民地を全土制圧。
さらにアメリカ合衆国事態が内戦に突入し、戦争継続どころではなくなっていた。
これを受け1901年5月25日。
アメリカ合衆国はロシアの要求をすべて受け容れる和平案に同意。
これでようやく主力軍を投入できるようになったロシア軍はすぐさまブラジル上陸軍をすべてバルト海に叩き落とすことに成功するも、フィンランド戦線ではフランスの精鋭軍を前にして劣勢が続く。
さらにそのタイミングでオスマン帝国から奪い取ったコンスタンティノープルとブルサでトルコ人による反乱が発生。
独立させたばかりのブルガリア王国内でも同様に反乱が発生し、そのほぼ全域を占領されるという危機的な状況となってしまった。
南北2つの戦線を同時に対応することは無理がある。
であれば、優先すべきはコンスタンティノープルである。あの街を、再び異教徒の手に収めさせるわけにはいかない。
従兄弟のニコライ大公の助言に従い、ミハイル4世はフィンランドの独立を認めるという苦渋の決断を果たした。
1901年8月5日。
ロシア-フィンランド国境に位置するヴィープリの町で条約が結ばれ、フィンランドは初めて1つの独立した国家としての主権が認められることとなった。
北方の戦争を終わらせたロシア軍は急ぎ南方のバルカン半島へと向かう。
すでにコンスタンティノープルはトルコ人によって制圧されてしまっており、ブルガリアもその国土の大半を奪われた状態でさっさと降伏してしまっていた。
よってロシア軍はドナウ川を越え、ルーマニア北東部から反乱軍占領地に侵入。
後は時間の問題。
後退に後退を重ねたトルコ人反乱軍は1901年11月3日に降伏。
コンスタンティノープルとブルサの街は再びロシアの手の内に戻ることとなった。
ひとまずは落ち着きを取り戻したロシア帝国。
しかし、連続する戦時体制を維持すべく引き上げられた税金と、ブラジル軍の上陸作戦により荒廃した首都サンクトペテルブルク、さらには戦争以外でも常に抑圧的で旧き専制君主の振る舞いを続けていたミハイル4世の統治に対し、国内の不満は急速に高まりつつあった。
この国民の意志がやがて、一人の男を生み出し、そしてロシアという国家を大きく変革させていくこととなる。
ロシア革命
1902年2月1日。
首都サンクトペテルブルクの外れにある小さな集会場で、老若男女・多様な人種の人だかりができており、その中心で一人の男が演説をしていた。
彼の名はウラジーミル・ウリヤノフ。
20代の頃からマルクス主義に傾倒し、1895年にはその活動の中で逮捕され3年間の東シベリアへの流罪を経験した。
1900年にサンクトペテルブルクに戻ってきた彼はレーニンという筆名で活動するようになり、先日出版されたばかりの政治パンフレット『なにをなすべきか?』は、確固たる指導者の下でプロレタリアート革命を推進していく必要性について説き、ロシア国内のマルクス主義者たちに広く知られるようになった。
その年の暮れには労働組合を指導していたロマン・ネボガトフが死去。
新たにその指導者となったのは同じ共産主義者のヴァーヴァラ・コーネフ。
「ロシアのローザ・ルクセンブルク」と呼ばれたコーネフと協調し、レーニンは新たに「共産党」を結成。
1905年に行われた第11回選挙では、全体の2番目の得票数を誇る有力政党へと一気にのし上がり、第一党の農業党にも迫る勢いを見せていた。
しかし、ミハイル4世はこの選挙結果を受けてもなお、彼ら共産主義者および労働者階級に対して気に掛けることはなかった。
それどころか彼は、ニコライ1世が創設し、その後アレクサンドル2世時代に活動が停止させられていた秘密警察「帝国官房第三部」の復活を画策。急進化する民衆に対し、徹底した弾圧で応えることを是としたのである。
もはや、政府との話し合いなどという悠長な手段に意味がないことは明白であった。
怒れる民衆はウラジーミル・レーニンとコーネフ、共産党の指導のもと、帝政の打倒とソビエト(評議会)政権の樹立を目指す暴力革命の機運を急速に高めていった。
そして1906年9月29日。
ついに、ロシアの共産主義者たちによる「九月蜂起」が決行された。
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王宮のあるサンクトペテルブルクではなく、内陸の旧首都モスクワで決起したウラジーミル・レーニンは、同志ピョートル・ドルゴルーコフに命じ、新たに再編されたプロレタリアートのための軍隊「赤軍」を創設させた。
綿密に計画された今回の蜂起の初期段階において、帝国の「武器庫」たるサマーラ、マゾフシェなどはすべて勢力下に置いており、武器弾薬に不足はない。
戦線は3方向。敵首都サンクトペテルブルクに迫る北部戦線と弾薬庫マゾフシェを守る西方ポーランド戦線。そして武器工場の集中するサマーラと首都モスクワとを守る東方戦線。
西方戦線と東方戦線を死守しつつ、迅速にサンクトペテルブルクを制圧し短期決戦に持ち込むこと。こちらは全国徴兵を行っており経済は大きく赤字を叩いているため、倒れる前に相手を倒す必要がある。
そこで、北方戦線にはイェゴール・ユーリエフスキー元帥を配置。まだ31と若い男だが「砲術指揮官」の特性を持ち、赤軍随一の攻城戦巧者である。
さらにVer.1.2から追加された新システム「戦略的目標を指定」を使ってみる。
これは待ち望んでいたシステムで、戦線に沿うステートにてんで適当に侵攻していた将軍たちに、優先的に攻め取ってほしいステートを指定するものである。
確実にそちらに行くというわけではないようだが、今回のように戦争支持度をできるだけ下げるために首都を早期に獲りたい、といったときには重宝することになるだろう。
その他、西方ポーランド戦線には「防衛戦略家」アントン・トゥハチェフスキー少将。
そして首都モスクワを堅持する役目を担うのは「測量士」のアレクサンドル・ロジェストヴェンスキー大将である。
いずれも軍隊経験はあるとは言え、特性もほとんどついていない若い将軍たちばかり。
それでも、農民中心の赤軍においては数少ない指揮を執れる人材であり、彼らの力を信じ、戦うほかはない。
1907年1月11日。ついに開戦。
欧州の列強は皆静観を決め込んだが、唯一メキシコ共和国だけが懐柔され支援をしてくれることとなった。
開戦と同時に33万の大軍を率いてサンクトペテルブルクを包囲するユーリエフスキー元帥率いる第一軍。
皇帝軍はゲンナジー・クタイソフ大将が9万の軍で守りを固めるも、2倍以上の数値を誇る相手に元帥は優勢に戦闘を進めることに成功している。
前回も少し触れたように、新バージョンになってから戦闘に投入できる大隊数が一気に増え、数さえ揃えばこのように数値的劣勢においても十分に勝利できるようになった。
モスクワでもロジェストヴェンスキー大将がしっかりと防衛を果たしており、これは問題なく勝利することができる――
と、思っていたら、いつの間にか戦争支持率がヤバイ!
どうやら、これも新バージョンになってからの変更点として、死傷者数による厭戦の影響がより強化されたことにより、すでに57万もの死傷者数を出してしまっている赤軍側のマイナスが非常に大きくなってしまっているようだ。
実際、サンクトペテルブルク包囲戦では当初33万vs9万という圧倒的な数の差で開戦したにも関わらず、そのほとんどが地獄の包囲戦の中でバタバタと倒れ伏し・あるいは戦場から逃げ出し、最後には数百名の兵士だけで戦い抜くという状況となってしまっていた。
それでも、7か月にわたる大激戦を経て、ギリギリで・・・本当にギリギリでサンクトペテルブルクを陥落させたユーリエフスキー元帥。
それでも首都陥落というニュースは皇帝派の戦意を挫くには十分すぎる戦果であった。
戦争支持率減少スピードは逆転し、最終的にはなんとか首の皮一枚繋がる形で勝利へと到達した。
1907年11月16日。蜂起から1年と2ヵ月。開戦からは10か月で、「ロシア内戦」は終わりを告げた。
同時に、歴史上初となる労働者組織「ソビエト(評議会)」による国家体制としての「ソビエト社会主義共和国連邦」が成立することとなった。
労働者共和国
見事、革命を成功させたウラジーミル・レーニン。
しかし戦争の傷は深く、国庫は尋常ではない量の赤字を垂れ流し、激減したGDPはフランスに追い抜かれるほどであった。
まずは財政の再建を行う必要がある。
幸いにも、共産党以外のすべての勢力は革命の余波により影響力を失った結果、議会を完全に掌握しあらゆる法律を自由に通せるようになっている。
よって、まずは「比例課税」の法律を制定。資本家や貴族といった上流階級たちからより多くの税金を奪い取る「労働者のための税制」である。
さらに今なお財産制限の残る選挙制度を改革し、一定年齢以上のすべての男子に選挙権を認める法律を制定。
そしてもちろん、労働者たちの最低賃金を定め、危険な労働環境を改善する「労働者の保護」の法律も制定し、労働者たちにとって真の楽園となる理想国家体制を築き上げていく。
そして、「改革」の手は、ついに根本的な経済制度にも及ぶこととなる。
他に優先すべき改革のため、内戦終結から5年後の1912年の段階でもなお経済制度は資本家を中心に広く投資を呼びかける「レッセ・フェール」制度のままであった。
しかしこれではブルジョワジーによる支配が永続しかねない。
レーニンらソビエト指導者たちは真のプロレタリア革命を実現するべく――ついに、1912年3月14日に「共同所有」制度を制定する。
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Ver.1.2から追加された新しい経済法「共同所有」。
建設力の民間への譲渡率は35%と、伝統主義の25%よりは大きいが農本主義や干渉主義の50%よりは小さい。
その結果、制定と同時に予約されていた民間建設キューの大半がストップ。
制定前は149万ポンドを毎週支出していた投資プールが制定直後は5万ポンドまで減少し、そのまま大赤字へと急落。
制定直後はまず膨れ上がった建設キューの大半を解体していく必要があるだろう。
そして最大の特徴とも言うべきが、ほとんどの施設の所有権方式が「労働者協同組合」に強制的に変化すること。
この結果どうなるかというと、あらゆる施設の所有権から貴族と資本家が締め出されることにより、その数が激減。
制定直前まで最大の政治勢力であった資本家がついにその座を明け渡し、ここに真の「プロレタリア革命」が実現したのである。
理想の社会を形成しつつあるソビエト。
しかし、この国が目指すべき姿は、ここが終着点ではない、と考える者たちもいた。
その男の名はレオン・トロツキー。ピョートル・ドルゴルーコフが創設した赤軍の現指導者であり外務人民委員(外相)も務めていた男だ。
1914年7月に病死したウラジーミル・レーニンの後継を巡り、ヴァーヴァラ・コーネフとの権力闘争を制したこの男は人民委員会議議長(首相)に就任。
レーニンの『何をなすべきか』で書かれた思想を純化させた、革命の先頭に立ってこれを強力に指導していく存在が必要と考える「前衛主義」を唱え、急進派グループを形成し始めた。
そしてロシア改めソビエト連邦は、新たなる局面を迎える。
すべての権力をソビエトへ
首相に就任したトロツキーは早速その思想を現実のものとすべく「専制政治」施行に向けて動き始める。
この事態に「ロシアのローザ・ルクセンブルク」と呼ばれ、レーニンと共に共産党を立ち上げたヴァーヴァラ・コーネフ、そして彼女の盟友であり女性参政権制定を目指す運動を開始していた知識人指導者オルガ・カソーは強硬に反対。反トロツキー派を形成し始める。
しかしトロツキーは自らの支持基盤でもある軍部の後ろ盾を得て反対者たちを徹底的に弾圧。
それはついに「大粛清」という結末へと至る。
この「事故」によって、「たまたま」現場にいたコーネフとカソーは亡き者とされた。
1914年10月25日。
カソーの無念を晴らすべく、そして国家の行くべき道を守るため、カソーの支持者たちがトロツキー首相の命を狙って凶弾を放つ事件が発生。
しかしこの勇気ある行動もまた、トロツキーを止めることはできなかった。
むしろこの事件は彼らのプロパガンダに利用され、トロツキーは奇跡の生還を遂げた英雄として祭り上げられ、ボリシェヴィキの支持を逆に集める結果となった。
そして1915年2月5日。
すべての政治的混乱を収束させ、正しく民衆を扇動する前衛党ただ一つのみにおいて国家は動かされるべきであるとする新憲法が制定され、即日で全政党が解散。
すべての権力は唯一のソビエトへと移譲され、そしてこの政治体制に基づく新たなる経済制度――ソビエト社会における、その完成形たる――「指令経済」が導入された。
最後に、この指令経済に触れて今回は終わりにしよう。
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実は旧バージョンでは一度も評議会共和政も指令経済も経験したことがなく、ゆえに旧バージョンとの比較をすることはできない。
とりあえずまずは1915年7月4日。「指令経済」制定直前の支出から見てみよう。
これは「共同所有」制定時の支出なわけだが、レッセフェールとの大きな違いはやはり投資プールの移動の少なさで、建設による政府の支出が150万ポンド/週にも及んでいる。そもそも投資する主体が商店主と農家だけとなり、元々投資配分が利益配当の5%(資本家は20%、貴族は10%)で共同所有によるボーナス+25%がついているとは弱体のため、すでに投資プールが枯渇していることもこの投資プール支出の少なさにつながっている。
また、先ほど共同所有制定直後の収支画像では存在しなかった「政府の利益配当」「政府の持ち株からの損失」が登場している。
これは「共同所有」法律の下で取引所だけが「国営」となっており、この国営方式では政府がその施設の持ち株を持ち、赤字を出しているときは損失が、利益を出しているときはその配当が得られるようになっている。ここではおよそ6,000ポンド/週の黒字が出ている計算だ。
さて、その状態で「指令経済」に切り替えた直後の収支表が以下の通りである。
なんと、収支が34万ポンド/週から607万ポンド/週へと利益が爆増している。
その原因は一気に690万ポンド/週へと膨れ上がった「政府の利益配当」。
その内訳は以下の通り。
すべての施設が先ほどの取引所のように「国営」になったことで、それらの施設の利益配当がすべて直接国庫に入ることとなった。
一応、高いGDPを持つ国家はこの政府の利益配当に制限がかかり、上記画像の最上部に記載されているように現在のソ連(GDP9億8,190万ポンド)の場合は0.61倍になるのだが、それでもこの凄まじい額であるのだ。
旧バージョンでは伝え聞いたところによるとすべての施設が強制的に助成されることによって大赤字が生み出されたらしいこの指令経済だが、新バージョンではすべての施設の助成は「可能」だが「強制」ではない。
代わりにこの莫大な利益を生み出す「国有化」の存在により、指令経済はある意味ですべての経済システムの中で最も利益を生み出しうる制度になってしまったかもしれない。
・・・個人的には、歴史上失敗したはずのシステムが魅力的になり過ぎることに違和感はあるのだが。
と、思ったが、しばらく回しているとGDPが急落を開始。先ほどまで10億弱まであったそれが、1916年1月1日時点で7億5,900万ポンドまで25%減という事態に。
合わせて生活水準も激減。一時は19ポイント近くあった平均生活水準が16ポイント近くにまで。
人口のデータを見てみると下層階級が特に生活水準が下がっている様子ではある。
おそらくはそれまでの「共同所有」下で労働者に与えられていた持ち株をすべて国が接収してしまった結果、労働者たちの富が(レッセフェール時代よりはずっとましとはいえ)減衰したということなのだろう。
共産主義(普通選挙・共同所有を強く支持)においては皆平等に幸せになれる社会だが、そこから「強い指導者」を求める前衛主義(専制政治・指令経済を強く支持)になると国家が最も富める社会となる。
・・・なるほど、新バージョンにおけるこの形式の方が、よりリアルに史実の結果を反映しているようにも思えてくる。
なかなか、エグい。
だが、事実このようにして国家が強くならなければ、ソビエトは生き残れない可能性がある。
何しろ、ソビエト連邦成立後、世界はソビエトを孤立させようとする動きを見せていた。
国内から上流階級が消え、国外における巨大市場も失ったソビエト連邦の市場は高級品を中心に大量の余剰が発生。
これが国内に存在する大量の工場の生産性を大幅に下げることとなり、それもまた、国民の富を減少させている要因にもなっているようだ。
新たに浮上してきたソビエト連邦の課題。
その課題を前にして、第2代人民委員会議議長レオン・トロツキーは先だっての凶弾による傷が原因となり1915年2月6日に死亡。
トロツキーの後継者となったのは、内戦時代からの英雄アントン・トゥハチェフスキー。軍事人民委員ピョートル・ドルゴルーコフや第一軍元帥イェゴール・ユーリエフスキーなどを退け、その高いカリスマ性から党員の支持を集め、ソビエト連邦第3代首相となった。
新首相トゥハチェフスキーはこの急落するGDPの回復を図り、ソビエトを永遠の帝国として完成させることはできるのか。
次回、最終回。
最後までご覧いただければ幸いだ。
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1836年⇒1916年の収支推移
1836年⇒1916年の人口比率推移
1836年⇒1916年の政治力比率推移
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