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【Victoria3プレイレポート/AAR】1.2オープンベータ「ロシア」テストプレイ 第3回 経済成長と政治改革(1876年~1896年)

 

19世紀。

ナポレオンの侵攻を食い止めたロマノフ朝ロシア帝国は、第11代皇帝ニコライ1世の下、積極的な対外政策によってカザフ平原、ペルシア高原、コンスタンティノープル、そして中国北東部の征服を実現していった。

この政策を継承したアレクサンドル2世は、資本家や農場主らの力を借りて国内の改革を進め、選挙制度の導入や農奴制の廃止、軍隊の近代化から市民権の拡大・経済改革など、国内の保守派貴族たちの嫌がる政策を積極的に進めていった。

アレクサンドル2世自身は貴族会合を支持基盤としていたが、一方で「市場自由主義者」でもあり、近代化の必要性を十分に理解していた。

 

一方、欧州でも世界の海を支配する大英帝国、そしてこれに対抗するフランス・オルレアン朝とが共に勢力を拡大し、ヨーロッパ・アジア・アフリカでそれぞれ覇権を競う姿勢を見せている。

その象徴の1つがこのインド北東部。イギリスが直接支配するインド帝国と国境を接するビルマを、フランスが傀儡化。一触即発の状態となっている。

 

この状況に対応すべく、先の普墺戦争でも協力していたロシアとオーストリアが「墺露同盟」を締結。列強3位・4位の提携で、世界二大国の覇権に待ったをかける。

 

激しさを増していく欧州情勢。

この激動の時代を、ロシアはいかにして生き残っていくのか。

 

Ver.1.2.1(Beta)

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グレートゲームと戦争における新要素

1878年1月。

インド洋に面するマクランの地に続き、大英帝国は隣接するカラート藩王国へと攻め込んだ。

中央アジア方面へと勢力圏を広げようとするイギリスに対抗すべく、軍部指導者で外相でもあったボリス・ホイニンゲン=ヒューネアフガニスタンへの傀儡化圧力を仕掛ける。

「保護」姿勢を取っていたイタリア王国、そしてロシアの宿敵であるフランスがアフガニスタンの支持を表明するも、列強4位オーストリア帝国もロシアとの同盟を履行して参戦を表明。

1880年1月11日。国境線上に並べられたロシア陸軍の威容に恐れをなし、アフガニスタンは戦わずして屈服。ロシアの勢力圏下に入ることに合意した。

さらに外相ホイニンゲン=ヒューネはマクラン国内の独立派を密かに支援し反乱を起こさせたことで、英国はその対処に追われることに。

この反乱こそ鎮圧したものの、その隙に占領地を取り返してきたカラート藩王国とは和平を締結せざるを得なかった大英帝国

最終的にはこの「バルチスタン紛争」は、ロシアのアフガニスタン併合と英国の拡張とを禁じる妥結でもって終了し、この地でのグレートゲームは一旦の落ち着きを取り戻す。



次に英国が目を向けたのは清であった。

1881年5月。ピール党のアレン・トリントン首相の下、史実から42年遅れのアヘン戦争が勃発。

ロシアもこの隙に乗じて清に遼東半島中央アジアの残存領土、そしてチベットと朝鮮の独立とを要求。

同盟国オーストリア帝国もしっかりとここについてきてくれた。

新バージョンになってから同盟国が裏切りにくくなった? 以前まではほぼ確実に裏切っていた印象だったが・・・。

 

なお、先日の開発日記でも紹介されていた通り、外交交渉フェーズにて新たに「一次に追加(一次要求に追加)」ができるようになった。

これは余分な戦略コストと悪名(いずれも元々の値の半分の値)を支払うことによって、「例え相手が屈服したとしても手に入れられる一次要求」に任意の要求を追加することができるようにするシステムである。

このコマンド以外にも、「主要な敵国」に対する要求を餌にして他国を懐柔した場合も、その要求は同じく「一次要求」となる。

例えば上記画面で言えば清側についた江戸幕府は、「ロシア(の関税同盟)からの独立」を餌にして懐柔を受け、参戦を決めている。

この要求は主要な敵国であるロシアに対しての要求であるため、これも万が一ロシアが撤退した場合に履行させられる一次要求に含まれることとなる。

逆にもしもこのときロシアが別の国を、たとえば江戸幕府のどこかの条約港あたりを餌に懐柔していたとしたら、それは一次要求とはならないため、清が屈服したときには履行されない要求となる。

simulationian.com

 

これは兼ねてより外交の際の大きなストレスとして報告されていた項目への明確な改善であり、またより「戦争に至らない外交」を重視しようとするモチベーションともなるため、望ましい改善と言えるだろう。

引き続き、「外交の充実」に向けて改良を重ねていってほしい。

 

 

とは言え、今回は結局清の屈服はなく、戦争に突入。

1881年9月21日。前回の戦争から16年を経て、第二次露清戦争が勃発した。

なお、盛京が遼東半島のこと。満州族がこの地を支配し首都を置いたときの都の名前であるが、その後北京に遷都したのちは奉天と呼ばれるようになったため、そちらにすべきなのではとも思うところではある。日露戦争プレイのときはより盛り上がるだろうしね。

 

列強もつかず、南部からは大英帝国とその属国に攻め込まれている清は敵ではなく、前回同様海路で敵の輸送船団を潰しつつ、上陸戦も駆使して多方面から進軍。

戦争自体は苦も無く進行し、開戦から1年も経たない1882年8月18日に再び北京で講和条約を締結。

今回もまた、ロシアの要求がすべて果たされ、ロシアは遼東半島を獲得。

さらにチベット・朝鮮が清からの独立を果たすこととなった。

一方、なぜかイギリスは清に敗北をしていたようで、グジャラートを奪われてしまっている。

一体、何がどうなった?

 

ということで特に戦争それ自体には語るべきところはほぼなかったのだが、この戦争の中で確認することができたいくつかの新要素を確認していこう。

 

1つ目は待望の「参加大隊数決定ルールの詳細が表示されるようになった」こと。

たとえば以下の「雲南の戦い」を見てみよう。攻め込んでいるロシア帝国軍は22大隊を、守っている清軍は44大隊を戦闘に参加させている。

ここで攻め込んでいるロシア帝国軍側と守っている清軍側の参加大隊決定ルールの内訳は以下の通り。

攻撃側(ロシア帝国軍側)の大隊決定数ルール内訳

防衛側(清軍側)の大隊決定数ルール内訳

 

要素は4つ。

1)戦線に参加しているすべての大隊数合計

2)「前線の全長にわたる大隊の濃度の薄さ(Low concentration of 大隊 across length of Front)」

3)地形とインフラによる制限

4)「戦線における数値的アドバンテージ(Numeric advantage on 戦線)」


1)についてはこの戦闘に参加している将軍(ここで言えばオレグ・バルクライ・ド・トーリ大将と庄佟将軍)の指揮下にいる大隊だけでなく、この戦線(四川戦線)に参加しているすべての大隊数である。

2)は以下のツイートにて詳細に解説していただいているが、「(大隊数-大隊数/戦線の長さ)/2」という式で表されるようだが、実際にはここで残った数字も次の3)でほとんどキャップされるため、あまり意味のある要素ではないようだ。


3)の要素が最も重要で、戦闘の舞台となっている州(基本的には防御側の州)のインフラ量÷2+5の数字にその州の地形による補正(最大値は平地の1.5、最小値は山岳の0.4)を掛けた数字が「その先頭に参加できる大隊数の上限」となる。

 

4)の要素はそれが攻撃側であろうと防御側であろうと関係なく、その戦線に参加しているすべての大隊数(1と同じ考え方)が多い側に、ランダムで定められたボーナス数字が与えられる(最大3倍)。

 

記載の通り参加大隊数決定において重要になるのは3)と4)である。そして3)は攻撃側も防御側も同じ数字となるため、ここでベースを作りつつ、最終的にはその戦線における総参加大隊数が多い方にランダムではあるが絶対的に有利となるようだ。

(但し、最終的に先頭参加将軍(今回でいえばド・トーリ大将等)の指揮下の大隊数によるキャップも生まれるため、どんなに戦線自体で大隊数が有利であっても、戦闘に参加させようと思う将軍の指揮大隊数が少ないと実際の戦闘参加大隊数は少ないので注意)

 

つまり、勝敗を分ける肝となるのは4)。ここで絶対的な有利を取るためには、「とにかく各戦線で大隊総数において有利を取れ!」というのが必須要件となる。

そのうえで、ここでどれだけのボーナスが得られるかは正直分からない。

たとえば以下、「北満州の戦い」では、攻撃側のトルストイ元帥がこの4)で120大隊ものボーナスを得ている。上記画像は22だったのに対し、なぜここまで差が出てくるのかは不明だ。

攻撃側(ロシア)の戦線参加総大隊数は112、防衛側(清)の戦線参加総大隊数は27。圧倒的な差である。

攻撃側(ロシア)のトルストイ元帥は112大隊を参加させられており、防衛側(清)の将軍は10大隊を参加させられている。

攻撃側の参加大隊数決定ルール内訳。「到達した大隊の最大数」は、この戦線にそもそも参加している攻撃側の全大隊数が112のため、そこにキャップをつけるための要素である。そして問題の「戦線の数的アドバンテージ+120」。なぜここまでの莫大な数字になるのか? 防衛側がもはや士気0の大隊が多すぎてそもそも戦闘に参加させられる人数が少なくなってしまっていることに理由があるのか?

 

まだまだ不明なところの残るこの参加大隊数決定ルール。

とはいえそれが可視化されたのは非常に喜ばしいことである。

もう1つ発生した戦線での戦闘を例に置いておくので、何か理由に心当たりがある人はぜひご教示願いたい。

攻撃(清)側110大隊、防衛(オーストリアハンガリー)側55大隊が参戦している戦いだ。

こちらが攻撃(清)側の内訳。「戦線における数値的アドバンテージ」ボーナスがこのときは+55となっている。

 

 

もう1つの新要素、というかルール変更は、上陸戦に関する仕様について。

これまでは上陸戦を仕掛ける提督と上陸する将軍とは同じ戦線に属していることが必要で、実際にまだその説明文は直されず残っている。

だが、新バージョンでは下記の通り、今回上陸戦を指揮するヴァシリー・ザヴォイコ提督が属するドニエプル司令部所属のオレグ・バルクライ・ド・トーリ大将だけでなく、バルト司令部所属のマクシム・ネボガドフ少将、およびコーカサス司令部所属のフランツ・エドゥアルト・フォン・トートレーベン少将も上陸戦に参加することができるようになっている。

ここに、ヴァシリー・トルストイ元帥がリストアップされていないのは彼が現在戦闘中であるから、というのは理解できる。

一方で、決して戦闘中ではないし移動中でもないパヴェル・クラーキン中将がリストアップされていない理由は分かりかねる。

別に彼だけ遠い上陸地点やドニエプル司令部から遠い戦線に配置されているわけではない。下画像でいうと、黄色枠のところにネボガトフ少将が配置されており、緑枠のところにド・トーリ大将とトートレーベン少将が配置されていて、赤枠のところにクラーキン中将が配置されている。クラーキン中将だけが除外される理由は思い及ばない。

 

この謎も分かる方がいればご教示願いたい。

 

 

いずれにせよ、今回もまたロシアは外征において成功を収めることに成功。

とはいえ、やややり過ぎてしまい、悪名は50を突破。

せっかく高い正当性で低く抑えられるはずの急進派を、「外国国による制圧」という(日本語が怪しい)理由によるマイナスを莫大なものに膨れ上がらせてしまっている。

 

暫くは大人しくしておく必要があるだろう。

ロシアのさらなる成長のための、内政期間である。

 

 

経済成長と政治改革

皇帝アレクサンドル2世による経済改革の末、積極的な財政政策と投資の活性化により、ロシア帝国の経済は急成長。

1876年から1885年のまでの10年間だけでも7,100万ポンド、すなわち1.5倍弱の成長を見せつけている。

列強ランキングではまだ3位ではあるものの、GDPでは世界最大の経済国家となっている。

なお、このGDPの計算方式も変更されている。これまでは総生産額の中に投入額も含まれていたため、二次・三次加工品を生産できる先進国が圧倒的に有利だったのが、純粋に生産額のみで計算されるようになった。

参考までに旧バージョンで1880年時点の列強ランキングはこちら。5年前の数字にもかかわらずイギリスが8億6,580万と上記画像の7倍以上の数値を叩き出し、その他の国も軒並み低く抑えられている。

 

それはともかく、この圧倒的な経済成長を背景とし、政治力比較においても資本家の力を他を圧倒する数値に。

政治的影響力も24.5%と圧倒的な数値を出しており、すでに貴族会合(ロシア版地主)のそれを追い抜き全利益集団中TOPに立っている。

 

だが、土地所有者制度(貴族、聖職者、資本家、士官に投票権があり、とくに貴族が他の3種の2倍の投票数を持つ制度)の下で、貴族・聖職者・士官の数が著しく少なく資本家自体も絶対数がとくに聖職者・貴族と比べると圧倒的に少ない実業家集団は非常に不利な戦いとなり、その実業家集団が所属する平和革新党は毎回の選挙で敗北を重ねる。

1873年時点の土地所有職業の利益集団別所属数

1873年の第3回選挙結果

1877年の第4回選挙結果

1881年の第5回選挙結果


その中で、勢力を拡大しつつあったのが立憲民主党カデット)であった。

 

立憲民主党(Конституционно‐демократическая партия)、通称カデット(каде́ты)は、選挙制度導入を定めた1864年十月詔書を受けてモスクワ大学教授フョードル・イヴェーリチによって結成された左派政党であり、主に大学教授や公務員・事務員ら知識人層によって支持される急進的な自由主義勢力であった。

フョードル・イヴェーリチは、セルビアにルーツを持ちロシア軍で将校として活躍したマルコ・イヴェーリチ(1740-1825)やピョートル・イヴァノヴィッチ・イヴェーリチ(1772-1850)に連なる一族の出であり、モスクワ大学歴史学の教授を務める傍ら自由主義思想を先鋭化させていった。

 

その初期の主張はイギリスを参考にした議会政治と立憲君主制の実現であり、女性の権利の拡充・言論の保護の保証・ユダヤ人差別の禁止といった当時のロシアではかなり先進的であると同時に、それゆえにロシアの実態に即さない非現実的なものとして批判も受け、最初の選挙でもその支持率はわずか6.9%と振るわないものであった。

だがその後、一時は政権も握った農業党の元構成員たちも合流し、さらには経済発展と共に台頭してきた労働者たちの勢力をも取り込み拡大。

学者や公務員だけでなく、進歩的な思想を積極的に取り入れようとする一部の資本家や貴族の支持も受けたことで、土地所有者投票制度の下でも着実にその得票率を伸ばしつつあった。

自由主義思想を持つ貴族=地主というのは当時のロシアでは実際にそれなりにいたようだ。『父と子』の主人公の父ニコライ・キルサーノフもまたそういった人物の一人であり、積極的に海外(とくにイギリス)の最先端の知識を取り入れようとしていた。もちろん、それは比較的という話であり、総合的には保守的傾向にあることは間違いはなかった。


そしてついには1885年4月22日の第6回選挙において、カデットは十月党を打ち破るという画期的な成果を果たしたのである。

もちろん、選挙での勝利が即、政権の獲得に繋がるわけではなかった。ロシアの議会制度はそこまでまだ成熟してはいない。

しかし、セルゲイ・ウヴァーロフ失脚後、長らく十月党の党首および閣僚会議議長(首相)を務めていた「王党派」ヴァシリー・ザヴォイコ提督は1885年2月に引退。

後継を務めたのはロシア陸軍総司令官を務めていたヴァシリー・トルストイ元帥だったが、彼はまだ一将軍時代に軍部と連携し、その意向を政治に反映しようとする構えを見せてもいた軍国主義派の領袖でもあった。

彼の意見をすべて取り入れれば、軍隊が国家の顔をするようになってしまう。それは先のバルチスタン紛争のように、英仏とは均衡体制を構築しようと考えるアレクサンドル2世にとっては避けたい展開でもあった。

 

一方、1885年時点でのカデットの指導者は、ピョートル大帝時代からロシア国内の製鉄業を中心を担い、近年ではシベリア・アラスカの金鉱山の開発にも大量の投資を行うことで国家との結び付きを強めていった富豪デミドフ家の当主ウラジミール・デミドフが担っている。

父パーヴェル・ニコラエヴィチ・デミドフはクルスク州知事や国家評議会議員を務める傍ら、諸科学に貢献した人物に与えられる「デミドフ賞」を創設し、ロシアの科学分野の発展に大きく寄与した。生後間もなくその父を喪い、ヨーロッパでも随一であるその莫大な財産を継承したウラジミールは、国家への影響力を保持しつつも、1883年には『ロシアにおけるユダヤ人問題』という著書を出版するなど、進歩的な思想でもって知識人層の先頭に立つ働きを見せていた。


貴族会合・軍部を中心とした十月党への不信、そして国家的な影響力を持つヨーロッパ有数の富豪一族への配慮から、アレクサンドル2世は彼らカデットによる政権樹立を認める宣言を出すことに。

デミドフもまた、皇帝の反発を呼び起こすような急進的な改革を進めるつもりはなかった。穏健な改革論者である彼は、まずは女性の財産権を認める法律、そして児童労働に制限を課すといった比較的穏健な法律を通していく。

実業家集団の指導者ミハイル・プチャーチンも「改革論者」のため、実業家集団による反発も発生せず通すことができた。


さらにはこれまで世襲制で割り振られていた官僚の席を、首相の助言を受けた皇帝が任命していく法律も制定。当然、これまでその席をほぼ独占していた貴族たちは猛反発を見せるも、皇帝すらコントロールできなかった部分への介入を可能とするこの法改正は、アレクサンドル2世にとっても望ましいものであった。

これらの諸改革によって貴族会合の影響力は7.7%にまで減少。ロシアは近代化に向けて急速にその速度を増しつつあった。

ギリギリ「怒り」にならないようタイミングを見計らって法改正を進めていく。

 

しかし、このデミドフ伯爵の「緩やか過ぎる」改革に対し反発する勢力も現れてきた。

労働組合の指導者であるロマン・ネボガトフはその1人。

彼は選挙制度の拡大や集会の権利の保障といった労働組合の要望をデミドフ伯爵が一向に進めようとしないことに反発。

カデットを離脱し、独自の「メンシェヴィキ」を設立する。

「少数者」を意味するメンシェヴィキ。史実においては1905年の社会民主労働党分裂時に、レーニンが指導する「多数派」ボリシェヴィキに対し、少数派であったことからこう呼ばれている。このゲームの中においては、労働者や非正教徒、ユダヤ人といった、社会に疎外された少数者たちを保護する政党、という意味で名づけられているとしておこう(但しペルシア人満州人、アフリカ・オセアニア人といった非白人の権利までは彼らは眼中になかった)。

 

1889年の第7回選挙ではメンシェヴィキは惨敗を喫し、彼らが抜けたあとのカデットも引き続き勢力を維持。

労働組合を下野させ、残った知識人勢力と農村民勢力とで政権を担うこととなった。

 

しかし現行の選挙制度の下では惨敗し下野することとなった労働者勢力ではあるが、逆に彼らは投票権を持たない民衆を扇動し、政治運動を開始。

とくに選挙権の拡大を目指す運動はあらゆる階層の支持を集め、政権を構成する知識人層たちの中からも、消極的なデミドフ伯爵に対する批判の声が高まりつつあった。

そもそもにおいてこの制度改革は知識人層の強く支持するものであり、さらには全人口の18.4%におよぶ2,600万人もの人々からの支持も受け、制定確率は絶大なものとなっている。

国家で最も裕福な人々の中にもこの選挙権拡大運動を支持するものたちが少なからずいる。実際、現行の土地所有者投票よりは彼ら富裕層の選挙権の拡大につながることも確かではあった。

 

そして折よく、ロマン・ネボガトフの父マクシム・ネボガドフ少将が、政府の支持によって派遣されていたコンゴ川の源流を辿る探検を成功させてサンクトペテルブルクに帰還。

この事実がまた、「英雄の子」としてのロマン・ネボガトフへの支持の増大につながり、さすがのデミドフ伯爵もこの意向を無視することはできなくなりつつあった。

 

そして1891年12月15日。選挙制度改革が断行され、ある程度以上の納税額という制限は残りはしたものの、有権者数は制定前の4,600万から7,500万へと一気に膨れ上がることとなった。

ただし、この改革は、これまで独占的な投票権を保持していた一角である聖職者たちを多く含む農村民集を怒らせることにも繋がった。

これまでカデットの一員として知識人層と協調体制を取っていた彼らは再び単独で「農業党」を再建し離脱。

ゲーム的には「改革論者」であった農村民指導者ロマン・ヴォルコンスキーが亡くなり、穏健派のエフゲニー・ゴリツィンが新たな指導者となったことが直接的な原因であった。


これまで抑圧されてきていた実業家集団が本来のその政治力を存分に発揮できるようになり、逆に縮小されたカデットが勢力を失った結果、新制度下で行われた最初の選挙となった1893年選挙では実業家集団・小ブルジョワ集団で構成された「平和革新党」が勝利。

新たにこの平和革新党およびカデットによる連立政権が組まれ、首相はデミドフ伯爵から平和革新党党首ミハイル・プチャーチン伯爵へと変更された。

海軍提督を歴任し、江戸幕府との関税同盟締結にも貢献、1861年からは教育大臣を務めるなど活躍したエフィム・プチャーチンの嫡男である。

 


そしてこれは、アレクサンドル2世にとっては狙い通りの状況でもあった。

彼はかねてより「市場自由主義者」でもあり、現在の「農本主義」による経済政策は国家発展にとって不十分であると考えていた。

しかしその経済改革はデミドフ伯爵にとっては優先順位の高いものではなく、改革は後回しにされていた。

 

しかし今回、「自由放任主義イデオロギーを持つ実業家集団が政権に入ったことで、いよいよ改革のときがやってきた。

アレクサンドル2世に加え、同じ平和革新党を構成する小ブルジョワ層の指導者も「市場自由主義者」であり、制定確率に更なるボーナスが加わっている。

 

かくして、1894年1月27日。この平和革新党の力も借りてレッセ・フェールを制定。

より広く投資を集め、国家の自律的発展を目指す政策が開始されることとなる。

 

 

農本主義からレッセ・フェールへの変化について

ここで、伝統主義から農本主義、そしてレッセ・フェールへと至る中でいかにして経済的な変革が行われてきたのかを確認しておこう。

まず、1.2からの変更点として、資本家と貴族に加えて農家・商店主も、自身が所有権をもつ施設の余剰利益から得られる利益配当のうち、定められた割合を投資プールへと投資することになる。

この投資の割合については開発日記で述べられており、資本家は一律20%、貴族は10%、農家と商店主はそれぞれ5%とのこと。

simulationian.com

 

この固定割合に対し、各経済制度法によって「投資効率」がかけられる。前回も出した以下の表の「投資プール貢献率」のことである。

元々資本家は投資割合が高く設定されているため、資本家のレッセ・フェール下での投資効率は50%から25%に弱体化されたのも仕方ないとは言える。伝統主義下では資本家のペナルティは大きいが、単純に考えるとそれでも同じ伝統主義下の貴族よりも投資効率は高く、農本主義でそれが同じレベルになるようだ。


前回、伝統主義から農本主義に切り替えるタイミングで投資プールへの資金追加額が大きく変化した表を見せている。

 

今回も、1894年1月27日のレッセ・フェール制定前後の投資額を確認しておこう。

まずは1月25日。レッセ・フェール制定直前の投資プールへの資金追加額は以下の通り。

続いて制定直後(1週間後の2/1)の投資プール資金追加額は以下の通り。

工具工房や石炭鉱山といった、資本家が所有権を持つ施設については投資額が大幅に増えているのが分かるが、一方でアヘン農園や茶園といった、貴族が所有権を持つ施設についてはそれが大幅に減っている。

全体的な投資額自体は50万8,000ポンドから68万6千ポンドへと増額している。ロシアのように元から農業も非常に強い国家でなく工業中心の国家であればその効果はより大きなものとなるだろう。

 

とはいえ、普通にプレイしているとそこまで投資プールの枯渇という事態に陥ったことはないため、この部分の増額はそこまで大きな意味を持つ感覚はない。

それよりは、この農本主義(あるいは干渉主義)によって大きく増えた「民間建設への配分割合」がより大きな意味を持つだろう。

つまり、国家全体で生産される建設力の75%が民間によって建設されるというものである。

たとえば以下が、レッセ・フェール制定前後の建設キューの様子である。

制定直後なので建設のラインナップは変わっていないが、後者のレッセ・フェール制定直後の方が最下段のサラトフの石油リグやエラーケ・アジャムの小麦畑に建設力が投下されているのが分かるように、民間建設へと供給される建設力が増えたことが分かるはずだ。

 

もちろんこれは一面的には建設力全体のうち、プレイヤーが自由に建てられる建設量が減るという見方もできる。

だが、もちろん民間建設の部分は投資プールから支払われるため、政府の財布は痛まない。それは(自律的建設をonにしていないときのように)投資プールという形で表現されるため、見た目の収支は大幅に改善されることになる。

レッセ・フェール制定前後の収支表。黒字が一気に14万ポンドも膨れ上がった。

 

そしてこの増えた黒字の分を建設局の増築に回せば、失われた(ように見える)「プレイヤーの自由に建てられる」建設力を回復させることができる。しかもその間、民間建設が勝手に施設を建てていってくれるのである。

しかも、現状回している限りでは、この民間建設はそこまで非合理的ではない。しっかりと市場で不足している施設を増やしていってくれるので、単純に「楽」。とくに大国を回すうえではこの上なくありがたいシステムであるとすら言える。

レッセ・フェール時は民間施設を縮小させることができないという難点はあれど、「レッセ・フェールが弱体化した」という印象は今のところはない。

 

一方で、農本主義それ自体も非常に使いやすくなったと感じている。

それはこのVer.1.2の投資周りで感じた一番の変化なのだが、かつての農本主義・干渉主義・レッセフェールは、「投資プールから資金を融通してもらえる施設の種類の違い」という形で大きなプレイ体験の違いを生み出していた。

すなわち農本主義は農業系のみ、レッセフェールは工業・資源系のみ、干渉主義はそのすべての建設において、投資プールから資金が供出される、というものである。

 

だが、Ver1.2ではその「投資プールから資金が供出される」という概念がなくなった分、残るのは「誰が投資プールにどれだけの資金を供出するのか」という部分である。いわば農本主義は「今」農業が強い国家にとって投資額を増やすことができ、レッセフェールは「今」工業が強い国家にとって投資額を増やすことができる、という部分だけであり、「未来」については何もそこでは変化がないように思える。

たとえば先ほども載せたレッセフェール制定直前、すなわち農本主義制定時最終盤の民間建設キューの状況である。

一方、こちらは1895年時点の同じく民間建設キュー。レッセフェールがバリバリ機能しているときのそれである。

レッセフェール後は確かに資本家による工業系への投資が多くなったように感じはするが、さりとて農本主義の時代に農業系ばかりが投資されていた印象もない。

もちろん傾向はあるだろうが、農本主義下でも資本家が積極的に市場で不足している工業施設や資源系施設に投資している姿が見られ、以前ほど農本主義ピーキーな、言うなれば干渉主義やレッセフェールへの「綱渡し」でしかない、という状況でもなくなった。

今回貴族の力が強くなかなか土地所有者投票から切り替えられなかったため農本主義が長引いたが、とくにそれで不便を感じたことはなかった。これも、国家が違えばまた印象は変わってくるのだろうが。

 

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と、いうことで、レッセフェールも制定し、いよいよ自らが理想とする自由経済国家への変革を始めることのできたアレクサンドル2世。

続いて重商主義を廃し関税の無い自由市場へと切り替えていこうとしたのだが――志半ばの1893年12月23日。アレクサンドル2世は75年の生涯を終え、28年間の治世の末に崩御した。

ロシアの近代化を進め、これを世界一の大国へと押し上げた偉大なる立役者であった。

GDPだけでなく、威信ランキングにおいても世界一の座を射止めることができた。

 

後を継いだのは嫡男のミハイル4世。

「革新的」ではあるものの、軍事に関しては伝統主義的であり、かつ「好戦主義者」である彼は、果たしてどのようなロシアの未来を描いていくのか――。

 

 

第4回へと続く。

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1836年⇒1896年の収支推移

 

1836年⇒1876年の人口比率推移

 

1836年⇒1876年の政治力比率推移



 

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