2月8日に公開されたVer.1.2オープンベータ。
事前に出されていた情報以上にかなり大量の改善が行われており、(すべてが予定通りに進めば)3月13に予定されている正式版のリリースが待ち遠しく思える。
今回はこのオープンベータで反映されている新要素の紹介を中心に、ロシア帝国を「普通に」プレイしていきたいと思う。
「普通」ではないプレイについては、下記を参照のこと。
第2回となる今回は、中央アジアの征服及びペルシアの併合を完了させた1856年から。
未だ皇帝ニコライ1世の統治が続く中、貴族会合(地主)が強大な力を持ち続ける19世紀後半。
果たしてロシアはどんな未来を形作っていくのか。
Ver.1.2.0(Beta)
使用MOD
- [1.2]Japanese Improvement
- [1.2]Integrated Environment
目次
前回はこちらから
これまでのプレイレポートはこちらから
強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ:AI経済強化MOD「Abeeld's Revision of AI」導入&「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」、「AIの好戦性」を「高い」に設定
金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り
改革の始まり
1861年8月。ロシア皇帝ニコライ1世は、イギリスの実業家ウィリアム・ジョージ・アームストロングが発明した後装式の大砲を導入。早速陸軍への配備を進めようとした。
しかし、現在のロシア陸軍の「農民召集兵」制度の下では、高度で精密な新兵器の導入はうまくいかない。よく訓練された「職業軍人」制度の導入が必須となる。
これに強硬に反対したのが、セルゲイ・ウヴァーロフ率いる貴族会合。
彼らの持つ「権威主義」イデオロギーは、現行の農民招集兵制度の堅持を支持しており、職業軍人制度への制度改革に異を唱えることとなった。
エカチェリーナ2世の寵臣で、古代ギリシャ文学や考古学に関する多くの著作を持つ彼は西欧での評価も高く、政府内での高い発言力と国民的人気を有しており、その彼が率いる貴族たちをニコライ1世も無下にすることはできなかった。
ゆえに19世紀後半になってもなお、彼らの影響力は非常に高く、職業軍人だけでなく農奴制や非効率な経済政策など、西欧に追いていかれないようにするために必要な改革が遅々として進まない状況に陥っていた。
これは何とかしない。今はまだ、先の普墺戦争も問題なく乗り切っていたが、今後より世界各国で軍隊の近代化が進む中、ロシアがいつまでも旧時代の軍備のままでいたとしたらあまりにも危険である。
自らも保守的で自由主義者たちによる改革には弾圧を加えていたニコライ1世も、この状況には強い危機感を抱かざるを得なかった。
ゆえに彼は、直属の秘密警察である「皇帝官房第三部」に特命を与える。
1863年5月1日。
ニコライ1世は官房第三部長官ドルゴルーコフ公爵からの報告で、先だって世間を賑わせていた違法な少年売春宿スキャンダルにウヴァーロフが関わっていたという「証拠」を手に入れた。
ただちにこれを利用し、彼はウヴァーロフを逮捕。すべての役職からの解除を宣言した。
ウヴァーロフの後任は黒海艦隊総司令官であるヴァシリー・ザヴォイコ提督が務めたがウヴァーロフほどの求心力は彼にはなく、わずかばかりなれど貴族会合の影響力が低下。
結果、ニコライ1世は自らの政権に実業家集団を入れ込むことができるようになったのである。
実業家集団の指導者はニコライ1世の従兄弟にあたるアレクセイ・アレクセーエヴィチ・ボブリンスキー。
貴族の力を削ぐという一点において彼と共闘関係を結んだニコライ1世は、彼ら実業家集団の要望を容れて選挙制度の導入を決める「十月詔書」を1864年10月22日に発布。
但し、一部の急進的な自由主義者たちが求めていたような普通選挙ではなく、あくまでも土地所有者にのみ選挙権を認める徹底的な制限選挙である。
貴族会合の指導者ヴァシリー・ザヴォイコ提督は、この事態を受けて急ぎ「十月党」を結成。貴族たちの既得権益保護と君主制堅持を党是とした。
一方の実業家集団は穏健左派「平和革新党」を、知識人集団はより急進的なリベラル政党である立憲民主党(Конституционно‐демократическая партия, 通称「カデット(каде́ты)」)を結成するなどして、保守勢力に対抗する構えを見せた。
しかし、実業家集団の指導者ボブリンスキー伯爵は選挙期間中にまさかの急死。
後を継いだのは信念を持つ若き才能ウラジミール・アレクセーエフ。
しかし実業家集団内での権力を手に入れるだけのカリスマ性を持っていた彼も、その横柄な態度も相まって保守勢力中心の有権者たちからの受けは良くなく、またその共和主義的な思想ゆえにニコライ1世からも見限られてしまい、皇帝と実業家集団との蜜月関係はわずか数年で終わりを告げた。
逆に勢力を拡大したのがニキータ・ケリフ率いる農業党。ボブリンスキー伯の製糖業の基盤となっていた農場を経営する農場主や聖職者たちを中心とした彼らは、その弱体化を狙った貴族会合政府による禁酒法政策に徹底して反対。
その反対キャンペーンの盛り上がりを受けて同じく酒類生産に関わっていた貴族たちの一部も取り込んで、広く有権者たちの支持を集めることに成功したのである。
結果、1865年4月24日の第1回選挙は十月党が圧勝するものの、農業党が善戦。逆にカデットや平和革新党といった左派勢力は失敗に終わる選挙となった。
この結果を受け、ニコライ1世は十月党と農業党、そして軍部を中心としたロシア会議による連立政権を樹立。
国力増強に向けた改革への第一歩に、手を付けていくこととなる。
その背景で、ニコライ1世はさらなる対外政策も進めていた。
南下政策の進展
1856年にペルシアを併合し、インド洋へと繋がる「不凍港」を手に入れたロシア帝国。
しかしそれだけで満足するわけにはいかない。ロシアはさらに多くの海へのアクセスを手に入れ、強大なシーパワーを獲得する必要がある。
そのためにニコライ1世はまず清への侵攻を目論んだ。
しかし、1860年時点ではイギリスとオーストリアが清に対して「守護」態度を示しており、この状態で清に攻撃を仕掛けようとすれば彼らが参戦してくることは明白であった。
さらに、この時点で10年前の普墺戦争時に獲得していたオーストリアへの恩義が間もなく消滅しますとのアラートが発生。
恩義の失効ってこんなに早かったっけ・・・?
いずれにせよこれを使わずに消してしまうのはもったいない。
と、いうことで方針転換。
東ではなく西に視線を向け、オスマン帝国にコンスタンティノープルの割譲を要求。恩義を消費してオーストリア帝国もここに招き入れる。
さらに「スラヴ人の解放」を掲げ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、ブルガリア、アルバニアの解放も追加で要求。
プロイセンもオスマン帝国側についたことで無事開戦されるかと思いきや・・・1860年6月29日、残念ながらオスマン帝国は屈服。
とはいえ、これでコンスタンティノープルは約400年ぶりに正教徒の手に取り戻されることとなった。
それから5年後。
改革の始まりを経つつ、オスマン帝国との停戦期間も終え、もう一度領土要求を、と思っていたところ・・・そのタイミングで確認すると、なんと清に対する諸外国の態度が悪化している!
これはチャンス。
今度こそ清への侵攻を開始すべきと判断。
早速、その外満州及び南満州の領土割譲、そしてモンゴル・ウィグルといった露清国境の諸民族の独立を要求する。
そして露清国境にバルト司令部の兵を除く全軍28万を張り付ける。
清軍はこれを総勢58万の兵で迎え撃つ構えだが、いくらまだ職業軍人制度への切り替えが済んでいないロシアとはいえ、戦列歩兵・騎馬砲兵中心の清の旧時代軍隊に対して守りで負ける恐れはまずないだろう。
そして1865年10月31日。総勢90万の兵がぶつかり合う露清戦争が勃発する。
早速露清国境で次々と清軍を撃退するロシア軍。
また、開戦と同時に出航したアレクサンドル・イェゴロフ提督率いるバルチック艦隊が12月5日に遼東半島に上陸すると、そこから食い破るようにして占領地を広げていく。
さらにザヴォイコ提督率いる黒海艦隊とバルチック艦隊とで清の輸送船団を次々と破壊。
イギリスは今回の戦争に直接的な介入はしなかったものの裏では大量の武器を清に輸出していたようだが、それを運ぶすべて沈没させたことで清は圧倒的な武器不足に陥る。
結果、清の防衛軍に十分な数の武器が支給されず、その攻撃力も防御力も半減されてしまっている。
恐ろしい物量は清侵攻時の最大のネックではあるのだが、それもここまで弱体化してしまえば敵ではない。
防衛に徹していた露清国境側でも侵攻戦を開始し、清は南北から攻め込まれる形となってしまった。
1867年11月15日。
開戦から2年以上の時間をかけてはしまったものの、清はついに降伏。
北京で結ばれた講和条約によって、ロシアの要求はすべて認められることとなった。
これでロシアは南満洲までの領域を獲得し、太平洋へと繋がる不凍港を獲得。
さらに緩衝国家としてのモンゴル帝国とウィグル王国とを独立させることとなった。
これまでは英仏に継ぐ国力を誇っていた清もこれで脱落。
ロシアは名実共に第4位の位置に付ける形となった。
これでロシアはインド洋、地中海、そして太平洋へと繋がる港を手に入れた。
対外政策としての南下政策はひとまず成功。
続いて、国内の改革をさらに推し進めていくこととなる。
アレクサンドル2世の改革
露清戦争勃発直後の1865年8月22日。
ロシア皇帝ニコライ1世は40年の治世を経てその生涯を終えた。
新たに即位したのはその嫡男であるアレクサンドル2世。
史実では農奴解放をはじめ自由主義的改革を推し進めた人物として知られるが、その実態は決して真からの自由主義者というわけではなく、むしろ「下から起こるよりは、上から起こった方が良い」という彼自身の言葉からも分かるように、抗い難き時代の趨勢に対し専制政治を延命させるための妥協としての諸改革であった。
Ver.1.2からはその史実を反映し、1.1までは知識人層だった彼の支持基盤が父と同じ貴族会合に。
代わりに「市場自由主義者」のイデオロギーを持っており、これは農奴制廃止への支持を表明するイデオロギーでもあった。
よって、1865年選挙で政権入りを果たした農業党と、皇帝アレクサンドル2世の思惑とを合わせ、政府は農奴解放へと突き進む。
そして1867年10月19日。アレクサンドル2世はついに農奴解放令を発布。
全国の農奴は晴れて自由農民となり、なおも土地所有権の多くが地主の手にあるなど不十分なところはあれど、それでも貴族たちの力を大きく抑えることには成功した。
これで勢いを得たアレクサンドル2世は軍部率いる「ロシア会議」を政権内に入れ、職業軍人制度の制定を目指す。
1869年11月5日にはこれも制定され、ロシアは西欧に置いていかれないだけの軍事的基盤を獲得したのである。
さらにその間に知識人層を中心としたカデット(立憲民主党)が主導する市民権拡大運動に便乗。
1868年4月15日には市民権法が改正され、これまではロシア人による不当な差別を受けていた帝国西部のポーランド人やドイツ人、バルト人についても、「正教徒である限りにおいては」ロシア人やウクライナ人たちと同じ権利を持つことができることが定められた。
一方でアレクサンドル2世はこの改正を受けてポーランド人を「正式なロシア帝国臣民」であると定め、旧ポーランド王国領であったマゾフシェ、ヴィエルコポルスカ、マウォポルスカの3州の編入を開始。
1873年にこの編入は完了し、形式的に存続し続けていたポーランド立憲王国は名実ともに消滅することとなった。
農奴解放、軍隊の近代化、そして市民権拡大・・・農業党と手を組んだアレクサンドル2世の改革は留まることを知らない。
次に彼が手を掛けたのは経済改革――旧き伝統主義を脱し、「農本主義」へと舵を切る、大改革である。
新経済システムの解説
農奴解放を成功させた農業党は、政治力を増した百姓や農場主たちからの支持をさらに集め、勢力を着実に拡大させつつあった。
1868年にはその指導者に、先の露清戦争の英雄であるアレクサンドル・イェゴロフ提督がついたこともまた、その勢力伸長に貢献することとなった。
その結果、1869年に行われた第2回選挙では、再び第一党の座を十月党に奪われはするものの、その勢いはほぼ互角にまで近づいており、政権内での発言力はより一層強まることとなった。
これを受け、アレクサンドル2世は重要な経済制度改革である「農本主義」の制定に向けて突き進む。
経済の主導権を地主層から奪い取るこの政策は、彼らの既得権益をさらに失わせることに繋がるため、やはり強い抵抗を受ける形となる。
しかし皇帝アレクサンドル2世自ら先頭に立ってこの政策を後押ししたこともあり、抵抗を跳ね除けて1871年5月5日に制定。
国内の投資家たちからの投資をより促進し、特に農村部の経済発展により貢献する経済システムが完成することとなった。
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ここで、Ver.1.2での目玉となる経済システムの変更について確認していこう。
詳細は開発日記、とくにそれを日本語訳してくれているSimulationian氏の下記記事を参照のこと。
新登場の「共同所有(Cooperative Ownership)」を加えた全6つの経済制度法の特徴の違いをまとめると以下の通りとなる。
「民間建設への配分割合(Private Construction Allocation)」とは、産出されている建設力全体のうち、どれくらいの割合を民間建設に振り分けるかという割合を示すようだ。
上記表の通り、そもそも民間建設を無効化する司令経済を除くと伝統主義が最もその割合が小さく、政府が比較的自由に建設できる経済システムであることが分かる。
たとえば以下は農本主義制定直前と直後の民間建設キューの状態を表したもの。
直前(上図)では合計27.4建設力が民間建設で消費されているのに対し、直後(下図)では合計54.9建設力が民間建設で消費されているのが分かる。ちょうど2倍であり、上記表の数値と一致する。
そしてこの建設のために必要な資金を供出しているのが投資プールである。旧バージョンでは(あるいは新バージョンでもゲームルールで自律的投資を無効化した場合は)各法律により特定の施設の建設時にその費用をこの投資プールから資金を調達していたが、新バージョンではその資金がすべて民間の自律的投資に用いられる。
各法律で変化する「投資プールの貢献率(Contribution efficiency)」は、各職業が各施設で得た利益配当の何割をこの投資プールに供給するかの割合を示している。
上記表を見て分かるように、新バージョンでは伝統主義でも投資プールが機能するようになっているが、その主な主体である貴族と資本家の投資効率はかなり抑え込まれている。
それが農本主義になることによって資本家も含め投資効率が上昇し、さらに貴族と農家のそれは劇的に向上している。
結果、農本主義制定前後における投資プール全体への資金追加額は全体的に上昇しているが、その中でもとくに農業系の施設の追加額は2倍近くにまで膨れ上がっていることが分かる。
この資金を元手に、自律的な建設が行われていくことになる。
だが、見た感じ投資プールそれ自体は全職業共通のもののように思われ(少なくとも旧バージョンではそうだった)、自律的な建設においてどれを建設するかが各法律で施設の種類ごとに重みづけされているのかどうかは良く分からない。
その辺りはやりながら検証していくことになるだろう。
この投資プールと自律的な建設の拡大、そして伝統主義を廃したことによる「課税キャパシティ-25%」ペナルティの廃止によって、財政は一気に健全化。
そしてもちろん、伝統主義から脱却することはもう1つの「経済改革」に着手できるようになったことを意味する。
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イェゴロフ提督率いる農業党の意向にも沿い、農本主義の制定を果たしたアレクサンドル2世。
彼はさらに、農業党の支持基盤である農場主や百姓たちの求める、地税の減税と累進性の高い所得税の増税、すなわち「持たざる者」への相対的減税となる「人頭課税」制定を進める。
これももちろん貴族たちの強い抵抗に遭いはしたものの、軍部率いる「ロシア会議」も賛成したことで1873年1月5日に制定。
農本主義制定直後(1871年5月5日)の収支と比較しても所得税収が6万8千ポンドから14万7千ポンドに2倍以上の増収。
これを受けて消費税を削減し国民の負担を軽減すると共に、建設への投資額を2.5倍近くにまで向上させ、より積極的な財政投資を可能にした。
1873年4月24日には第3回選挙が行われ、もはや十月党と農業党はほぼ互角の得票数を得るほどにまで接近していた。
一方、この農業党にイェゴロフ提督率いる農村民集団だけでなく正教会も合流。
農業党内における主導権は彼ら正教会が握る結果となり、彼らの意向を受けてアレクサンドル2世は次なる改革として「宗教学校令」を発布。
聖職者たちによる影響は免れないものの実質的な大学の自由化を実現させ、国家の課題であった識字率の向上に向けて、アレクサンドル2世は舵を切ることとなる。
また、これは同時に帝国西部におけるカトリック教徒たちの正教会への改宗を促進していくことも意味していた。
未だ貴族勢力が根強く残り、同じく保守勢力である聖職者たちの力も借りざるをえない状況ではあるものの、アレクサンドル2世は少しずつ、少しずつその改革の道筋を進んでいくこととなる。
しかし、あまり悠長なことは言ってはいられないのもまた事実である。
強大化するロシアの先を行く英仏二大国もまた、この20年で更なる成長を遂げていた。
英仏の拡大
19世紀全体を通して「パクス・ブリタニカ」として最盛期を迎えていた大英帝国。
AI操作の場合、旧バージョンまではその史実に反しゲームの後半になるにつれ没落が宿命づけられる悲しい国家であったが、新バージョンではそのかつてのAI英国が持っていた弱点がいくつか克服され、健全な成長が遂げられているように思う。
とくにゲームルールで「好戦的なAI」にしていることもあって、この世界の英国は非常に攻撃的。
たとえば1860年にはフランスとの戦争によってその保護国下から外れたアルジェリアにイギリスが侵攻。
これを守ろうとしたイタリアに上陸作戦を仕掛け、完勝を果たしていた。
さらに1856年に勃発したインド大反乱ののち、史実通りにインドを直轄植民地「イギリス領インド帝国」としている。これも旧バージョンではあまり見られなかった光景のように思う。
このイギリス領インド帝国に隣接するバルチスタンのマクラン国も併合し、ロシア領ペルシアと国境を接する形に。グレートゲームは目前に迫っている。
極めつけは1871年にイギリスが江戸幕府に対し開国を要求し江戸湾沖に黒船を並べたこと。しかも開国だけでなく、彼らは関東(江戸)の割譲まで要求した。
江戸幕府は清を味方につけて対抗しようとするも、イギリスはすでに露清戦争を勝利で終えていたロシアに対して青島の港の割譲を餌に参戦を依頼。
ロシアがこれを呑むと今度はアメリカがこれに対抗し江戸幕府側につき、まさかの「太平洋戦争」勃発かという事態にまで進展した。
残念ながらこれは江戸幕府が屈服したことで戦争にならず終了。イギリスは江戸の開港という目標のみを達成することとなった。
しかし列強による江戸幕府開港自体、これまでのプレイではほとんど見ることのなかった事態。
AIの着実な進化を感じられて、とても喜ばしいことであった。
一方、イギリスのライバルであるフランスもまた、負けてはいなかった。
前回の普墺戦争の勝利によってプロイセンから独立させ緩衝国としていたヴェストファーレン公国だが、案の定というか、実に「歴史的なふるまい」によってフランス王国がこれを保護国化。
フランスの直接的な影響の及ぶ領域が、ドイツ領内にくっきりと入り込む形となった。
さらに1872年7月には英領インドに隣接するビルマの傀儡化に成功。
英仏の激しい争いが世界各国で繰り広げられつつあった。
1876年時点の列強ランキングではイギリスがしっかりと首位をキープ。フランスは威信値でこそ差をつけられているが、GDPでは列強首位に立つ数値を見せている。
英仏の強大化は、ロシアにとっても看過できない事態である。
同じ危機感を抱いているであろう隣国オーストリアが、普墺戦争以来の友好関係の末、ロシアとの同盟(墺露同盟)を締結を打診してきたことに同意。
さらには日本、スカンディナヴィア帝国とも関税同盟を結び「大ユーラシア経済圏」を設立。
イギリス市場に次ぐ世界第2位の市場を形成し、英仏二大国への対抗の構えを見せることとなった。
果たして、ロシアはこの激動の時代を無事、乗り越えることはできるのか。
そして、国内の近代化の行方は。
第3回に続く。
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1836年⇒1876年の収支推移
1836年⇒1876年の人口比率推移
1836年⇒1876年の政治力比率推移
これまでのプレイレポートはこちらから
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