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【Victoria3プレイレポート/AAR】パクス・ネーエルランディカ 第2話 自由と民主主義改革、そして中国分割(1856年~1876年)

 

19世紀前半、ナポレオン戦争後に成立したネーデルラント連合王国は、当初南北ネーデルラントを統一する国家として生まれた。

しかし宗教も言語も歴史も全く異なるこの2国が統合され続けることには限界があり、やがて1830年に南ネーデルラント(ベルギー)人が蜂起し、事実上の独立。

ネーデルラント連合王国初代国王ウィレム1世は最後まで再統合を夢見たが、それを叶えることは出来ず1847年にその生涯を終えた。

この後を継いだ息子のウィレム2世は、自身と同じ「改革論者」の実業家集団指導者カレル・カーター首相と手を組み、父を支えていた保守派の商人たちの影響力を削減。

そして「好戦主義者」の陸軍大臣アンドレアス・ヴィクトル・ミシェルの支持のもと、1854年にはポルトガル王国を従属させるための戦争を開始。

このとき、ベルギーがポルトガル側について参戦を決めたことで、この戦争は思わぬ形で「統一戦争」へと変貌することとなった。

 

そして1856年。

戦争に勝利し、南北ネーデルラントの再統一を実現したウィレム2世。

それは父の悲願の達成であり、そして――世界に「大蘭帝国」の名を轟かせるための第一歩となったのである。

 

歴史は新たな道を歩み始める。

その先にある「世界の海を支配する帝国」の座は、果たしてどの国が手中に収めることとなるのだろうか。

 

~ゲームルール~

  • 「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」に
  • 「AIの好戦性」を「高い」に

 

Ver.1.2.7(Hot Cinnamon Spice)

使用MOD

  • Cities: Skylines
  • Historical Figures
  • Japanese Language Advanced Mod
  • Japonism
  • Romantic Music
  • Universal Names
  • Visual Leaders
  • Improved Building Grid
  • More Spreadsheets
  • Expanded Characters & Commanders of Historical Importance(ECCHI)
  • Declare Interests Button on top
  • Extra Topbar Info

 

目次

 

前回はこちらから

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これまでのプレイレポートはこちらから

1.2オープンベータ「ロシア」テストプレイ

MOD『出版産業の興隆』で遊ぶ大英帝国RP重視プレイ

強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ:AI経済強化MOD「Abeeld's Revision of AI」導入&「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」、「AIの好戦性」を「高い」に設定

大インドネシア帝国の夢

大地主経済:ロシア「農奴制」「土地ベース課税」縛り

金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り

コンゴを自由にする

アメリカ「経済的支配」目標プレイレポート

初見スウェーデンプレイ雑感レポート

 

 

自由と民主主義の発展

「統一戦争」を終え、海上帝国を築くポルトガル王国も傘下に収めることとなったネーデルラント連合王国

世界に広がるその領域の中には実に多種多様な民族が溢れ、王国の富の基盤となっていた。

スタート時点では国民の92%を占めていたオランダ人は20年後にはわずか30%弱に。しかし「国民至上」法の下で、彼らは全体の実に7割以上の政治力を握る結果となっていた。


一方で、その統治の実権は未だ本国人、とくに旧来の北部ネーデルラントを支配する「オランダ人」たちがほぼ独占してしまっているような状況。

そのことに、国際化する王国最大の都市アムステルダムとその周辺に住む知識人たちは不満を募らせるようになっていき、とくにその中心に立つアシュケナージ(ドイツ語圏のユダヤ人)たちは、持ち前の金融ネットワークと資本力を活かしネーデルラント連合王国内での影響力を少しずつ高めつつあった。

そして1856年1月11日。

知識人たちを支持基盤とする自由主義連合の党首であった「平和主義者」ガブリエル・ストックーゼンが、「統一戦争」中の自由貿易党による反平和主義者キャンペーンの影響を受けて辞任。

その後釜として、自由主義を掲げるユダヤ人のサロモン・ローゼンタールが新たな自由主義連合党首として台頭することとなった。

一度は支持を失い、1855年選挙では愛国党に敗れる姿も見せていた自由主義連合は、このローゼンタール党首の下で再び勢力を拡大。

一方、ウィレム2世の右腕として活躍していた「改革論者」カーター首相は1859年選挙の直前に男性売春宿を巡るスキャンダルに巻き込まれ、失脚してしまった。

代わって力をつけつつあったのが労働者や機械工たちを中心に支持を集める社会民主労働党

1859年選挙ではローゼンタール率いる自由主義連合が勝利するも、2番手に僅かの差で社会民主労働党が迫るなど、王国を巡る政治状況は急速に変化しつつあった。

かつて隆盛を誇っていた小ブルジョワ集団率いる農業党は今や見る影もないほどに弱体化していた。

 

そんな中、知識人層や労働者たちの求める諸改革が着実に実行に移されていく。

まずは「児童労働の制限」。

次に「言論の保護」。

さらには、選挙権をこれまでのように一定以上の納税を行っている一部の者のみに認めていた選挙制度を改革し、一定以上の年齢の男子全員に拡大する「普通選挙」法も制定。

「改革論者」のウィレム2世も、あまりにも性急すぎるこの諸改革にやや難色を示す場面もあったものの、もはや民衆の勢いは止めることはできず、されるがままとなりつつあった。

 

そして改正された選挙法の下で行われた1863年選挙において、ついに社会民主労働党が第一党の座を掴み取る。

自由と平等、そして民主主義――ネーデルラント連合王国は、先進的な思想において世界をリードする存在となりつつあった。

 

一方、世界情勢は混沌に飲み込まれかけていた。

そのことは、思想だけでなく経済においても躍進を目論む連合王国にとっては、その拡大における大きな好機をもたらすこととなる。

 

 

第2次西蘭戦争

1863年6月。スペインがイギリスにアフリカの植民地の一部とジブラルタルの返還を要求。

無謀と思えたこの行為の意味は、そこにフランスがスペイン側について参戦したことによって、一気にその意味を変質させることとなった。

世界の二大国が戦争に突入した隙を狙って、彼ら以外の列強が関心を寄せていないインドネシア地域での勢力拡大を目論む。

狙うは絶賛戦時下にあり余裕のないスペインの植民地フィリピン

狙い通り英仏共に参戦することなく、1864年5月12日。

30年前とは逆にオランダから仕掛ける形で第2次西蘭戦争が勃発する。

兵数では徴兵も行っているスペインの方が上。

しかし散兵を解禁しているオランダの方が戦力投射の値では上回っており、上陸戦では割とギリギリではあったが何とか一発で勝利。成功を収める。

本当にギリギリの勝利だった・・・。

 

橋頭保さえ獲得してしまえば、あとは防戦一方でも問題ない。

圧倒的な質の差で防戦を続けることで大量の敵兵の屍を積み上げ、勝手に戦争支持度を下げていってくれる。

下手に戦争賠償金などを要求すれば、スペイン上陸し首都を強襲する必要なども出てくる場合がある。

そうでなく最低限の領土(今回でいえばフィリピン)を要求し、その一部だけでも占領してしまえばいつかは勝利できる。小国のうちはそういった戦略が重要になってくるだろう。

 

1865年10月。スペインはついに折れ、フィリピンの割譲を認めて降伏。

ネーデルラント連合王国はフィリピン植民地を新たに手に入れ、毎週1万2千ポンドの「上納金」収入を追加することとなった。非常に美味しい。

ポルトガル植民地に続き、フィリピン手中に収めたことによって、インドネシア地域におけるオランダ市場の存在感は絶対的なものとなりつつあった。

 

だがこの成功は、より大きな成功への前哨戦に過ぎなかった。

このアジアの富に対し、オランダだけでなくその他の西欧列強がいよいよ本格的に食指を伸ばし始めてきたのである。

 

 

アジアの混沌と中国分割

最初に動いたのは列強3位オーストリア

第2次西蘭戦争終結から1か月後の1865年11月。徳川慶喜公が治める江戸時代の日本の沖合に、突如として4隻の「黒船」が姿を現したのである。

さらに1870年8月。

ビルマ方面で勢力を拡大していた英国が、その清との国境に位置する雲南地方で勃発したパンゼーの乱に乗じてこの地域の安定化とビルマ人の保護を名目に同地に侵攻。

清国に対して「保護」の姿勢を持っていたプロイセンが清側に付いて英国に対抗するも、その宿敵であったオーストリアも参戦。

さらに1871年2月12日。

今度は列強2位フランスが香港を含む潮州の地と海州の港を要求。

列強諸国による東アジアでの「パイの奪い合い」が今まさに始まろうとしており、これにオランダも乗り遅れるわけにはいかなかった。

 

ちょうどこの直前の1月26日にウィレム2世が崩御

新たな王はまだ24歳と若いフレデリク・ハンドリク1世

開明的で高い社交性とカリスマ性を持ち、王子時代は国民の信奉を集めていた才児であったが、やや繊細過ぎるきらいがあり、即位前後の頃より精神薄弱の様相を見せるようになっていた。

ゆえに国政は自由主義連合の党首で首相でもあるサロモン・ローゼンタールと、連立政権を組む社会民主労働党の党首ヘンドリック・ヴォルタービークによって牛耳られていた。

今や知識人、実業家に次ぐ第3位の勢力となった労働者組合の指導者ヴォルタービークは、決して先鋭的な思想の持ち主ではなかったものの、その弁舌の巧みさにより支持を広げていた。


「平和主義者」の新国王フレデリク・ハンドリクの意志は政策に反映されることはなく、混乱する清国内の特に山東半島にて大規模な反西洋・反キリスト教の過激派集団が形成されつつあることを理由にネーデルラント連合王国は清国への宣戦布告を決断した。

華北に関心を持つ列強のほとんどが何かしらの戦争に参加している現状、オランダの野心を止められるものなど存在しなかった。

 

かくして1871年5月23日。蘭清戦争の勃発。清は同時に3つの戦争に身を投じることとなったのである。

 

7月27日。

山東半島沖の黄海でフランス海軍と清海軍との戦いが繰り広げられている隙に、対英戦争で出払っておりもぬけの殻となった山東半島エルンスト・ファン・イルペンダム将軍率いる4万の兵を上陸させる。

そのまま8月までには半島全土を制圧。

これで戦争目標は達せられたため、あとはこの戦線で防備を固めるだけ。

防衛戦を張るネーデルラント連合王国軍はイルペンダム将軍率いる4万5千の兵。

対する清軍はそのおよそ10倍にもおよぶ45万もの兵が山東の奪還を目指して襲い掛かってくる。

さすがにこれは敗北。

しかし勇敢なるイルペンダム将軍は3か月以上にもわたって抵抗を続け、自分の3倍以上もの敵兵の屍を積み上げた上で後退し、新たな防衛線を敷いていく。

その隙にフランス軍も上陸を成功させ、北京に入城。

四方八方を夷狄に蚕食され、もはや東洋の大国・清の命運は今にも尽きようとしていた。

1872年11月21日。大清、降伏。

中国は分割された。「眠れる獅子」は、もはや見る影もない。

そして異国の地で決死の防衛戦を続け祖国に大きな富をもたらしたイルペンダム将軍は「国民的人気」を得、小ブルジョワ集団の指導者にもなっていた。

 

この勝利を経て、ついにオランダは列強入り。「大蘭帝国」への道をまた一段と昇ることに成功した。

 

だが、ある意味これは入口に過ぎない。

目の前に並ぶ、英仏を中心とした大国たちとの国力差はまだ、大きい。

この差を埋めるべく――この国は、やや過激な方法でもって新たな「改革」をしていく必要があるだろう。

 

 

第3回へ続く。

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収支および政治力比率推移(1856⇒1876)

前回はネーデルラントの統一を果たしたが今回は中国の一部(人口1,600万の山東半島)を併合したことで人口は約3倍に。GDPは5倍に成長した。

教育改革も進め最終的にはこの時点ですでに小学校義務教育も制定したことで教育制度もレベル5にまで投資。識字率は世界トップクラスとなった。

一方、この成長を支えるために膨れ上がる公務員への給与支払いも大きく増大。軍事費も8万人近い兵と80隻以上の海軍を維持するための費用は4倍以上に拡大し、財政赤字も成長。この時期は常に借金状態での国家運営を強いられる形となった。

前回の20年間では商店主の力を大きく削減し資本家の力を伸ばしたが、今回の20年間ではその資本家の力が相対的には弱体化。代わって力を伸ばしつつあるのが労働組合の基盤となる労働者と機械工。普通選挙の導入もその後押しとなった。

文化・宗教の政治力推移も見ていこう。この20年間で、「オランダ人(北部ネーデルラント人)」の政治力は大きく減衰し、代わってフラマン人・ワロン人(南部ネーデルラント人)のそれが大きく伸長することとなった。それと並行し、カトリックの数も政治力も増している。

それもそのはず。今や連合王国の首都のあるホラント州よりも旧ベルギー首都のあるフランドル州の方が人口*1も市街地のサイズ*2も大きく、連合王国最大の都市は「国際金融都市」ブリュッセルとなりつつあった。

南北の格差が縮まり、一部では逆転しつつある中で、真の意味でのネーデルラントの統一が進行しつつあることが見て取れる。

 

一方、新たな植民地の獲得は、新たな差別の出現を導くこととなる。

その差別とそれが招く騒乱とにどう対処するか――それが、次の20年への課題となるだろう。

 

第3回へ続く。

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*1:ホラント州240万に対しフランドル州390万。

*2:ホラント州24に対しフランドル州36。