先の普墺戦争に勝利したプロイセン王国は、そのままオーストリアを除くすべてのドイツ諸邦の支持を得て、1849年4月3日、ついに「ドイツ帝国」を成立させた。
その統一ドイツで首相に就いたのが、兵器産業で財を成したアルフレート・クルップ。
彼と彼を支持する資本家たちの強い意向もあり、帝国は東の大国・清に対する戦争を開始。
フランスが奪われたエルザス=ロートリンゲン奪回を目論みここに介入してくるも、同じ中国権益を餌にイギリスを抱き込み、再び四カ国による大戦が巻き起こる。
これに勝利したドイツ帝国は、中国に巨大な植民地を築き上げることに成功したのである。
経済界との結びつきを強め、発展する栄光のドイツ帝国。
しかし、ドイツ民族以外を搾取して国家の発展を目指すその姿に、異を唱える者たちも現れる。
統一ドイツは果たしてどんな未来へと導かれていくのか。
~ゲームルール~
- 「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」に
- 「AIの好戦性」を「高い」に
- AI経済改善MOD「Anbeeld’s Revision of AI」を導入
Ver.1.1.2(Earl Grey)
使用MOD
- Japanese Language Advanced Mod
- Cities: Skylines
- Dense Market Details
- Dense Trade Routes Tab
- Improved Building Grid
- More Spreadsheets
- Visual Methods
- Romantic Music
- Universal Names
- Historical Figuaes
- Visual Leaders
- ECCHI
- Visible Pop Needs
- Auto Convert Production Methods After Conquest And Annex
- Japonism
- Declare Interests Button on top
- No red smoke
- Extra Topbar Info
- Anbeeld's Revision of AI
目次
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金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り
帝国の改革派
さて、前回獲得した中国の山東半島では絹や紅茶といったこれまで自給が難しかった資源が豊富に含まれるため、早速これらを栽培。
元より建設していたドイツ領ニジェール・デルタ植民地についてもすでに随分と発展しており、染料・砂糖を中心に大量のプランテーションが築かれている。
更に東インド地域においてもスラウェシ島、ニューギニア島に植民地を建設中であり、現在は染料を中心に栽培している。
元々オランダの植民地が広がっている地域だが、そのオランダもドイツ帝国の関税同盟下に入っているため、この東インド地域の大部分がドイツ経済圏に組み込まれる形となった。
このようにしてドイツ帝国は、政権を握る自由保守党の支持基盤たる資本家たちの意向に沿う形でその覇権を広げている。
今やGDPでも世界2位フランスに肉薄する段階にまで達しており、帝国の経済基盤はこの資本家たちの富を背景として築かれていた。
だが、このブルジョワ支配体制に反旗を翻す者たちもいた。
元々、普墺戦争後に政府が進める艦隊法の整備、そして過酷な植民地政策に対し、自由主義陣営は左派政党「自由思想家人民党」を結成。
しかし、実質的な富裕者投票法である「三級選挙制」の下、小ブルジョワや労働者たちは影響力を発揮しづらく、1849年選挙ではほとんど勢力を拡大できないままに終わっていた。
そこに、転機が訪れる。
兼ねてより陸軍大臣として帝国軍部を指導し、保守党党首でもあったグスタフ・フォン・ラオホは1850年に引退しており、以後この地位を巡って軍部内では勢力争いが激化。
その中で若手の将校らの支持を集め影響力を増してきていたのが、アルフレッド・フォン・シュペスハルト。
1839年革命の際にザクセン・マイニンゲン公国の国務大臣を務めていた自由主義者ハウボルト・フォン・シュベスハルトの嫡男でもある彼は、保守派の多い軍部の中でも随一の改革派として知られていた男であった。
クルップら主戦論者に追いやられた元首相クララ・フォン・デン・クネーゼベックと親交もあったという彼は、軍部内での主導権争いに勝利してその指導者としての地位を認められたあともしばらくは保守党党首としてその爪を隠していたが、1853年選挙が間近に迫った1853年7月1日についに離党を決断。
若手将校らを引き連れて自由思想家人民党に合流し、自由保守党率いる政府に対立する立場となったのである。
皇帝フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の最大の支持基盤であったはずの軍部のまさかの離反。
それでもなお現行の選挙制度の下ではやはり資本家たちの影響力は根強く、1853年8月の選挙では自由保守党が勝利。
しかし自由思想家人民党もかなり迫ってきており、この勢力バランスがいつ逆転するかは時間の問題でもあった。
帝国はこのまま改革派に乗っ取られてしまうのか?
そんな危機感を抱いていた中で――帝国は、新たな戦争に巻き込まれていくこととなる。
中央同盟戦争
その戦争の背景として、自由保守党政権が進めていた政策について確認しておく。
ドイツ統一以降、急速に発展する帝国の産業は新たな市場を求め始めていた。
すべての関税を撤廃する自由貿易法の制定など貿易面での強化はもちろんながら、それ以上に自由度の高い市場の形成を目論見、オランダの完全同盟への加入、そしてクルップ砲戦争を始めとした植民地政策もその一環であった。
加えて取り組んだのが、当時欧州各国への莫大な債務に苦しんでいたオスマン帝国への接近である。
ドイツ帝国は彼らに資金援助を重ねた上で、この大市場を自身の経済圏に取り込むことに成功。
ベルリンからビザンチウム、バグダードまで繋がる経済圏を構築する「3B政策」によって、ドイツはより強固な経済基盤の確保を実現したのである。
しかし、この動きは、同じくオスマン帝国の領土を狙い南下政策を進めていたロシア帝国を刺激することに繋がる。
1854年8月6日。
オスマン帝国がアラビア半島のオマーン帝国及びジャバル・シャンマル王国に侵攻。
これを受けてロシア皇帝ニコライ1世は直ちに軍隊をオスマン帝国との国境に配備し、圧力をかけ始めた。
ロシア国境にモルトケ元帥率いる第一軍を派遣し、これまで有効な関係を築き続けていたこの両国がついに戦火を交える時がやってきたのである。
そしてフランスもまた、案の定ここに介入。
これまでは独仏の対立において常に手を出してきていたイギリスも、今回は動かずに様子見することを選択。
ドイツ帝国は初めて単独で、しかも仏露両国に挟まれる形で相手をすることとなったのである。
ドイツ帝国とオスマン帝国による「中央同盟」と、これを両側から挟む仏露の同盟による「中央同盟戦争」は、1854年12月3日に開戦を迎えた。
ドイツ帝国本土の東部ポーランド戦線にはヘルムート・フォン・モルトケ元帥率いる10万の兵、西部ラインラント戦線においてはアルブレヒト・フォン・ローン元帥率いる10万の兵を配備。防衛に当たらせる。
一方でオスマン帝国とロシアが国境を接する黒海北西岸およびアナトリアにもヨハン・フォン・シュペー中将とエドウィン・ディーステル中将を派遣。オスマン帝国は所詮後進国のため、列強ロシアに対して単独で戦わせると危険なため、支援してやる必要がある。
ドイツ帝国は40万近い世界最大級の常備軍を有する国家ではあるが、列強2国を単独で同時に相手するとなると正直まだまだ兵は足りない。
徴兵もフランス人やポーランド人の住む一部地域で取り行いつつ、数的不利を防戦を中心にして補っていく方針だ。
まずは東部ポーランド戦線。
モルトケ元帥vs史実のクリミア戦争でも活躍したニコライ・ムラヴィヨフ=カルスキー少将。
2倍近いキルレシオを発揮しながらロシア兵の屍の山を築いていく。
西部ラインラント戦線ではローン元帥がひたすら防衛戦を繰り返し敵軍を疲弊させたのち、反撃に出るという形でうまくことが運んでいる。
結局これが一番なのか?
ロシア軍の攻勢をドイツ帝国軍が防衛している間、オスマン帝国軍は弱体のジャバル・シャンマル王国への侵略を進める。
開戦から半年後の1855年7月には早くもジャバル・シャンマル王国を降伏に追い込んだ。
一方、その年の5月にオランダ領東インドで大規模な農民反乱が発生。
オランダ単独では鎮圧が難しそうな雰囲気もあったため、仕方なくこちらで新しいルートヴィヒ・フォン・デア・タン中将を雇用した上で派遣する。
海戦においては、世界に先駆けてドイツ帝国が建造した蒸気船が初披露。フランス海軍の戦列艦を蹴散らしていく。
なお、インドでも東インド会社とシク王国、そのバックについている清とが激しい会戦を繰り広げているようす。
そして開戦から1年後の1855年11月にはフランスが降伏。
西部戦線がなくなったことで随分楽になるはずだ。
今回の戦争のそもそもの発端であり戦略目標でもあるオマーン帝国にも、アラビア海から回り込んで上陸作戦を敢行し、占領地を広げていく。
1856年6月には粘り続けていたロシアも降伏し、敵側はオマーンだけに。
7月にはオランダ領東インドの反乱も鎮圧。
そして1856年9月。
オマーンも降伏し、実質的にドイツ単独で仏露を相手取った今回の戦争を勝利で終わらせることができた。
この結果を受けて、列強1位の座も手に入れる。
ドイツ帝国こそが今、世界で最も強大な国家であることを、誰もが認めざるを得なくなったのである。
これで国民もさらに沸き立ち、自由保守党の政権はより盤石になるだろう――と、思われていたが、
しかし。
その年の暮れ、1856年12月27日。
この国の経済を牽引してきたクルップ首相が突如、急死してしまう。
この後を引き継いだのは、クルップ砲戦争、および中央同盟戦争で活躍した帝国海軍総司令官のルイトポルト・シェフォールト提督。
国民人気の高さゆえに首相に祭り上げられたが、政治的にはどっちつかずの態度ゆえに牽引力はなく、自由保守党内部は各派閥の対立が激化、弱体化していく。
さらに1857年3月。半年後の選挙に向けて、自由思想家人民党がより急進的な労働者勢力によるドイツ社会民主党の、より穏健な進歩党とに分裂。
自由保守党と異なり、こちらは逆に内部対立を分離という形で解消しまとまりを手に入れた進歩党がその勢力を強め、その勢いはいよいよ自由保守党を超えるほどのものとなっていた。
そして1857年8月26日。
ついに、自由保守党は敗れ、進歩党が第一党に君臨する。
それでも穏健派の進歩党は自由保守党との連立を維持し、緩やかに改革を進めていくことには同意してくれた。
しかし、世界は違った。
「1839年革命」はほとんどドイツ国内だけで収束し、それも当時のドイツ皇帝フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の強権によってわずか半年で鎮圧された。
だが、今回それは、ヨーロッパ全体に広がりを見せ、まさに革命の時代を招き入れようとしていたのである。
第4回に続く
1852⇒1860推移