リストリー・ノーツ

歴史ゲームのプレイレポートが中心。https://twitter.com/RestoryNotes

スポンサーリンク

【Victoria3プレイレポート/AAR】パクス・ネーエルランディカ 第3話 急進主義の台頭と大英蘭戦争(1876年~1896年)

 

ナポレオン戦争後に成立したネーデルラント連合王国は、1830年に南部諸州の独立を経験するも1855年に第2代国王ウィレム2世のもと再統一が成し遂げられ、以後は海の玄関口としてのアムステルダムと金融の中心地ブリュッセルの2大都市圏による繁栄の時代を迎える。

そこから始まる「ローゼンタール時代」では、ユダヤ人首相の下で自由主義・民主主義が発展し、西欧諸国を思想的にリードする栄光の時代を迎えることとなった。

一方でアジアはそんな西欧列強の利権争いの舞台となった。オーストリア、イギリス、フランスは次々と「眠れる獅子」・清へと侵略の手を伸ばす。

若きフレデリク・ハンドリク王に代替わりした連合王国においてもこの機会に乗り遅れるべきではないという論調が支配的となり、1871年には清への侵攻を開始。翌年の北京条約にて山東半島の租借を決定し、英仏と共に中国の領土を分割するに至った。

 

今や、この国は西欧の小国ではない。

かつてと同様、世界中に植民地を有する帝国の1つであり、その権勢を認められこの国も晴れて列強入りを果たす。

 

だが、これで満足するわけにはいかない。目指すは「大蘭帝国」。それは唯一無二の大帝国でなければならず、それはすなわち英仏の二大国を凌駕するものでなければならない。

 

そして帝国はまた、もう1つの「帝国であるがゆえ」の解決するべき大きな課題を有してもいる。

 

今回はまずそこから触れていくこととしよう。

 

 

~ゲームルール~

  • 「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」に
  • 「AIの好戦性」を「高い」に

 

Ver.1.2.7(Hot Cinnamon Spice)

使用MOD

  • Cities: Skylines
  • Historical Figures
  • Japanese Language Advanced Mod
  • Japonism
  • Romantic Music
  • Universal Names
  • Visual Leaders
  • Improved Building Grid
  • More Spreadsheets
  • Expanded Characters & Commanders of Historical Importance(ECCHI)
  • Declare Interests Button on top
  • Extra Topbar Info

 

目次

 

前回はこちらから

 suzutamaki.hatenadiary.jp

 

 

これまでのプレイレポートはこちらから

1.2オープンベータ「ロシア」テストプレイ

MOD『出版産業の興隆』で遊ぶ大英帝国RP重視プレイ

強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ:AI経済強化MOD「Abeeld's Revision of AI」導入&「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」、「AIの好戦性」を「高い」に設定

大インドネシア帝国の夢

大地主経済:ロシア「農奴制」「土地ベース課税」縛り

金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り

コンゴを自由にする

アメリカ「経済的支配」目標プレイレポート

初見スウェーデンプレイ雑感レポート

 

正義と誇り

1870年代初頭の戦争により、オランダ含む西欧列強の蚕食を受けた清は、国内に数多くの「過激派排外主義者」を抱えることとなった。

中国国内各地に作られた租借地とその周辺で外国人宣教師及びその信者たちが横暴を繰り返し、郷紳や一般民衆たちが強く反発。仇教事件と呼ばれる暴力沙汰も度々発生していた。

特にオランダの租借地となった山東半島周辺ではその反発が強かった。

首都北京に近い山東半島を丸ごと制圧し、しかもその1,600万人もの現地民に対し自国民に対しては絶対にやらないような劣悪な労働環境と低待遇を強いて巨大なプランテーションを築いていくオランダ人に対し、在地の武術組織や自警団たちが合流し、「義和拳」と呼ばれる反キリスト教・反外国勢力の巨大グループが形成されていったのである。

膨れ上がった義和拳(義和団)は北京を中心とした直隷州に集結し、当地に赴任されていた外国人商人たちやその家族および彼らに対して商売を行なっている同国人たちに対してさえ過激な暴力を振るい、その商店や鉄道、電線までもを破壊対象としていった。

清の咸豊帝も外国からの圧力を受けて当初は彼らを弾圧するつもりでいたものの、扶清滅洋を叫ぶ彼らの勢いに対し同情的になる官僚も多く、その弾圧は徹底的とはならず、むしろ次第にこれを容認する方向にすら変わりつつあった。

 

そんな中、決定的な事件が1878年5月に発生する。

20万人の義和団が北京に入場し、その混乱の中でイギリス公使が殺されてしまったのである。

英国政府はすぐさまこれに反応し、大英帝国全軍に動員をかける。

そして連合王国政府も山東半島の自国民保護を名目に9月に宣戦布告。

10万の兵を率いたイルペンダム将軍の部隊が北京を制圧し、1879年11月にはこの北京周辺を「保護」することを定めた「北京議定書」を発行。皇帝は紫禁城を追われ、この地は実質的にオランダの支配下となった。

英国もこの戦いで浙江の地を手に入れる。雲南に続き、今度は重要な沿岸部を獲得したというわけだ。なお、咸豊帝は新たな住まいを上海に定めたようだ。

 

連合王国はこの大勝によって更なる利権拡大に成功したわけだが、そのことがこの国の方向性を大きく変える「混沌」を呼び起こすこととなる。

 

 

合計3,000万人超の住む山東と北京周辺を併合したことによって、今や、ネーデルラント連合王国の実質的な支配下にある「帝国領土」における人口5,300万人超の最多数派は漢族となってしまった。

当然彼らは本国の法律による保護は得られず、相変わらず劣悪な環境と条件の下での労働を強いられていたわけだが、この状況に対して最も強力な反発を見せたのは意外にも資本家を中心とした実業家集団であった。

「平和主義者」であった野党・自由貿易党党首トマス・ダーンデルスは、連合王国軍の侵攻によって荒廃し、奴隷の如き労働を強いられる現地民の姿を目の当たりにし、性急な改革が必要であると認識。アムステルダムにて集会を開き与党政府に対し圧力をかけていった。

自由貿易党を中心とした大々的なキャンペーンは本国で安楽に過ごすネーデルラント人たちに対しても罪悪感と正義感を覚えさせ、運動の支持は拡大。

さらに、対清戦争の英雄であったイルペンダム将軍までもがこの思想に同調し、支持を表明したことで、浮遊層であった都市中流市民層が一斉に支持側に回り、大局は決した。

 

連合王国議会府でダーンデルスは声高に叫ぶ。

 

「ローゼンタール首相! ユダヤ人のあなたはかつて自分達の権利の拡大のために立ち上がり、それを勝ち取ることに成功しました。それは素晴らしい成果であり、この連合王国の政治史における誇りです。しかし今のあなたは、かつて自分たちがされていたことを忘れたかのように、新たな国民に対して苛烈な対応を見て見ぬふりをしている。あなたが本当に英雄であるならば、今再び正義のために立ち上がるべきなのではないですか!」

 

「正義と誇り」演説と称されたこのダーンデルスの演説は決定的な影響をもたらし、与党自由主義連合内での風向きも急速に変わり、ついに1880年12月2日、ローゼンタール首相は辞職を余儀なくされた。

その後を継いだのはダーンデルスたちに同調する「急進主義者」のリチャーダス・ファン・ヘヒテレン。

さらに連立政権を組む社会民主労働党労働組合)も同じく「急進主義」に目覚め、政権もこの方針へと完全に切り替わることとなった。

8つの利益集団のうち実に半数の4つがすべて急進主義者によって乗っ取られてしまった。

 

そして1881年4月。

帝国直轄領内に住むあらゆる民族はその文化・宗教の違いで差別することを許さず、また賃金その他待遇において民族及び宗教を理由とする不当な差別を行わないことを定めた「多文化主義」法が制定される。

 

帝国臣民が一致団結して繁栄を目指す体制が出来上がったところで、いよいよ、「世界の頂点」を目指すための「直接対決」の時期を迎えることとなる。

 

 

英蘭戦争

列強による世界の分割競争はアジアだけでなく、世界全域に広がりつつあった。

列強3位オーストリアアラビア半島へと支配圏を広げようと画策しておりすでにジャバル・シャンマル王国は自治領化、そしてエジプトを関税同盟下に置いている。

列強2位フランスもマダガスカルザンジバル、モロッコといったアフリカの各地に傀儡国家を建設し、アフリカの南北を押さえている。

そして当然、世界一の帝国イギリスも、ビルマ雲南に続き大南(ベトナム)へと利権拡大を狙う動きを見せている。

アフリカの地は英仏を中心に分割が進み、オランダもここに参戦。新たな戦略資源である石油の確保も急いでいく。

この「世界分割競争」の加熱はやがて大きな戦争へと発展することは間違いないだろう。

英仏墺を追う立場となるオランダ、そして隣国のプロイセンは、彼らに対抗すべく蘭普同盟の締結を決定。1882年11月にこれは締結された。

 

そして「そのとき」はやってくる。

 

 

1887年2月。

アラビア半島にて勢力を広げるオーストリア=ハンガリー帝国、及びその対岸の「アフリカの角」で影響力を高めつつあるフランスに対抗すべく、軍事的要衝たる当地の支配権を得るべくイギリスがエジプトに「ヒジャーズの割譲」を要求。

しかしこれは流石に火薬庫に火をつけるが如く振る舞いであった。エジプトを保護する姿勢を見せていたオーストリア=ハンガリー帝国は直ちにこれに反発。エジプト側について英国に対立することを選択。

さらに列強5位ロシア帝国もエジプト・オーストリア側にて参戦することが決定し、イギリスはあっという間に劣勢に追い込まれていく。

 

これは最大のチャンスである。

ただちにレヒテレン首相は陸軍大臣ヨハン・ローエルに命じて全軍の動員を指示。

そして世界に対しては、横暴を究める英国に対する懲罰として、アフリカ・アジア方面にて対英戦争に参戦する旨の宣言を行い、イギリス領インド帝国およびイギリス領ニジェール植民地への侵攻を開始する。

さすがにフランスからは非難が飛ぶなど、決して穏当な道ではないものの、それ以外の列強各国は様子見。そして同盟国プロイセンもしっかりと参戦してくれた。

ニジェール方面は英国軍の主力が存在しないため、現地の反乱軍鎮圧などを主導し功績を上げていた若きヘンドリック・ブスケス中将に一任する。

19世紀前半に東インド会社の総督も務めたアーノルド・アドリアン・ブスケスの孫にあたる。本国から遠く離れたアフリカの地で現地人を含めた兵卒士官をよく統率するという評判が高い人物だが、一方でやや特殊な思想を広めているとの噂も聞かれている。

 

アジア方面では傀儡化したビルマと英領テナセリウムの国境線で10万の兵を率いる英軍を撃退。十分に互角以上の戦いができている!

さらに英領インド帝国に対しては、その首都カルカッタのある南ベンガルに向けて、同盟国プロイセンの軍が順調に進撃。

それを支援すべく英領インド帝国へと向かうイギリスの輸送船団を次々と撃沈。

これを防ごうとする英海軍に対しては整備されたネーデルラント海軍が迎撃に回る。

かつて幾度となく繰り広げられた海上英蘭戦争

19世紀に蘇った(そして真の帝国としての覇権争いの意味も含めた)「大英蘭戦争」は、彼らがアラビアで墺露を相手取っていること、及びプロイセンの助力もあり、オランダ有利に進行していったのである。

 

そして1888年10月3日。

開戦から1年で主戦場となったアフリカ戦線、インド戦線ともに普蘭同盟側がその支配地を広げていくことに成功。

これを受け、ついにイギリスは降伏を選択。

連合王国インド帝国に南ベンガルの地を割譲させ、かつイギリスからもアフリカ植民地の割譲を認めさせた。

さらに翌年3月には墺露との戦争も白紙和平。ヒジャーズの獲得を諦めることとなった。

もはや、大英帝国にかつての威光は存在しない。列強1位の座もフランスに明け渡し、オランダもいよいよ英仏墺に次ぐ位置にまで登り詰めてきた。

今や、名実ともに「大蘭帝国」と名乗ることが許されるほどの大国となってきたネーデルラント連合王国

だが、巨大化しすぎた国内では新たな分裂の兆しが生まれ始める。

 

 

新たな時代へ

1889年11月3日。ネーデルラント連合王国第3代国王フレデリク・ハンドリク1世が崩御。もともと神経薄弱気味ではあったものの、まだ42歳と若くしての急死であった。平和を愛した彼の治世は常に大きな戦争と隣り合わせであった。

新たに即位したのはまだ19歳のマウリッツ1世

政権与党は急進主義者ばかりで固められ、マウリッツ1世自身もその影響を受けてこの思想を支持。ある意味で非常に安定した政権を維持していた。

しかしこの秩序に挑戦しようとする者が現れる。

 

その男の名はヘンドリック・ブスケス

先の大英蘭戦争にてニジェール方面の戦線を任され、見事これを制圧。勝利に貢献した国民的英雄である彼は、そのままナイル川の源流を辿る探検をも成功させ、さらに支持を広く集めることとなった。

功績を重ね、堂々とした立ち振る舞いを見せられるようにもなってきたブスケス。なお、「防衛戦略の達人」および「塹壕ネズミ」を持ち、ゲーム的にもオランダ最強の盾として頼りがいのある男だ。

 

そんな彼が、あまりに人気がなく知識人集団のレヒテレン首相に主導権を奪われがちだったカレル・デ・ハウトマンに代わり、新たに労働組合の指導者、すなわち政権の一翼を担う社会民主労働党の党首に就任する。

これで政治に対する影響力も手に入れたブスケスは、ただちに彼が是とする「労働者のための政治」を推し進めていく。

そして彼が唱える「共産主義」思想は下層民を中心に国内へと広まり、支持を集めていくこととなるのである。

そして1894年10月30日。

ブスケスは新たに「共産党」を立ち上げることとなった。

 

一方で、同じく国民的英雄として支持を集めていた男がもう1人いる。

対清戦争時代からイルペンダム将軍麾下で活躍し、先の大英蘭戦争でもインド方面でプロイセン軍と共に侵攻戦で功績を上げていたヨハン・ローエル大将

野党・愛国党の党首として政治活動にも勤しむ彼は、今やネーデルラント連合王国が倒すべき敵として認識しなければならない隣国の脅威を声高に訴え、こちらは主に愛国的・保守的な上層民たちの支持を集めていった。

そして迎えた1895年選挙。

かつての主役であった自由貿易党や自由思想家民主同盟は脇に追いやられ、まずは共産党が半数に迫る得票率でもって圧倒的勝利を納め、次いで愛国党が第2党として勢力を伸ばす構図が作られた。

 

時代は少しずつ、しかし確実に変化しつつある。

 

そんな中——。

1898年5月10日。

先の大英蘭戦争から10年。

今度は英国の側から我が国に対して戦争を仕掛けてきた。

さらに。

プロイセン連合王国を裏切る!

 

プロイセンが植民地内乱への対策で手一杯だったことが原因と言えるだろう。

それを狙ってのことであれば、英国は確かに10年前の意趣返しを図ったというわけだ。

 

その後、英国との戦争で手を貸してくれる諸外国は現れず、オランダの傀儡国に対する戦争へのオランダの介入という形だったため、キューバビルマなど諸傀儡国の助けも得られず。

1898年8月21日。

オランダは孤独のまま、第2次大英蘭戦争へと突入することとなる。

 

国内の混乱と、外国からの侵略。

ここからがある意味本当の、「帝国」としての戦いの始まりとなるだろう。

 

第4話へ続く。

suzutamaki.hatenadiary.jp

 

 

収支および政治力比率推移(1876⇒1896)

収支推移

清への侵攻をさらに進め、終盤ではインドの大人口地帯の一部をも手中に収めたことで、人口はさらに3倍近くに膨れ上がり、1億の大台に突入。合わせて所得税も膨れ上がりGDPは5倍に成長した。

すでに税制は累進課税に改革が進んでおり、とくに利益配当税による税収の成長が著しい。

これらの成長の度合いが公務員給与や軍事費の増大を上回ったことで、ようやく財政は黒字へと突入。1896年時点ではついに借金をすべて完済することに成功した。

この財政の健全さが、帝国として必須となる軍備増強への元手となった。

 

職業別政治力比率推移

前の20年と同様、資本家の力が相対的には着実に減少しており、代わって労働者と機械工の力が増えていっている。このことが共産党および労働組合勢力の躍進に繋がっていると言えるだろう。

また、中国やインドの地で大量の絹やアヘンのプランテーションを拡大していることもあり、それを雇用する農家や貴族、聖職者といった旧勢力が徐々に力を取り戻しつつある。それらの土地を併合するつもりはないのでその影響力は最低限に抑えられるとは思うのだが・・・

 

文化・宗教別政治力比率推移

多文化主義の制定により、人口では本国人を遥かに上回る漢族やインドのベンガル人たちの政治的影響力が増大。ネーデルラント人のそれは6割を切るようになってしまった。

共産主義の拡大は、「外国人」が自分達よりも儲けてしまっていることに対する、本国の低層民たちからの怨嗟の声が原因と言えるかもしれない。愛国主義の発達も同様に。

 

着実に拡大しつつある、しかしそれゆえの歪みも生まれつつあるこの「大蘭帝国」は果たしてどこへ向かうのか。

 

第4話へ続く。

suzutamaki.hatenadiary.jp