ナポレオン戦争によって神聖ローマ帝国が滅んだ後のドイツでは、オーストリアを盟主とするドイツ連邦という緩やかな連合体が継続したものの、実際には北部を支配するプロイセン王国と南部を支配するオーストリア帝国との2大国による勢力のせめぎ合いという状況であった。
そんな中、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は1833年にドイツ関税同盟を成立させ、ドイツ諸邦を次々とその経済圏へと飲み込んでいった。
ついには1843年、このドイツ関税同盟を発展させる形でプロイセンは「北ドイツ連邦」を設立。ドイツ連邦からの離脱を明確に示す施策であり、ここにプロイセンとオーストリアの対立は決定的なものとなった。
かくして1844年5月。
プロイセンがオーストリアに宣戦布告する形で「普墺戦争」が勃発し、それぞれオーストリアの同盟国、プロイセンの同盟国であったフランスとイギリスも参戦する大規模な戦争へと発展した。
普仏国境である西部ラインラント戦線ではプロイセンの参謀総長であるヴィルヘルム・フォン・クラウゼネック元帥が猛攻を見せ、ただちにメスとストラスブールを占拠する快進撃。
一方の普墺国境にあたる東部ボヘミア戦線ではプロイセン軍のヘルムート・フォン・モルトケ大将がオーストリア軍参謀総長のハインリヒ・フォン・ヘス大将を打ち破り、12月にはボヘミアの州都プラハを占領するに至った。
その後はしばらく一進一退の攻防が続くも、イギリス軍が本格参戦するととくに東部オーストリア戦線では戦局が完全に普英同盟側に傾き、1846年2月にはフランスが単独講和。フランクフルト講和条約によってエルザス=ロートリンゲンの北ドイツ連邦への割譲が定められた。
さらにオーストリア軍も帝都ウィーンを最後まで守り続ける執念は見せたものの開戦からちょうど2年が経過した1846年5月2日には降伏。5月20日にドイツ連邦の解体を定めたプラハ条約が締結され、ここに、ドイツ統一の主導権がプロイセンにあることが明確に示されることとなった。
終戦の直前に、この激動の時代を牽引してきたフリードリヒ・ヴィルヘルム3世は崩御し、「ドイツ帝国」の実現はその長子フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に託された。
栄光の「ドイツ」は果たして20世紀を生き抜いていけるのか。
新しい歴史が幕を開ける。
~ゲームルール~
- 「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」に
- 「AIの好戦性」を「高い」に
- AI経済改善MOD「Anbeeld’s Revision of AI」を導入
Ver.1.1.2(Earl Grey)
使用MOD
- Japanese Language Advanced Mod
- Cities: Skylines
- Dense Market Details
- Dense Trade Routes Tab
- Improved Building Grid
- More Spreadsheets
- Visual Methods
- Romantic Music
- Universal Names
- Historical Figuaes
- Visual Leaders
- ECCHI
- Visible Pop Needs
- Auto Convert Production Methods After Conquest And Annex
- Japonism
- Declare Interests Button on top
- No red smoke
- Extra Topbar Info
- Anbeeld's Revision of AI
目次
前回はこちらから
過去のシリーズはこちらから
金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り
ドイツ帝国の成立とエルザス=ロートリンゲン独立戦争
さて、前回のプレイでオーストリアを「統一候補」から追い落とすことに成功し、プロイセン改め北ドイツ連邦が唯一のドイツ統一候補となった。
ここから先の流れだが、文化タブの「国家の形成」から入る以下の画面の中で、右上にドイツ連邦の国旗がついていない国がまだ北ドイツ連邦による統一に同意していない国々なので、彼らを懐柔することを目指していく。
基本的には「温和」の態度であれば大体支持してくるようだが、「警戒」や「対立」の態度だとそれは難しい。
ただ、態度が警戒や対立のものでも、関係値が80に達すれば自然と「温和」になるようなので、資金援助を与え続ければ最終的に到達させることはたやすい。その過程で恩義が手に入れば「恩義の解除」を使用することで一気に30ポイントを稼げるため早めに条件に到達できる。
合同イベントと違って関税同盟に入れる必要はない。また、「汎民族主義(汎国家主義)」の技術は南ドイツ文化の国家をイベントで併合するためには必要だが、この「ドイツを形成」では不要である。
あと、今回はもちろんオーストリアは無視する。小ドイツ主義に基づく、しかしオーストリア以外のすべての領邦の併合を目指そう。
ところで、その過程で出てくると聞いていたビスマルクは今回姿形が見えず。もしかしてユンカー(地主)を政権内に入れておく必要がある?
そうこうしているうちに、1849年4月3日。
すべての国が「温和」以上となり、プロイセンによる統一を支持してくれるようになったため、早速実行。
史実よりも少しだけ大きい、ドイツ帝国の完成である。
国旗に変化はないが、政体が「カイザーライヒ」に。
また、GDPにおいても統合によって一気にフランスに肉薄。追い抜くのも時間の問題となった。
さて、そんな風にして民族の統一を実現したドイツだったが、そこから畏れ多くも抜け出そうと画策する動きが。
前回の普墺戦争でフランスから奪い返したエルザス=ロートリンゲン。長らく神聖ローマ帝国の領域内であったこの地はあくまでもドイツ民族が多数派であるにも関わらず、この地に蔓延るフランス語を話す者たちが反乱を企てているという。
1849年12月30日についに分離独立。
本気なのか冗談なのかわからないが、ナポレオンの末裔を名乗っているらしい。「空想的」だし、本人は本気なのかもしれない。
ただ、皇帝を名乗ったことが裏目に出たのか、フランス本国は支援の構えを見せず、孤立無援となってしまう反乱軍。
モルトケ率いる第一軍によってあっという間に全土制圧され、1850年7月21日には早々に降伏。
今後、こういったことのないよう、この地は正式なドイツ領として編入し、公教育を施せるようにする。正しい「ドイツ人」を作っていくための、「最初の授業」を受けさせるようにしていこう。
また、利益率の高い資源産業を発展させ、奨励の布告も発布。鉄道も引いて生活水準を上げることで、今後大きな社会不安が巻き起こらないようにしていく。
さて、この独立騒動で少し予定が狂ったが、ドイツ帝国成立後の「最初の仕事」に取り掛かることとしよう。
「クルップ砲戦争」
背景
1841年以来、プロイセン王国の第2代首相として国王の補佐役を務め続けてきたクララ・フォン・デン・クネーゼベックだったが、高い国民人気とは裏腹に、その「改革論者」としての性格は、国王やこれを支持する軍部からは煙たがられる存在となりつつあった。
代わって政府内で支持を集めていたのが、国内の鉄鋼及び兵器産業を独占する巨大コングロマリットを支配するアルフレート・クルップ。
先の普墺戦争でもすぐさまポンメルンに大量の兵器工場を作るための資本を投下し、戦争を滞りなく進める上での最大の援助をしてみせたことで国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世およびその後継者フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の歓心を見事買ってみせたこの男。
戦後その存在感はより一層高まっていき、1848年1月12日にクララの後ろ盾である祖父カール・フリードリヒ・フォン・デン・クネーゼベックが死去したのをきっかけに、自由保守党は「首のすげ替え」に本格的に着手し、やがてクララは周りに誰も味方がいないことを悟ると、その年の暮れには政界からの引退を決意せざるを得なかった。
こうして政府の主導権を手に入れたクルップ率いる新生自由保守党は、ドイツ統一後初となる1849年選挙でも圧勝。その政権を問題なく維持することとなった。
そしてこの「信任」を得たクルップは、彼が画策するある「戦争」へと突き進んでいくこととなる。
普墺戦争は彼が躍進する大きなきっかけとなった。1843年に当時のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が開戦を決意したのち、急速に建造が求められた武器工場・弾薬工場、およびそれに伴う鋼鉄の供給を一手に担ったのがクルップ社であった。
この戦争で彼は権力を手に入れ、かつ莫大な富もまた、当然手に入れた。
しかし一方で戦争が終わってみれば、その需要は国内では消費しきれなくなる。
よって、彼はその自慢の大砲を売る相手を求め——その相手こそが、東洋の大国「清」であったのだ。
しかしより多く彼の兵器を売りたいと考えたとき、この国が定めている輸入関税15%というのは非常に煩わしいものであった。
この関税を何とか撤廃できないものか――そう考えた彼は、数年前同盟国イギリスで巻き起こったことの顛末を思い出した。すなわち、当時イギリスが同じように大量に売りつけようとしていたアヘンを巡って清と開戦しようとしたとき、最終的な出兵を認めるための議決が僅かの差で否決となったという出来事である。
結果としてイギリスは清と開戦することなく、現在はそのアヘンの輸入も完全にシャットダウンしている状態。
だが、同盟国が成し得なかったのはその軟弱な議会のせいであった。
偉大なる帝国議会においてはそのような間違いはない。「好戦主義」的なクルップ首相は早速、同じく好戦主義的な軍部と共に構成する政府内で「開戦」に向けての準備を着々と進めていく。
まずは「艦隊法」の成立。先の普墺戦争において数多くの商戦が潰され、国民生活や自由保守党の支持基盤である資本家たちの貴重な財産を失わせたことは記憶に新しい。同じ悲劇が繰り返されないために、そして清という巨大な海の向こうに住む龍を打ち倒すために、早期のドイツ帝国海軍の増強が求められていた。
よって、クルップ首相は軍部との協力の下、フランスから最新鋭の海軍戦略「青年学派」を取り入れ、このドクトリンのもと、西プロイセンの港町ダンツィヒに大量の海軍基地を建造。
この海軍法、および植民地主義の拡大に強く反対を表明したのが、自由党解散後に知識人集団を中心として結成された自由思想家人民党。
しかし、普墺戦争の勝利およびドイツ統一の直後に行われた前回選挙では、高まる愛国心と誇りをもった国民からの支持は全く得られず、彼らの反対はクルップらの思惑に対する抵抗には一切繋がらなかった。
むしろこの国で最も政治的影響力をもつ資本家・商人たちにとっては、彼らの主要商品である衣類・高級衣類の原料となる生地・絹の最大輸入元である清の市場を奪い取れること、さらには植民地作成により絹が直接生産できるようになることは、この上なく喜ばしいことであった。
よって、国内各勢力の支持を広く集めることに成功したクルップ首相は、カイザー・フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の承認の下、1850年12月1日、清国に対し一方的な市場開放要求を突き付けた。
正式には「清戦争」と呼ばれるこの戦争は、巷では「大砲戦争(Kanonenkrieg)」もしくはもう少し直截的に「クルップ砲戦争」と呼ばれることが多かったという。
開戦準備
さて、戦争に挑む上で重要なのはどう攻めるか、である。
何しろ相手は海の向こうの大国であり、真正面から上陸戦でぶつかったとしても勝ち目はない。
ロシアを味方に付けるのはありなのだが、彼らの清に対しての態度からこれは無理と判断。
この世界でアヘン戦争が行われており、史実通りイギリスが香港を獲得できていればそれを橋頭保とする策がとれたのだが、今回はそれも無理。
よって、最初から清に対する条約港「マカオ」を所有しているポルトガルを戦争に引き込み、ここを橋頭保にすることに決める。
もちろん、「警戒」状態のポルトガルはそのままでは参戦してはくれない。
よって、札束でその頬を叩く。あらかじめ資金援助をし続けて恩義を獲得できていれば、彼らは抵抗することもできず参戦してくれる。
これで直接中国本土に兵を送り込めるようになったので、ここに早速帝国本土から部隊を送り込んでいくこととする。
すでに普墺戦争時代の参謀総長であったヴィルヘルム・フォン・クラウゼネック元帥はこの世を去っているため、新しくヘルムート・フォン・モルトケ元帥を参謀総長として任命。
さらに新たに創設された南ドイツ司令部10万の総指揮官としてアルブレヒト・フォン・ローン元帥を起用。クラウゼネック元帥の後釜としてライン司令部の総司令として任命されたのは、そのライン地方の貴族であるシュペー家出身のヨハン・フォン・シュペー中将である。
これらドイツ帝国軍26万をすべてマカオに派遣し、開戦に備えることとする。
が、このドイツ帝国軍の動きを見て、すかさずフランスが清側につくことを宣言。東方に目を向けている隙に背後から突いてアルザス=ロレーヌを取り返すつもりか。
仕方なくローン元帥は引き換えさせ、ラインラント戦線の守りに就かせる。
その上でクルップ首相は、イギリスの「市場自由主義者」ロバート・ピール首相と連絡を取り、戦争への参加を打診。
その見返りとして、彼らにも同じく清の条約港を渡すことを提示すると、彼らはついに参戦を決意。
先の「アヘン戦争」勃発直前の騒動でひと際反対意見を強く述べていたピールの右腕ウィリアム・グラッドストンは随分文句を言ったようだったが、イギリスも結局本音ではこの「自由貿易」に対する意欲はドイツと変わりなかったようだ。
かくして1851年4月11日。独英葡同盟vs清仏同盟総勢200万の兵が戦場に集まる「クルップ砲戦争」が開幕する。
戦闘の経緯
まずはマカオ戦線。今回も「ギリギリまで進軍バーを進めて敵の攻撃に対する防衛戦終了直後にこちらから攻撃する」作戦を取る。
が、ダメッ・・・! 稀代のモルトケ元帥が未だ戦列歩兵を引き連れている旧時代の清軍相手に普通に劣勢。
何分参加させられている兵数が全く違う。条約港だから仕方ないが、相手側の広東のインフラ量106に対しマカオのインフラ量は27。これが結局兵数の差につながっているのだろうか? それともインフラが関わっているのは戦場となるステートだけで双方同条件? このあたりがまだよくわからない。
一方、ラインラント戦線のローン元帥も苦戦中。
やっぱりフランス軍の本気の20万超に対してローン元帥10万だけで迎え撃つのは無理があり過ぎたか? 慌ててマカオからシュペー中将の6万を呼び戻し防衛支援に当たらせる。「防戦一辺倒」「防衛戦略専門家」持ちの優秀な防衛将軍である。
一方、帝国海軍初の海戦は順調に進む。
ダンツィヒの港から出港した実業家集団出身のルイトポルト・シェフォールト提督率いる第一帝国海軍は清海軍を見事に打ち破り、戦略目標たる山東半島への上陸に成功。
するとマカオにいたイギリス軍はすべてこの山東半島に移動。モルトケ元帥も同様に移動したため、マカオはポルトガル軍のわずか2万弱だけが取り残されることに。
可哀そうではあるが、橋頭保としての役割はもう終えてしまったので、見捨てるほかない。申し訳ないけど、早めに降伏してもらっても大丈夫だよ?
と思ったらポルトガル結構頑張っている。
清の動員兵が少ないのが原因だけど、やっぱり戦場となっているステートのインフラが攻防どちらにも等しく影響しているのかな? であれば少で多に勝つためにはむしろインフラの少ない土地で戦うべきなのだろうか。
その間にラインラント戦線では今度こそローン元帥が防衛成功。先ほど奪われた1地方も取り返した。
さらにイギリス軍もこのラインラント戦線に多くの兵を割いてくれており、彼らの攻勢によって少しずつフランス領も奪いつつある。
英仏の争いはアジア・ヨーロッパに留まらず、大西洋の向こう側に浮かぶ西インド諸島にまで広がっており、こちらでも英国軍が優勢。
一方、戦線を広げ過ぎた結果、山東半島に配置された英軍が質で劣る清軍に押される場面も増えてきた。
1852年2月にはついにマカオも陥落し、そこに配置されていた清軍44万も山東半島に。
あまり猶予はない。長引けば長引くほど、独英同盟にとっては不利となりかねない。せっかく奪った山東を取り返されても厳しい。
そこで再び帝国海軍が活躍。残る2つの戦略目標である福建、潮州にも占領地を広げたことで、敵軍の戦争支持率を0未満に落とすことが可能に。
勝利への道筋は手に入れた。
あとは、これを守り切るだけである。
時が流れ、1852年11月21日。
ついに清は降伏し、南京条約を締結。
ドイツ帝国は泉州の港に加えて山東半島全体を租借地として獲得。また、イギリスも香港を租借することとなった。
かくして、資本家たちによる政権が推進した「クルップ砲戦争」は成功裏に終わり、それは彼らの権力をより高めることにつながったように見える。
だが、この動きに対する反対勢力は着実にその力を伸ばしつつあった。
そしてその影響は、政権の足元、国王の支持基盤にこそ生まれたのである。
第3回へと続く。
1852年11月21日の列強ランキング
1846⇒1852の各種データ推移
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金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り