19世紀後半。
世界を我がものが如く支配する英仏に対抗すべく、オランダーーすなわちネーデルラント連合王国は、手始めにポルトガルの属国化とネーデルラント統一という形で勢力の拡大に努めた。
続いて英仏が清に攻撃を仕掛ける隙をついて自らもその地での利権拡大に介入。これに成功するとその勢いは留まることを知らず、ついに1887年、英国がオーストリア=ハンガリー帝国とロシア帝国との戦争に突入したタイミングを見計って、その植民地インド帝国へと侵攻を開始した。
新国王マウリッツ1世は急進主義的自由主義者たちで固められた政権と共に、いよいよ名実ともに確かな「大蘭帝国」の繁栄に気を良くしていた。
が、試練は突如現れる。
1898年8月。
10年前の敗戦の借りを返すべく、体制を整え直した英国は今度は自ら連合王国へと挑みかかる。
そして、頼みの綱の同盟国プロイセンも参戦を拒否。
英国は万全。一方の連合王国は孤立。
果たして、ネーデルラントはこの危機を乗り越えることができるのか。
悲願の「大蘭帝国」実現に向けた、最も重要な戦いが今、始まる。
~ゲームルール~
- 「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」に
- 「AIの好戦性」を「高い」に
Ver.1.2.7(Hot Cinnamon Spice)
使用MOD
- Cities: Skylines
- Historical Figures
- Japanese Language Advanced Mod
- Japonism
- Romantic Music
- Universal Names
- Visual Leaders
- Improved Building Grid
- More Spreadsheets
- Expanded Characters & Commanders of Historical Importance(ECCHI)
- Declare Interests Button on top
- Extra Topbar Info
目次
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これまでのプレイレポートはこちらから
強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ:AI経済強化MOD「Abeeld's Revision of AI」導入&「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」、「AIの好戦性」を「高い」に設定
金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り
第2次大英蘭戦争
1898年5月10日。
プロイセン王国首都ベルリンに、一人の男が訪れていた。
彼の名は第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシル。英国の外務大臣を務める男だ。
これを迎え入れたのはプロイセンの陸軍大臣を務めるホーボルト・フォン・ザクセン=コーブルク=ゴータ。現英国王エドワード7世の末弟にあたる人物である。
10年前の「ビスマルク時代」においては英仏への対抗としてオランダとの同盟を選んだプロイセンも、皇帝ヴィルヘルム2世の親政開始後、急速に方針転換を行いつつあった。
その結果の一つがこの「英国王弟」の陸軍大臣就任。このプロイセンの意志を受けてソールズベリー侯爵は早速ベルリンに飛び、そして「王弟」を通じて皇帝に接触。対オランダ戦争において中立を保つことを約束する密約を交わしたのである。
そしてこの密約は守られた。
1898年8月21日。
英国は世界の覇権を握らんとする「大蘭帝国」ネーデルラント連合王国に対してチャンパーサック王国及びベルギー王国の解放を要求し、これが拒絶されたのを見て宣戦布告したのである。
陸軍大臣グスターフ・チャッセ元帥の動きは早かった。
まずはカルカッタ東西の戦線に自ら率いる17万の部隊とヘンドリック・ブスケス中将率いる9万の部隊を配備。
それぞれ数的には不利ではあるものの、チャッセ元帥もブスケス中将も共に最新の防衛戦術である「縦深防御」について熟知している専門家である。
加えてこれも最新鋭の「攻城砲」を配備し、塹壕戦術も取り入れている連合王国軍は、その防御力が200を超える強力な数値に。
ジャングルを掻き分けて英国軍も果敢に攻め込んでくるも、地形を生かした縦深防御を繰り広げるチャッセ元帥の部隊は敵の3分の2程度の兵力にも関わらずこれを包囲し、殲滅。
最終的にはこちらの損害の実に6倍以上もの損害を英国軍に出して勝利するなど、完璧な防衛線を築いていった。
そして英本土に送り込んでいるスパイの情報から、英国軍が本土の主力部隊をアフリカ方面に派遣し、その本丸の防備が非常に薄いとの情報を得る。
早速、本土で待機していたエリアス・ファン・ブーツェラー提督に英本土上陸作戦を下命。同じく本土で待機していたヴィンセント・シュピーゲル少将を載せて1898年12月15日にアムステルダムを出航。
冬の荒れた北海にて、激しい海戦が巻き起こる。
オランダ海軍は最新鋭の駆逐艦及び水雷艇を多数配備し、英艦隊を次々と撃沈。
もはやかつてのロイヤルネイビーは見る影もなく、英蘭海峡はオランダの庭となったのである。
あらかた敵海軍の船を駆逐したのちに、安全を確保したシュピーゲル少将率いる上陸軍はノリッジ郊外の手薄そうな土地を狙って上陸作戦を敢行。
第16代サマセット公ワトキン・シーモア大将が6万の兵を引き連れてこれを迎え撃つが、シュピーゲル少将も10万弱の上陸兵で数に任せてこれを押し込んでいく。
およそ5カ月に及ぶ一連の上陸作戦で英本土部隊は成すすべもなく後退していき、イーストアングリア地方はあらかた占拠し終える。
そしてついに7月11日、ロンドン攻略戦に突入する!
一方その頃激戦地のインド戦線では、決死の防衛線を築いていたチャッセ元帥が陣幕ごと砲弾の直撃を受け、戦死。
指揮官を失い混乱する東部戦線は崩壊。
25万の敵兵が一気にカルカッタに雪崩れ込んで来る。
これは西部戦線から急遽駆け付けたヘンドリック・ブスケス中将がなんとか応戦。
3倍以上の数の差を、圧倒的な質の差で押し返していく。
とはいえ、数的不利は間違いなく、やがて戦線を維持できなくなり後退せざるを得なくなるだろう。
その前に、決着をつける必要がある。
その鍵を握るのが、ロンドン攻略戦である。
そして、1899年11月27日。
4か月以上の包囲戦を経て、ついにロンドンは陥落。オランダ軍が世界最高峰の都へと入城を果たした!
これで英国民の戦意は喪失。
両国首脳部は、講和条約の締結に向けて具体的な協議を始めることとなった。
かくして、1900年4月16日。
ネーデルラント連合王国の都市ブルッヘで結ばれた講和条約により、英国はネーデルラント側に総額52,080ポンドの賠償金を支払い、さらに足りない分はそのオーストラリア植民地のオランダへの割譲という形で決着した。
そして今回の戦争においてネーデルラント側を裏切った形となったプロイセンとの間では関係が急速に悪化。
代わってそのライバルである列強3位オーストリア=ハンガリー帝国との関係を深め、12月には向こうから同盟のお誘いがやってくるほど。
これで列強1位・2位の英仏に対し、列強3位・4位のオーストリア=ハンガリー帝国およびネーデルラント連合王国が同盟(墺蘭同盟)を結ぶことに。
単独でもかの大英帝国を敗北せしめたという自信と共に、ネーデルラントは更なる飛翔を遂げることとなる。
一方、平和が訪れた国内では、また別の問題が噴出しようとしていた。
繁栄と分断
1881年の多文化主義法の成立以降、差別されない理想郷を求め、世界中から数多くの民族がアムステルダムやブリュッセルに集まりつつあった。
また、連合王国が征服した中国の沿岸部からも、数多くの漢民族がネーデルラント本国にも移住してきており、今や王国最大の都市ブリュッセルの人口は933万人にまで膨れ上がりロンドンやパリを抜いて世界最大の都市となっていた。
一方、その人口すべてに職が用意されているわけではない。資本家を中心に大量の資本が投入され新たな工場が作られているにもかかわらず、街中には職にありつけない人々が失業者となって溢れ出している。連合王国全体では実に852万人の失業者を抱えており、彼らが少なくない反体制派を形成し、不満を蓄積しつつあった。
当然、ブスケス中将率いる共産党を連立に含める政府はこの労働者たちの要望に応える責務がある。
早速、1901年12月には「賃金助成」法を制定。
さらに1903年4月には「労働者の保護」を制定し、最低賃金を定めることとなった。
そしてこの法律が形骸化しないよう、各省庁に投資を行い、制度を最大化。
これらの政策を経て、失業者や低賃金労働者でも幸福に暮らせる社会創りを急速に進めてくこととなった。
一方、こうした「外国人」たちをネーデルラント人の税金を用いて支援していくことに対し、面白くない思いを感じる人たちも着実に増えつつあった。
軍部を中心とした「愛国党」はそんな「排外主義者」たちの受け皿となり、8年前の選挙からさらに支持を広げ、共産党との票差を縮めつつあった。
繫栄の中、少しずつ「分断」の兆候が見られつつあるネーデルラント連合王国。
その分断をさらに加速しかねない動きが1900年代後半に訪れることとなる。
1907年5月8日。
先の二度にわたる大英蘭戦争で総動員令が発布され男手の多くが戦場に駆り出された際、それまで家庭に押し込められていた女性たちの多くが労働力として求められ、社会進出が大きく進んだ。
戦後、工場に戻ってきた男性たちは女性たちを再び職場から追放しようとし、高まる失業率がその傾向を後押しすることとなった。
女性たちはこれに強く反発。そして自由貿易党党首ウィレム・コーエンの娘であったサラ・コーエンを中心に一致団結し、女性の権利拡大、そして政治参加を強く求める運動を開始したのである。
これに、「急進主義者」の国王マウリッツ1世も支持を表明。さらには知識人層を中心とした自由思想家民主同盟のみならず共産党党首ヘンドリック・ブスケスもまた、これに同調する姿勢を見せた。
かくして1908年6月18日。女性参政権を含めた選挙法の改正が実現。
こうして、「大蘭帝国」はさらなる「平等の帝国」としての成長を遂げていくこととなる。
一方、この出来事もまた、国内での分裂を加速する結果を生みつつあった。
帝国の「内部」での不満の兆しを抱えつつ、「外部」ではさらなる躍進が続いていた。
世界最大の帝国へ
1911年7月13日。
列強3位オーストリア=ハンガリー帝国に続き、連合王国はアメリカ合衆国を東西に2分する二つの「アメリカ国家」アメリカ連合国とアメリカ合衆国の双方と同盟を締結。さらにはメキシコ合衆国とも同盟を締結する。
この「英仏包囲網」を意味する「大西洋同盟」の下、連合王国は続いてイギリスに「カナダの宗主権の割譲」を要求。
米加国境に各精鋭部隊を配置し、いざ開戦の準備を――
と、思っていたところで、イギリスが屈服。
戦わずしてカナダの地を手に入れ、「大蘭帝国」の形成にさらに一歩、前進することとなった。
これでオランダはついに英国を抜いて列強2位に。
労働組合と知識人を中心とした政権及びこれを支持する国王に対して国内で不満が高まりつつある中、この外交政策の成功を主導する軍部の支持はさらに拡大。
それまで愛国党の党首を務めていたヨハン・ローエルが引退し、代わって軍部の指導者として推戴されたルーベン・ファン・エグモント中将はより強硬な路線へと舵を切っていき、政府も彼らの意向を無視できなくなりつつあった。
その1つの形として、エグモント中将率いる愛国党は隣国プロイセンに対する警戒と教皇的な外交政策を街中で、議会で声高に主張し続けた。
かつてのプロイセンとの同盟時代を良く知る親世代は消極的ではあったが、その子どもの世代はこの愛国党の主張を熱烈に支持。世代間でもまた「分断」が生まれつつあった。
国王マウリッツ1世は排外主義的な彼ら強硬派に対しては否定的であったが、議会の円滑な運営を重視したい議会に説得され、苦々しく思いながらもこのプロイセン批判に同調。国王の名の下にホーエンツォレルン家の拡張主義を公式に批判したのである。
これに反応したのがイギリスに代わって列強1位に躍り出たフランス王国。
彼らはネーデルラント連合王国を逆に批判。英大使であったカンボンは連合王国のことを「野蛮なる拡張主義者」と口汚く罵った。
蘭仏の緊張関係がかつてなく高まり、陸軍大臣であったコンスタンティン・ファン・サクセン=ヴァイマル元帥は海外植民地軍も含めた全軍に動員を指示。
フランス軍も同盟国ロシア帝国と協調し極東へも艦隊を派遣するなど緊張はさらに高まり、ついに1914年6月11日、マダガスカル沖に停泊したネーデルラント軍の戦艦に対しフランス海軍が攻撃を仕掛けたことをきっかけとして、ヨーロッパ、アジア、アフリカの3大陸で実際の戦火を交える「三大陸戦争」が勃発することとなった。
短期決戦を目論み、蘭仏国境に雪崩れ込んでくるフランス軍85万。
しかし事前にこれを予期して準備していたサクセン=ヴァイマル元帥は、塹壕と縦深防御戦術を駆使した完璧な防衛網でもってフランス軍を撃退。
最終的にはわずか2万の損失で敵兵26万を駆逐する、圧倒的過ぎる戦果を叩き出すこととなった。
満州、アフリカ戦線でも同様に戦勝を重ね、墺露国境の戦いでも未だに戦列歩兵や騎馬砲兵を並べる旧式のロシア軍をオーストリア=ハンガリー軍が蹴散らしていく。
最終的に仏露同盟側の死亡者数200万超えに対して蘭墺同盟側の死亡者数51万という実に一方的な状況を生じさせたうえで1915年7月3日にフランスは降伏。
屈辱的な内容となる「ブリュッセル条約」を結ばされたことでフランスの権威は失墜。
ついに、オランダは列強1位の座を手に入れたのである。
今や、誰も疑う者は存在しない。
オランダは、ネーデルラント連合王国は、世界で最も偉大なる帝国であると。
この国は世界の七つの海をすべて支配し、比類なき陸軍と海軍でもって、その進軍を阻める国はどこにも存在しないことは明らかとなったであろう。
だが、まだ「大蘭帝国」には足りない。
世界の半分を支配する「覇権国」となるためには、最後のピースとして「インド」を手に入れる必要がある。
それはすなわち、「世界の敵」となることを決断するものでもある。
次回、最終回。
果たして、ネーデルラントは真の「大蘭帝国」を実現することはできるのか。
そしてその先に広がる光景とは?
第5回へ、続く。
収支および政治力比率推移(1896⇒1916)
収支推移
今回の20年間におけるGDPと人口の伸びの急激さはこれまでの20年ずつと比べると小さめ。まあ、分母が相応に大きくなってきたのでこれすなわち減速とは言わないだろう。一方で福祉の支給と最低賃金に対する補償を高めたことで生活水準が急増。それに合わせて頭打ちになっていた識字率も限界突破し、英仏を突き放す科学力を得ることに繋がっている。福祉の支給も大きく増えているが、そのデメリットを補えるだけの財力があれば、福祉と労働者の権利の充実は純粋に国力を増強させる(その恩恵に預かれるのは識字率が頭打ちになりやすい先進国だけだろうけれど)。
そんな高い財力の一端を支えているのが「外交協定」。フランスからの賠償金で42万ポンドも増えているが、それを差し引いても32万5千ポンドの収入が各属国からもたらされている。この「上納金」経済こそが大帝国の嗜みである。カナダもかなり美味しい。
職業別政治力比率推移
いよいよ資本家の影響力が労働者に迫られつつある。実際、政治分野においてもこの20年間実業家集団の存在感が一切なかった。一方、兵士と士官は職業別の政治力という点では大したことはない。その上で「軍部」が30%近い絶大な政治的影響力を誇るのは、それだけの数の軍部出身将校を雇用しているから、に他ならないだろう。
文化・宗教別政治力比率推移
世界各地からネーデルラント本土に集まってきた外国人たちは様々な摩擦を引き起こし国家の分断を生み始めているが、一方で彼らの「オランダ化」も着実に進められていき、「オランダ」人の数と影響力が復権しつつある。
以下はその一例だろう。彼らは「オランダ人」としてオランダ語を話しオランダ人としての生活様式を守りそのアイデンティティを保持しているが、その信仰においてはかつての生活を継承した大乗仏教を信仰し、そのコミュニティを広げようとしている。
その運命は果たしてどこに帰着するのだろうか。
第5回へ、続く。