12世紀末、平安の終わりと共に滅亡した「平家」。その生き残りが、池と名を変えて越後の山奥、古志の村に存在していた。
彼の名は池成清。南朝の総大将であった新田義貞の家臣として、討幕軍の中にもその名が記録されている男である。
彼自身は33歳の若さで急死してしまったものの、その嫡男の慶宗は、父の遺志を継ぎ「平家の再興」に向けて動き始めた。
半世紀近くに及ぶその治世の間に、古志、山東、蒲原、東蒲原、沼垂、雑太、南会津、河沼、会津の九郡を支配する巨大勢力を築き上げた慶宗。
主君・新田義貞の死後、その家督の座を巡り骨肉の争いを繰り広げる国内で、慶宗はあくまでも法的な主君への忠誠を誓い、邪な心を抱く他の家臣たちと対立、対抗し続けていった。
そんな彼の生涯も、1391年11月27日をもって終わりを迎える。
後を継いだのは側室・篠との間の子、池豊兼。
果たして偉大なる父の遺した「平家再興」は叶うのか。
Ver.1.10.0.1(Quill)
使用DLC
- The Northern Lords
- The Royal Court
- The Fate of Iberia
- Firends and Foes
- Tours and Tournaments
- Wards and Wardens
使用MOD
- Japanese Language Mod
- Shogunate(Japanese version)
- Nameplates
- Historical Figure for Shogunate Japanese
- Personage
- Invisible Opinion(Japanese version)
目次
第1回はこちらから
名声の影に隠れし男
「雲上人」と讃えられた偉大なる君主・池慶宗の後を継ぎ、池家の当主となったのは池豊兼。勇敢な男ではあったが人付き合いは上手くはなく、よく嘘を吐くという評判もある男であった。
彼の父はあまりにも偉大であった。越後の山中の小さな村1つしかなかったその領土を、一気に北越後一帯六郡から会津方面にまで広げ、今や新田家配下最大勢力を風間家当主・光信と競い合うほど。
その風間家に対しても、彼らが主君の新田義綱に対して反旗を翻した際には討伐の軍を上げ、その居城・春日山城を陥とすなど、力のみならず忠義にも厚い大名として名を知られていた。
それゆえに、その嫡男たる豊兼に対する重圧は凄まじいものがあった。彼が正室ではなく、側室の子であるという事実も、彼の卑屈さと不人気の原因となっていただろう。
黄昏時に一人になれば、彼は常に自分と父とを比べ、思い悩まされる日々を送っていたのである。
私の父、池慶宗の物語や行いについては、どこに行ってもささやかれている。近くにいても遠くにいても、父の名を聞いたことがない人はいないようだ。
私はいつまでも父の影に隠れているのだろうか? それとも父のように名声を得ることができるのだろうか? 私はどこまで上り詰めることができるのだろうか?
彼は彼なりに、なんとかその父の後を追えるようにもがいてはいた。
1394年11月。利根郡を支配する新田貞邦に対し宣戦布告。
偉大なる父を継ぎ、その領土拡張を目指す。
私は父の影から抜け出すのだ!
私の父、偉大な池慶宗は、ずっと昔に老衰で死亡した。しかし、彼の命の炎はまだ明るく輝いている。彼を取り囲んでいたものが、今、私についてきているようだ。
多くの人は、私自身を一人の男としてではなく、彼の息子として見ている! つい昨日も、ある年老いた農民が、まるで彼がまだ生きているかのように褒めちぎっていた!
彼の影から抜け出す時が来た! 私の足跡を世界に残すために! 偉大な池豊兼として認められるために・・・!
1396年5月。
利根郡の沼田城を陥落させ、意気揚々と帰国の途についていた豊兼のもとに、急を報せる伝令が飛び込んでくる。
「か、風間光信殿が兵を挙げ、南方より襲来! すでに古志郡は制圧され、現在は山東郡の与板城を包囲。間もなく陥落させられ、都のある三条に迫られんとしております!」
血の気の引く思いを味わいながら、豊兼は森の中で思わず気を失いそうになるが、それを傍らの軍奉行・懸塚広忠が支える。
「気をしっかりもたれよ、殿。恐れることはありますまい。敵はかつて、御父上様が敗北せしめた相手であります。我が軍勢をもってすれば、いとも簡単にこれを打ち破ってみせましょう」
懸塚の言葉に、豊兼はかろうじて頷いて見せるが、彼の脳裏には数か月前に城にやってきた神秘主義者の言葉が脳裏に引っ掛かり続けていた。
「殿はご体調優れぬご様子。城にてお休みいただき、勝利の報をお待ち下さい」
豊兼は彼の言葉に従い、三条城に戻り、懸塚たちの軍を見送ることとなった。
そして6月15日。与板城郊外の丘陵地帯で、池・風間両軍が激突する。
まさかの敗北・・・池軍は散り散りになって敗走し、与板城は陥落し、そして勢いを得た風間軍は豊兼の待つ三条城へとまっすぐ向かっていく。
懸塚広忠はかろうじて逃散を留めることのできたわずかな手勢だけを率いてなんとか一足先に三条城へと到達。
すぐさま豊兼のもとへと向かい脱出を説得するも、すでに城の周囲は風間軍によって包囲され、何者かが火を放ち始めていた。
「殿・・・どうかお逃げを・・・ここは私が敵を食い止めるゆえ・・・」
「――いや、もう無理だ、広忠」
そう応える豊兼の様子はひどく落ち着いており、先ほどの森の中の様子とは一変していた。彼のその表情には深い覚悟が刻まれており、どこか安堵のようなものさえ浮かんでいた。
「殿――」
懸塚の躊躇いはそう長くは続かなかった。彼は誰もが侮り、しかし懸塚にとっては唯一無二の主君であった「勇敢なる男」の最期を、自らの手で導くという決断を下すことを決めた。
かくして、偉大なる父の影に常に悩まされ続けてきた男は、わずか5年という治世を終え、その生涯の幕を閉じた。それは確かに、「平穏」を得た瞬間だったのかもしれなかった。
混乱の中で豊金の嫡男、慶宗の孫たる池綱景が当主の座を継承した。
仇討ち
三条城の落城と父の死の報は、会津・黒川城にいた嫡男の綱景のもとにすぐさま届いた。
祝着を受ける暇もない。とりもなおさず、領国内で好き勝手振る舞う風間光信の軍をなんとかしなくてはならない。
綱景はすぐさま黒川城を出立し、側近たちすら突き放しかねないほどの勢いで馬を走らせる。
そして彼が東蒲原郡にまでたどり着いたところで、その男の姿を目にした。
その巨体は馬上の綱景ですら勝てないほどであり、全身に負った傷と醸し出されたえもいえぬ雰囲気と合わさって、男と綱景との間には周囲の側近たちでさえ身震いしてしまいそうなほどの緊張感が漂っていた。
しかし、綱景はその男を気丈な眼差しで見上げ、睨み返す。
暫くの沈黙の後、男はその巨体を折り曲げて跪き、綱景に向って言葉を述べ始めた。
「私は懸塚広忠と申します。この世において最も勇敢であった主君・豊兼殿の見事なまでの最期を看取りながらも、自らは生き恥を曝し続けている身であります。
もはや、私の命に価値などありますまい。もしも、赦されるのであれば、綱景殿――私を殿の刀として振るって頂けないでしょうか。私は今度こそこの身命を全て賭し、池家の為に尽くしたく存じます――」
綱景は暫くその姿を見つめていたが、やがてその傍らに近づき、見下ろしながらも声をかけた。
「面を上げよ。既に敵はここまで迫ってきておる。すぐにでも軍勢を集め、その全てを撃退せよ」
男――懸塚広忠は顔を上げ、若き主君の眼差しを真っ直ぐと受け止め、深く頷いた。その双眸からは大粒の涙がこぼれ落ち、足元の若草を激しく濡らした。
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かくして、池軍の反撃戦が始まる。
元々の兵だけでは風間軍には敵わないことを悟っていた綱景は、南魚沼に拠点を置く傭兵団・越後国衆を雇用。風間軍が近づく前にこれを東蒲原の地に結集させる。
そして11月10日。
懸塚にとってはリベンジ戦となる、東蒲原の戦いが繰り広げられる。
土地勘を持つ越後国衆が中心となり、深い森の中に迷い込んできた風間の兵たちを次々と屠っていく池軍。
気が付けば風間軍は圧倒的多数の敵兵を前にして完全に包囲され、逃げ場などなくなりつつあった。
結果は・・・「大虐殺」。光信はじめ敵の主要武将らはすべて取り逃がしてしまったものの、それ以外の敵兵は皆、物言わぬ亡骸となって暗い森の中に打ち棄てられることとなった。
とりわけ懸塚の鬼神の如き振る舞いは一同を震い上がらせ、指揮官でありながら先頭に立ち、返り血に染まりながら次々と風間の兵の命を奪い取り続けていった。
崩壊した風間軍はすぐさま自領内へと引き返し、占領されたすべての領内の城を解放した綱景はそれ以上の追撃は行わず、風間光信との和平を締結。
その迅速かつ的確な反撃策によって一族の危機を見事救って見せた綱景の家内での地位は一気に高まることとなった。
だが、父を亡き者にし、池家に対して屈辱を味あわせた風間に対し、これだけで終わらせるつもりなど、綱景にはなかった。
彼は一度時間を得て機会を探りながら、やがて「そのとき」を迎えることとなる。
2年後、1398年10月19日。
綱景は風間光信に対する暗殺計画を開始する。
その鍵となったのが、綱景にとっての従妹にあたる池悠の存在。
2年前の与板城陥落の際、光信によって捕らえられてしまった彼女は、解放の条件として彼の側室になることを強制させられ、その子を産まされてもいる。
光信はすっかりと彼女を信頼しきっているようだが、自身への屈辱のみならず、一族を殺した怨みは間違いなく彼女の中に残されており、綱景からの提案に迷うそぶりすら見せずに了承することとなった。
彼女の助力と、目付・雫による「計画の支援」を加え、光信の暗殺は問題なく成功となりそうな状況だ。
そして、1399年8月18日。
悠は光信がいつも飲む酒に毒物を混入。
何一つ疑うことなくそれを手に取った光信は、すべて飲み干してから自身の体に起きた異変に気づき、しかし何も手立ての無いまま、その人生の終幕に向って旅立つこととなった。
仇は討った。
これにて、池家に仇なす大敵が一人、この世から消滅した。
そしてこれは、単なる心情的な作戦ではなく、戦略的な意味を持つものでもあった。
元々、光信の妹の緑が信濃国主・小笠原長秀に嫁いでおり両者の間に同盟が結ばれていたのだが、光信の死によってこの同盟が解消。
光信の遺児・勝景に新たな同盟はおらず、もはや敵ではない状態である。
1400年1月27日。綱景も勝景に対する宣戦を布告。
5か月後には南魚沼郡の坂戸城を鎮圧し、続いて北魚沼・東頸城へとその支配圏を広げていく。
1401年2月に春日山城も落とし、風間勝景は降伏。南魚沼郡を割譲することに同意した。
これで、越後国の「簒奪」に必要な六郡をすべて確保。
1402年2月25日。定房による勝景に対する反乱が終わったのを見計らい、追放された勝景に代わり越後国主となった風間信成に対しその権利を要求。
抗うことなどできるはずもなく、綱景は佐渡のみならず越後も領有する2か国領有の大名へとのし上がったのである。
急激にその勢力を伸ばし、拡大していく綱景。
その逞しさは、偉大なる祖父・慶宗を思い起こさせるとして、家臣たちは皆大きな期待を彼に寄せ始めた。
綱景ならば、慶宗が望み、そして果たせなかった大望――平家再興を果たせるやもしれぬ、と。
綱景は、その期待に応える必要があった。
たとえ、その心身が少しずつ悲鳴を上げていたとしても――。
大望の果てに
1402年3月17日。綱景の本拠地のある会津にもほど近い南東北の地を納める伊達家の当主・政宗から、その娘と池家一族の者との婚約の提案が行われる。
それはすなわち、伊達家と池家との同盟を意味する。総兵力2,164名の北方の雄との同盟は願ったり叶ったりである。即座に承諾する。
強力な同盟相手を手に入れることとなった綱景。しばらくは政宗との関係改善を進めつつ、次なる標的として、同じ南朝勢力ではあるが、南方の信濃と木曾を支配する小笠原家に狙いを定める。
実は叔父の古志郡領主・池勝景の母方の祖父が、かつての信濃国主・北条仲時であり、その孫の勝景に信濃国に対する請求権が存在するという理屈である。
さすがの名門・小笠原家は強力な相手ではあったものの、伊達家の力も借りて見事これを撃破。
京への通行路の一つとなる木曽の地を、池一族による支配下に収めることに成功した。
かくして池氏は、東北から北陸、関東甲信に至るまでの22郡をすべて領有するという大勢力へと変貌。
いよいよ、彼はその「大望」を実現する好機が訪れつつあることを理解した。
時は少し遡って1399年6月30日。
成人したばかりの当時の主君・新田義綱が「不可解な状況で」死亡する。
さらにこの死を受けて11年ぶりに家督の座を取り戻した新田通義もまた、1404年に同様の死を迎えている。
1369年の新田義貞の死以来、絶えることなく続く、新田家内の骨肉の争い。
もはや、この家に南朝の指導者としての器は存在しえない。
東北の北畠も、畿内の楠木も分裂し弱体化する中、南朝の幹となる存在を立ち上がらせねば、足利に足元を掬われることになるだろう。
ゆえに、綱景は行動に移す。主君・新田家に対し、北陸の支配権が我らが池氏――いや、その本来の姿である、「平家」にこそあるということを突きつける!
新田家の本拠地・一乗谷を直ちに制圧。
大きく回り込んで北方からこちらの本拠地・会津に襲来してきた敵部隊を迎え撃ち、南会津の森の中での激戦を繰り広げる。
戦いの中で「怪物」懸塚広忠も斃れ、それはまさに「死闘」というべきものであった。
それでも2年近くに及ぶこの戦争も間もなく終わりを迎えようとしていた・・・
そのとき—―。
1407年7月14日。偉大なる慶宗の後継者と称えられ、事実多くの領土を獲得しその勢力を拡大させていった池綱景は、わずか11年という治世をまさに風の如く駆け抜けていった。享年42歳。死因は、突然の脳卒中であった。
後を継いだのはその嫡男、池春広。
「温和」だが「嗜虐的」で「狂信的」、そして「苛烈な猛将」たるこの男は、果たしてこの一族をどこへ運んでいくのか。
第3回へ続く。
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