平家――平氏の中でも伊勢平氏、とくに平清盛に代表される権勢を振るった平正盛の系統のことを狭義にそのように呼ぶ。
この意味での平家は、壇ノ浦の戦いにより実質的に滅亡した。ただ一人、清盛の弟の1人であった平頼盛を除いて。
平家の残党による都落ちに同道せず、源頼朝の厚遇を受けた頼盛は、壇ノ浦の戦いの後も唯一残る「平家」となったが、やがてその嫡流は断絶。その他の系譜も歴史の中に埋もれていった。
しかし、1335年。その血統は越後の北の山奥にひっそりと残っていた。
その家の名は「池」。六波羅池殿に住み、池大納言とも呼ばれた頼盛の五男・保業の血統の一部が流れ込んだと「されている」。
もしそれが事実であれば、おそらく1335年8月14日時点で唯一プレイアブルな「平家残党」と言えるだろう。
と、いうことで今回は、1335年「中先代の乱」シナリオで「平家残党」古志郡の「池」家で開始したいと思う。
目標は勿論ーー「平家」の再興。
南北朝で争う時代において、いずれにも与せず第三勢力として台頭し、やがて天下を握れるか。
失われた平家物語の「その後」を描いていこう。
Ver.1.10.0.1(Quill)
使用DLC
- The Northern Lords
- The Royal Court
- The Fate of Iberia
- Firends and Foes
- Tours and Tournaments
- Wards and Wardens
使用MOD
- Japanese Language Mod
- Shogunate(Japanese version)
- Nameplates
- Historical Figure for Shogunate Japanese
- Personage
- Invisible Opinion(Japanese version)
目次
池七郎成清
1335年当時、池家の当主であったのは池七郎成清という男。彼は1333年の鎌倉幕府滅亡の際の討幕軍に参加した越後勢の一人として史料に名を残している。
当時の池氏は南朝の総大将・新田義貞に仕えていた。やがて義貞は家臣の風間信昭を越後国の大名に据え、成清も信昭の家臣となった。
とりもなおさず、まずは勢力の拡大が急務。何しろ当初段階で池成清が所有している領地は山奥の古志郡1州のみ。総兵力もわずか347人でしかない。
そんな中、奪い取れる相手も少ないため、まずはそれでも池家より兵力の少ない隣国の山東郡・小国政光を攻めることにする。
しかしなかなか金がなく、戦争を始められない。金が溜まってみれば、小国氏に同盟者がついてしまい、二の足を踏まざるを得ない。
落ち着いて、慌てることなく、来るべきチャンスを待つしかないだろう。
その間に家庭内のいくつかのイベントをこなしていく。
まずは1338年11月に早くも君主・風間信昭が亡くなり、その息子の長頼が即位すると、その家臣である弓床景虎をこちらの嫡男の慶宗の後見人とさせてほしいと依頼される。
関係構築のためこれを承諾するが、その影響で慶宗は法華宗に宗旨替えすることに。
以後、池家の中心的な信仰がこの法華宗となる。
また、その慶宗の妻として、全国に散らばり放浪していた北条家の「北条仲子」を迎え入れることにする。「平家」ではないが一応「平氏」の血を引く者を家の中に入れることは、今後の権威付けにも一役買うかもしれない、という考えのもとでの縁談であった。
そうして家庭の基盤も盤石にしつつ、拡張戦争への道を突き進んで行こうと考えていた、そのとき・・・
1343年7月29日。
いつも通り何気なく食事を取っていた成清は、突如「窒息」してしまう。
全く思いもよらなかった《突然の死》。
越後池氏として史料に残る数少ない人物の一人である成清は早くも歴史から退場してしまったのである。
領土拡張
平家復興を目指す池家新当主は、成人したばかりの16歳・池慶宗となった。
悲しみよりも、責任感が勝った。
幼い頃より父から平家復興の大義を聞かされ続けてきた慶宗は、父から受け継いだ信頼する家臣たちと共に、早速その遺志を継ぐための行動に出る。
1348年9月27日
慶宗は隣国・山東郡の領主・小国政光が、主君たる越後守護風間日運*1に対して謀反の企てをしていることを耳にする。
そのことを慶宗はすぐさま日運の耳に入れ、激怒した日運は慶宗に小国政光の討伐を命じた。
すべては慶宗の思惑通り。
1348年10月15日。
菩提寺住持によって作らせていた偽の請求権に基づき、慶宗は小国に対し宣戦を布告。
有能な黒川房能を総大将とし、速やかに小国氏の支配する山東郡へと侵攻した。
10月28日。山東の地で、互いの武将を討ち死にさせるほどの激しい合戦が繰り広げられる。
大きな犠牲を払いつつもこれを制した池軍は、早速山東郡の都、後の直江兼続の居城となる「与板城」を包囲するも、肝心のところで兵が足りないという失態を犯し、無駄に時間をかけた末に1351年2月4日にようやく攻め落とし、政光の身柄も確保する。
そのまま政光は敗北を認め、池慶宗は池家として初めての「領土拡張」を果たすこととなった。
これを受けて主君・風間日運からは祝着の知らせと共に、自らの摂政になってくれないかとの申し出まで届く。
すでに風間の下で取次になることも依頼され引き受けており、今回の「反逆者」小国討伐でかなりの恩を売れたようである。
その上で、日運は慶宗にとある依頼をする。
「京では足利尊氏率いる北朝勢と、我々南朝勢との対立が激化している。足利の本拠地たる関東を牽制する我々北陸の重要度もより増しているというわけだ。我らが主君・新田義貞殿は京を見据えて身動きが取れぬ。我々だけで、北陸から北朝の勢力を駆逐する必要がある」
「と、言いますと、つまり・・」
「北方に居座る北朝勢力――佐渡守護・加地景綱を討ち倒すべし」
なるほど、風間日運が慶宗による山東郡支配を黙認したのは、単に小国政光の謀反だけが原因ではなかったようだ。
察するに、小国はこの北方侵攻に消極的だったのだろう。何しろ相手は肥沃な土地を多く含む4州支配の守護だ。下手に手を出して火傷したくはあるまい。
そこで日運は血気盛んなこの慶宗に期待を寄せたというわけだ。
「良いでしょう。ただ、単独ではなかなか難しい故、助力を請う上での協力を頂きたく」
慶宗の言葉に、日運は深く頷いた。
日運の仲介もあり、「越後守」として刈羽郡・南魚沼郡・勢多郡の三か国を領有する新田義顕と慶宗の母・石黒宝との婚姻が決定。
これで義父子の関係となった新田義顕とは同盟が結ばれることとなった。
とは言え、Shogunateにおいては、こちらから仕掛けた戦争に同盟相手を呼び込むためには関係性75以上必要という結構高いハードルがある。しかも正確な関係値が分からないMODを入れている為、色々な手を使い関係性を極力上げられるようにしないといけない。
そうやって準備を進めていたところで、ついに好機が訪れる。
なんと標的の加地景綱が会津守護の葦名高盛に対し侵略戦争を仕掛け、返り討ちにあっている様子だ。
これが終わる頃を見計らい、1357年6月21日。いよいよ、加地景綱に宣戦布告!
先の敗戦からまだ立ち直りきれていない景綱は、借金状態に陥っており兵士の士気は低い。
1対1では総兵力において劣る相手だが、この借金ペナルティと新田義顕の軍の助けを借り、蒲原の戦いで見事勝利!
1358年10月17日には鳥坂城も陥とし、加地景綱は降伏。
その領土の一部であった蒲原郡を獲得した。
見事、北朝に一泡吹かせることができ、風間日運も上機嫌に慶宗を迎え入れる。
その場で彼の承認を得た慶宗はすかさず中立国の南会津を攻め、この領土も奪い取る。
かくして10年前までは山奥のわずか1州を領有するのみであった池慶宗は、今や越後国領外を含め4州を有する大名級の領主へと成長した。
風間家支配下の越後国において、新田義顕と並ぶ実力者として、その名は北陸一帯に知られる存在となっていたのである。
慶宗はしかし、今はまだ雌伏の時であることを理解していた。今はまだ、彼の遠大なる野望を世に知らしめる時ではない、と。
主君に忠義を振るう振りをしつつも、来たるべき時に向けて準備を重ねるのみである。
懊悩と栄誉
外征において目覚ましい実績を遂げつつあった池慶宗だったが、国内――とくに家内においては、やや問題を抱えていた。
発端は1353年。妻の仲子が突然兄を連れてきて、彼に胡散臭いタペストリーを作らせて欲しいと依頼してきた。
対加地戦に向けて資金を貯めておく必要のある時期だったため、そんな余裕はないと拒絶。
すると仲子は烈火の如く怒り、慶宗を恨むようになってしまった。
周囲もなんとか取りなそうとしていたが、もはや両者の溝は修復不可能なほどにまで広がりを見せていた。
そして1357年2月。側室であり、かつ目付として家内の不穏な動きを常に探らせる役割を任せている篠から、自分の命を狙う存在がいることを知らされる。
まさか・・・と慶宗は思う。いや、しかし、いくらなんでも・・・と否定しようとしても、思い当たるのは彼女しかいないという気持ちになってくる。
更なる調査を篠に依頼していたが、その年の暮れについに、発覚する。
篠の持ってきた情報は、慶宗の命を狙う陰謀はやはり、仲子であるというものであった。
仕方なく慶宗はすぐさま仲子と離婚し、追放。
失意に沈む慶宗の下に、仲子の陰謀を見つけ出した側室兼密偵の篠が近づき、とある提案をする。
「私とあなたの間の子である豊兼こそが、池家の家督を継ぐのに相応しい男ではないでしょうか? 穢らわしい仲子との間に生まれた、勝景などではなくて・・・」
篠の言うとおり、今や仲子が妻でなくなった以上、その子である勝景を長男というだけで大事にする道理はなく、次男・豊兼をこそ優先させるというのはあり得る考えだろう。
しかし、慶宗は勝景を気に入ってはいた。彼は乱暴者ではあるが正直者で、節度を保てる男であった。また軍事の才能も持つ男であった。
一方の豊兼は勇敢だが人付き合いは悪くよく嘘も吐くような男で、何を考えているかよく分からないところがあった。
しかし、迷うそぶりを見せた慶宗を見て、篠はさらに提案を重ねる。
「我が主、もしも私の願いを叶えて頂けるのであれば、私はより一層、主君の力になれることを証明して見せましょう。たとえば私は、数多くの有能な人物をお連れするだけのツテがあります」
後日、指定された場所にやってきた慶宗に、篠は数名の人物を紹介する。
いずれも実に有能で、かつ忠実そうな男たちばかり。慶宗はその中でも最も若く、かつ武芸に秀でた男を選んだ。
しっかりと篠に借りを作る形となってしまった慶宗。
約束通り、彼は仲子との間の子である長男の勝景を家督継承者から外し、次男の豊兼を自らの後継者であると指名したのである。
一連の出来事にすっかりと神経をすり減らしつつあった慶宗。
しかし新たに正妻として迎えた元茨城郡領主大禄氏の娘・咲との間には、前妻との間にはなかった深いつながりを感じ始めていた。
翌朝未明、居室に盗人が入り込むという出来事が発生。慶宗は危うくその命を奪われそうになったが――。
その顔には痛々しい傷痕を持ちつつも、その心は美しく優しく、そして勇敢であることを理解した慶宗は、この女性――咲との「永遠の愛」を築くことを誓ったのである。
そして1381年。
54歳を迎えていた池慶宗は、その威信を遥かに高め、「雲上人」と呼ばれるほどとなっていた。
いよいよ、彼は「動き出すべき時」を迎えることとなる。
大名へ
ここまでの期間の狙いは、まさにこの「雲上人」となることにあった。
20年前、南会津までを獲得し4州の支配者となった池慶宗だが、その時点で直轄領上限に到達してしまい、それ以上の拡張は難しくなってしまっていたのである。
そこで、現在の「国衆(伯爵領級)」を脱し、「大名(公爵領級)」を目指す必要があった。
そのために狙っていたのが、一度敗北せしめている隣国の「佐渡の大名・加地綱景」に対する「従属化要求戦争」である。
これは、生涯に一度だけ使える開戦事由であり、これで勝利することによって加地の持つ「佐渡の大名」の称号を奪い取ることができるのだ。
但し、この開戦事由を使用できるのは名声レベルが「雲上人」以上であること。
そのためこの20年間、外交パークの威厳フォーカスで「尊厳者」ツリーをひたすら進めていったり、ひたすら狩りに出かけて威信を集めていったりを勤しんでいた。
その努力の果てに、ついに彼は目標の「雲上人」となったのである。
と、いうことで早速、慶宗は加地綱景に対し従属を強要。当然拒否した景綱との戦争状態へと突入した。
かつてはこちらの1.5倍近い兵力を持ち、単独では決して勝てない強国であった加地氏も、池氏に蒲原郡を取られた後、北方の南朝勢力・二階堂氏にも攻められ岩船郡を奪われるなど弱体化。
本土に残った沼垂郡はすぐさま制圧したうえで、本拠地の佐渡島にも上陸戦を敢行。
1383年4月3日にはこれも落城させ、加地家を降伏・服属させる。
これにて池慶宗はついに「大名」として認められ、六郡を領有する実力者となったのである。
未だ遠大なる野望たる「平家復興」に向けて、しかし確実な第一歩を、慶宗は踏み出すことに成功した。
新田家の内紛、そして・・・
一つの節目を迎えた池家。すでに慶宗も50代後半に差し掛かっており、少しずつ「次代に向けた」準備を進めていくこととなる。
そんな中、慶宗の主君筋にあたる新田家の家内が色々とゴタゴタし始める。
まず、元々の最上位主君であった新田義貞が、1369年に69歳で亡くなり、北陸の支配圏はその長男である義顕が継承していた。
しかしいまや南朝の最大勢力であり、天下に最も近い存在でもあるこの新田家を継承するということは、決して穏当なものでは済まない事象でもある。
たとえば義顕の弟である義宗*2は「何かしらの意図の下」去勢されており。
さらにその弟である義益も、かつて義顕によって秘密裏にその命を奪われようとしていたという。
そうまでして義顕が自身の兄弟を排除しようとしていたのも、彼が妻――すなわち慶宗の母でもある石黒宝との間に、なかなか男子を儲けられていなかったから。
このままではいずれにせよ、自身の死没時には義益に家督を奪われてしまう・・・そう危惧していた義顕だったが、宝との離縁後、後妻となった大井家の娘との間に1383年、ようやく待望の男子を儲ける。
その直後、66歳になっていた義顕は薨去。まさに、執念のなせる業であった。
とはいえ、この幼君を巡り、新田家内の内紛はさらに加熱していく。
1387年4月20日。
まずは坂井の国衆・畑長顕が通義に対して宣戦布告。慶宗に対しても参戦するよう呼び掛けてくる。
その背後にいるのは通義の叔父である上野の大名・新田貞方(去勢された義宗の嫡男)の他、風間光信の姿も。揃いも揃って、反逆者の汚名を被る気か!
対する通義を助けようとする者はおらず、兵力としても圧倒的に劣勢。
甥の通義の摂政を務め権力を欲しいままにしようとしていた義益もその息子の義実も戦いの中で散り、その継承権は孫の義綱のもとに。
そして開戦から1年半後の1388年11月10日。戦いに敗北した通義は退位させられ、その義綱が新たに北陸の支配者となった。
だがまだまだ、戦乱の種はなくならない。貞方以外の新田義貞の息子たちも、その当主の座を巡り次々と反旗を翻し始める。
そしてその背後で暗躍する、風間光信。
もはや、我慢はできぬ。
愚かなる光信に灸を据えるべく、ここまでひたすら傍観に徹してきた慶宗はついに重い腰を上げる。
越前で、越後で、北陸の各地で激しい争いが巻き起こる。
そして1390年10月17日。
風間の本拠地・春日山城を占領し、光信も捕えることに成功。
慶宗はその生涯の最後に、主君に対して忠誠を誓うことを成し遂げたのである。
そう、生涯の最後に。
1391年11月27日。
64歳を迎えていた池慶宗は、半世紀に及ぶその長い治世を終え、天寿を全うした。
平家の再興という遠大な夢に向けて、その礎を確かに築き上げた。
その栄光は日ノ本に広く知られ、時代の英雄の一人として数えられるほどであった。
だが、彼はまだ、一族の夢を果たせてはいない。
その夢は、彼の子どもたちが受け継いでいくことになるだろう。
第2回に続く。
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