~前回のあらすじ~
ドイツ騎士団に続き、リヴォニア帯剣騎士団を属国化し、さらにはノヴゴロドにも侵攻していくデンマーク王カール1世。
ノルウェーの併合も開始し、すべて順調のように思えた。
そんな中、同盟国ポーランドが大オルド-モスクワ大公国の同盟に宣戦布告。
それだけならまだしも、そこに加えてオスマン帝国が参戦してきたため、デンマーク-ポーランド-リトアニア同盟は危機に陥る。
4年間に及ぶ抵抗の末、デンマークは戦争から離脱を決意。
そして、ノルウェーに続き2大騎士団領の併合も開始する。
1.摂政時代(1504年~1513年)
デンマーク王領域の拡大を実現した偉大なる王カール1世は、1504年に崩御する。58歳での死であった。
彼は晩年に最愛の息子クリスチャンを失っており、デンマーク王位はクリスチャンの遺児であるフレゼリクに継承された。
しかし当時フレゼリクはまだ6歳と幼く、カールの妃であったカタジーナ(Katarzyna)が摂政となって政治の実権を握った。
カタジーナがまず取り掛かったのはフランスとの同盟構築であった。
というのも、同君連合下にあるスウェーデンがイングランドに独立保証されており、いつ反旗を翻してもおかしくない状況であった。
そのとき、イングランドの宿敵であるフランスと手を結んでおくことは、十分な抑止力になり得ると、カタジーナは考えたのである。
また、当時のフランスはすでにイベリア半島にも勢力を伸ばしており、西ヨーロッパ最強の国家であることは間違いなかった。
この後、デンマークがプロテスタントに染まり、オーストリア皇帝と対立していくことを考えると、その片腕としてのフランスの存在は大きな価値を持つことは間違いなかった。
1506年11月1日。リヴォニア騎士団領を併合。
また、1510年7月12日にはドイツ騎士団領も併合。
属国がなくなったことと、デンマークの国力が強大化されたことによって、ようやくスウェーデンの併合を開始することができるようになった。
カタジーナはスウェーデン王国のデンマーク王国への併合開始を宣言する。
バルト海帝国は一つに纏まらなくてはならない――120年前にマルグレーテが実現したカルマル同盟結成以来の悲願が、ついに果たされようとしていた。
2.親政前半期・内乱時代(1513年~1522年)
1513年3月1日。
フレゼリク1世が成年に達し、いよいよ親政が開始された。
しかし、継承権に疑義を持たれていたフレゼリクの即位に対し、ヤコブ・グリップという王位僭称者が反乱を起こす。
先の大東方戦争でも活躍した歴戦の将軍ポール・ホーグ率いるデンマーク軍が、ルンドに上陸し、これを殲滅する。
あっけなく鎮圧。
無意味な反乱は起こすべきではない。
しかしこの反乱はこの後巻き起こる大内戦の序章に過ぎなかった。
1521年6月1日。
フレゼリクの治世もようやく軌道に乗ってきた頃、突如として巻き起こった内戦。
すでにホーグ将軍はこの世にいなかったため、フレゼリク1世自ら指揮を執り、反乱鎮圧に出向く。
内戦中に様々なイベントが発生。
地域の自治度を上げたり、新たな反乱軍を出現させたり、資金を支払ったりすることで少しずつ正統性を上昇させていく。
そして1522年11月10日になんとか内戦が終了。
安定度が一気に+3となり、思ってもいない遺産を手に入れることができた。
3.親政後半期・第二次大東方戦争とハンザ戦争(1523年~
1523年5月12日。
ポーランドから対モスクワ戦線に誘われる。
前回同様にオスマンが敵方に参戦したものの、今度は皇帝率いるオーストリア軍がこちら側の陣営についたことでぐっと優位に。
デンマーク・スウェーデン・ポリ連合・オーストリアの西方同盟及び、モスクワ・ノガイ・オスマンの東方同盟の大激突。
この戦争の最中覗いてみると、一時は100近くあったポーランドの「お前の領土を欲しがっている」ペナルティが消滅していた。
これは、ポーランドとの永久同盟の可能性も出てきた。
1525年12月6日。ポーランドが敵同盟と和平を結ぶ。
とくに領土のやり取りがあったわけではないが、これによりデンマークはポーランドから大きな信頼を勝ち取ることができた。
さらに1527年5月19日。
今度はブランデンブルク選帝侯がデンマークに対し、対ハンザ同盟戦争への協力を呼び掛けてきた。
ちょうどリューベックの領土も欲していたデンマークにとってこの申し出は渡りに船。
早速参戦することに。
兵力差は歴然で、デンマーク軍は早速リューベック領ホルシュタインを占領。そしてリューベック市もただちに包囲し始める。
そして1529年1月16日。
ベルリン条約が結ばれ、リューベックはホルシュタイン州をデンマークに、ホルシュタインとリューベック市以外のすべての領土をブランデンブルクに譲渡することを承諾した。
ブランデンブルクに恩を売るためとはいえ、デンマークにとっては、ホルシュタインとリューベック市2つともを獲得したうえで単独和平する道もあった。
ブランデンブルクへの義理立てを優先し大きな魚を逃したとも言える。
ここは反省点の一つであった。
可能ならば1544年の講和条約切れを狙って、再びリューベックに攻め込みたいところだ。
そしてリューベック交易圏の完全支配を目指すのである。
そしてフレゼリク1世の治世中に、「探検」アイディアを獲得し、最初の探検家を大西洋に派遣している。
まだ植民可能距離が短く、実際の植民には至ってはいないものの、いよいよ植民地政策もスタートできる状況になってきた。
第4回に続く。