~前回のあらすじ~
偉大なる王カール1世の後を継いだのはその孫、フレゼリク1世。
その治世は28年と先代に比べると短かったものの、モスクワ・オスマン同盟に対する勝利や、ハンザ同盟に対する勝利など、今後に繋がる大きな成果を出すことにも成功した。
そして彼は34歳という若さで崩御。
後を継いだのは、16歳という若さの少年王クリスチャン1世であった。
1.クリスチャン1世の治世(1532年~1546年)
1532年8月7日。
フレゼリク1世は34歳の若さでこの世を去った。
後を継いだのはその嫡男クリスチャン1世。
即位当時は16歳であった。
摂政を置くほどではないにせよ、若い年齢による即位という点で、名君カールの再来か、と人々は彼の即位を喜んだ。
何しろ先の王フレゼリク1世は、カールと比べるとひどく凡庸で、愚鈍でさえあった。
それと比べこのクリスチャンは、外交値5ポイントと、今デンマークにとって最も必要な能力に優れた君主であった。
一刻も早く外交レベルやアイディアを獲得し、北米植民地を拡大しなくてはならない。
そんなデンマークにとっては、待望の存在であったといえるだろう。
問題があるとすれば、先代に引き続き継承権が脆弱であったため、即位直後の正統性が非常に低い、ということだろう。
教皇への影響力を消費して年間獲得正統性を向上させ、なんとか回復に努める。
そしてクリスチャンの即位直後の9月1日。
ついにスウェーデンの併合が完了した。
これにてデンマークは、バルト海沿岸を完全支配する、巨大な帝国へと成長したのである。
そんな誉れ高きタイミングで君主となったクリスチャンがまず手掛けたのは、待ち望まれていた、新大陸植民である。
1535年5月11日に、「探検」アイディアの3番目にあたる「海外探検(Overseas Exploration)」を獲得。
植民距離が一気に増え、ついに新大陸植民が可能となった。
その第一歩として、まずはニューファンドランド島のプラセンシアに入植。
ここを踏み台として、北米大陸の奥地へと向かっていくことにする。
2.北米植民と侵攻
と思っていると、1546年4月6日。
いきなりクリスチャン1世が崩御。まだ30歳だったのに。
新たに即位したのは5歳年下の・・・同名のクリスチャン2世。
普通、5歳年下であれば弟、などを考えるところだが同じ名前というのは謎。
継承権は十分に強かったため、正統性は問題なし。
ほぼ同時期にマンハッタンの植民作業をスタートしている。
さらに1551年5月1日。
マンハッタンの隣に居住していたモヒカン族に宣戦布告。
「文明の味を思い知らせてやる!」
とばかりに弱い者いじめ。
彼らの領土を奪うのはもちろん、原住民部族を叩くと結構な額の賠償金を手に入れられるため、ここ最近金欠気味だったデンマーク財政の改善に一役買ってもらった。
3.第2次ハンザ戦争(1554年~1560年)
1554年11月6日。ハンブルクに宣戦布告。
どうしたって皇帝がついてくるのだが、すでに皇帝はフランスやハンガリーと戦争中であり、その隙を狙うことにした。
リューベック征服も狙っており、その同盟国は限られているため、彼の国も主要攻撃相手に指定する。
戦力差は十分。20連隊くらい北米大陸にいるが問題ないだろう。
楽勝楽勝・・・と思っていると、
皇帝の仕様を忘れていた。(前回のフランスAARに続き2度目)
皇帝の同盟国であるイングランドやポーランド=リトアニア連合王国、そしてプファルツ選帝侯などが加わり、絶望的な戦力差となってしまった。
これは終わったか?
しかし、なかなか攻めてこない敵連合軍。
どこから、ハンガリー軍によってオーストリアがどんどん占領されたり、
フランス軍が超がんばったりしてくれているお陰で、分は悪くないどころか優勢に進められている。
さすがフランス。素晴らしい。
とりあえずユトランド半島やスカンディナヴィア半島にもイングランド軍が中途半端に上陸してくるので片っ端から引きつぶす。
そうこうしているうちに開戦から半年。
まずはリューベックと和平する。
1729デュカートという莫大な賠償金を獲得。
さらに朗報。
1555年11月9日にオスマン帝国がこちら側に立って参戦してきた。
これはもう勝ったも同然じゃないだろうか。
しかし、かつての大東方戦争では敵側に二度も参戦してきたオスマン帝国が、ここでは心強い味方となってくれる。
そのときこちら側に味方をしてくれていたオーストリアが今は敵なのだ。
まことに、ヨーロッパの同盟・戦争関係は複雑怪奇である。
デンマーク主力軍3万は、各個撃破されぬよう、同盟軍のブランデンブルク3万の兵につねに付き従う形で動かしていく。
相変わらずフランス軍は心強い限りである。
1557年1月25日にボヘミアと白紙和平。
これで兵力差において形勢逆転が果たされる。
4月にはプファルツ選帝侯も降伏する。
フランス海軍がイングランドを海上封鎖し、オスマン陸軍がポーランド・モスクワ連合軍を撃破する。
各地で同盟国が連戦連勝を重ね、着実に勝利に近づいていく。
1559年7月5日にポーランド=リトアニアと和平条約を結ぶ。
賠償金と共に、オーストリアとの関係断絶を強制する。
そして1560年2月14日にオーストリアとも和平。
そしてついに1560年5月5日。
これにて、6年にも及んだ第2次バルト戦争が終結した。
そして莫大な賠償金を獲得できたことである。
4.内政状況確認(1562年)
戦争中の1559年に、デンマーク領北米植民地、通称「ニューデンマーク」が誕生する。
合わせてここで、現状の経済状況を確認する。
まずは収支状況。
税収入20デュカートの内訳は、首都のあるシェラン島から1.72。
開発の結果、税収開発度は13に達している。
2番目がシェラン島の隣にあるフュン島。ここも税収開発度を10にまで上げているほか、聖職者に下賜しているため税収が高い。
そして3番目に元ドイツ騎士団領ダンツィヒ。ここも税収開発度10および聖職者支配の土地である。また、プロイセン文化も既に受容している。
生産収入内訳は以下の通り。
「ダーラの森(Dalaskogen)」?
と思ったが、調べてみると、世界遺産「ファールンの大銅山地域」の中心地となっている「ストラ銅山(Stora Kopparberget)」が存在するとのことである。
銅の交易価値も4.5と高く、意外な高生産地域となっていた。
まったく気づいていなかったのでTerritoryのままだったため、試しにState化してみると3.52という阿呆みたいな生産収入と化した。
この後、「武器工場」も建造し、さらに開発なども進めていく予定である。
なお、かつてルンド(Lund)にあった「スコーネ市場」はすでに消滅しており、生産品も魚に変わってしまったことで、生産収入は大きく没落してしまった。
続いて交易状況を見てみる。
バルト海交易圏はほぼ掌握しており、基本的には北米が流し込んだ富を北海から移送させてリューベック交易圏で回収する、という交易図を作ることを意図していく。
そのためには北海交易圏のシェア率とリューベック交易圏でのシェア率が重要なのだが・・・まだまだイマイチである。
一応今のところ、70隻近い小型船を北海交易圏に派遣しており、商人にも任務に就かせている。(この後、いろいろ試してみたところ、小型船はリューベック交易圏に派遣した方が遥かに効率がいいことがわかったためそちらに移動させている。6デュカート近く変わった)
ブランデンブルクがリューベック交易圏に商人を派遣してシェア率を高めていたため、こちらも対抗してバルト海交易圏から商人を呼び戻し、リューベックに派遣。
一時は2デュカートも収入が増えたが、またしばらくしたら17デュカートに戻った。
交易における覇権争いはまだまだ続きそうだ。
北海交易圏では交易額の移送合戦でイングランドと競り合っている。
スコットランドの地域吸い上げ額が3番手に来ている。
北米交易圏の要である「セント・ローレンス湾交易圏」。
現状では流出交易額の半分をフランスのボルドー交易圏に持っていかれている。
商人が増えたら早速派遣し、北海交易圏に流し込んでいく。
もちろん、上流のチェサビーク湾交易圏の強化も進めていく。
以後の征服戦争の戦略としては、まずはバルト海交易圏の上流であるモスクワ地域の交易中心地を狙っていく。
具体的にはネヴァとノヴゴロドを狙っていきたい。
しかしモスクワにはオスマンとイングランドという同盟国が控えているため、簡単には手出しできない。
こちらにはフランスとブランデンブルクがいるとはいえ・・・とりあえずポーランドと再び同盟を組みなおして、チャンスを窺うことにする。
また、近い将来、ハンザ同盟の残党であるブレーメンと、エムス河口を保有するブルンズウィクを征服し、リューベック交易圏の更なる拡大を目指す。
そして、北海交易圏の拡大を目指すとなると、イングランドとも戦っていきたいところだが、請求権の捏造などが不可能なため、どうしたものか、といったところである。
そして植民においてはカナダへの拡大を目指し、セント・ローレンス湾交易圏を豊かにしていこう。
5.皇帝即位
1567年8月22日。
なにげなく帝国ウィンドウを開いてみると・・・
なんと、選帝侯たちがデンマーク王の皇帝即位を支持し始めているではないか!
ただちに、フランスを支持する選帝侯たちとの関係改善にとりかかる。
結果、
こうなって、
1572年11月9日。
皇帝クリスチャンが生まれた!
皇帝であることのメリットは、帝国諸侯への攻撃に対し、皇帝が出張ってこなくなる、ということである。
これで、ハンザ同盟の残党であるブレーメンやブルンズウィクに攻撃することができる・・・と思って準備を進めていたら、
1473年5月14日。
クリスチャン2世崩御。
そして、皇帝の座は再びオーストリアの手に。
正直、万全を期するという名の臆病すぎる慎重さがなければ、さっさと開戦することができていた。
こうなりうることはわかっていたのに・・・あまりにも後悔が強すぎる結果となってしまった。
しかし次の皇帝になることも十分可能なようだ。
このことを教訓として、次こそは皇帝として、リューベック交易圏の完全支配を目指していきたい。
第5回に続く。