時代は少し遡るが1452年3月9日。
コンスタンティノープルがオスマン帝国によって陥落させられ、ビザンツ帝国からの避難民がオーストリアにも押し寄せてきていた。
彼らの中には古代ギリシャ・ローマ時代の智慧、すなわちアリストテレスやプラトンといった古代思想家たちの文献を携えた者もおり、彼らを保護するか否かの選択を迫られた。
彼らを保護するには外交点50ポイントと統治点30ポイントの消費が必要となるが、その代償として威信+5と30年間の技術獲得コスト-10%ボーナスが得られる。
受け入れないことによるペナルティは威信-5程度ではあるが、技術コスト削減ボーナスは旨味があるし、何よりも古代帝国の偉大なる知識の保護は、永遠の帝国を目指す皇帝にとっては果たすべき義務の一つであることは間違いない。
フリードリヒ3世は何の迷いもなく彼ら遺民の受け入れを決める。
こうして帝国は、旧き知識を獲得し、以後、さらなる技術革新を目指していくこととなる。
そもそもフリードリヒが開戦を急いだのには理由があった。
先立ってボヘミア王国がバイエルン公国へ侵攻し始めたのである。
もう少し態勢を整えてから、と考えていた矢先のこの同盟国の動きに、フリードリヒは慌てた。
こちらが狙っているアウクスブルクやミュンヘンを、先に獲られてしまっては敵わない、と。
どのみちボヘミアとバイエルンが戦争をしている今がチャンスである。
多少、準備が整いきっていなくても、同盟国が誰も味方についてくれなくても構わない。
オーストリア陸軍4万だけでバイエルン・ヴェネツィア・ブランデンブルク連合軍に喧嘩を売ってやろう。
4万の軍勢を二手に分け、アルプスから南北にそれぞれ進軍。
先手を打った9000のチロル軍が9400のバイエルン軍に辛くも勝利したアウクスブルクの戦い。
南チロルから南下したフリードリヒ皇帝直属軍1万2千と7000のゲルツ軍が合流し、1万5千のヴェネツィア主力軍を粉砕したトレビゾの戦い。
そして戦役後半には、バイエルン首都のミュンヘンを舞台にして、バイエルンとヴェネツィアの残存軍および南下してきたブランデンブルクの軍隊が合流して生まれた2万2千超の連合軍と、皇帝率いるオーストリア軍2万6千とが激突し、最大規模の会戦が行われた。
敵国の将軍ウィルヘルム・リーデゼルもなかなかの能力をもった将軍であった。
しかし我らが皇帝フリードリヒの才能はそれすらも上回っており、ほぼ同数の損害を出しながらも、この戦いもオーストリア軍が勝利を収めた。
かくして1457年4月21日。
オーストリアはバイエルン及びヴェネツィアを完膚なきまでに叩き潰し、それぞれと講和することとなった。
当初の目的通り、オーストリアはヴェネツィアにヴェローナを割譲させ、帝国に編入する。
さらにはバイエルン公領よりアウクスブルクとミュンヘンを奪い取り・・・
おや、属国化もできるのか?
よしよし・・・
なんて思っていると・・・
・・・!?
あっという間に帝国内外の41諸侯によるオーストリア包囲網が形成され、
挙句の果てにその総勢22万の軍勢による宣戦布告を受けてしまった!
・・・
——という、夢を見たのさ。
実にリアルな夢であった。
これはきっと神の御告げに違いない。
やはり人間、欲をかき過ぎてはいけないのだ。
人間の真理を神の業によって悟ったフリードリヒは、圧倒的敗北によりすべてを投げ打つ覚悟であったバイエルン公ヨハン4世を赦し、彼がかつて奪い取った領土であるアウクスブルクの帝国への返還と賠償金及び諸外国との同盟破棄のみを条件にして講和を果たした。
この慈悲深き行いと神の声を聴くことのできた信仰心の高さゆえに、フリードリヒ皇帝は聖帝と呼ばれるようになったとか。
もちろんそれでも、皇帝に対して不満を覚える勢力は少なからずいた。
その筆頭が、兼ねてより神聖ローマ皇帝と不仲であったローマ教皇である。
現教皇インノケンティウス8世は、皇帝最大の宿敵であるフランス王の強い影響を受けた教皇であり、その意向によって皇帝に対しても敵対的な態度を取り続けていた。
しかしフリードリヒは意に介することなく、得意の外交戦略によって周辺諸侯との関係改善を進め、帝国内の結束を強めていった。
だが、ここで教皇インノケンティウス及びその御者であるフランス王シャルル7世は、あろうことか最悪の手段に出たのである。
すなわち、教皇の権威を笠に着た史上最悪の横暴――皇帝に対する破門である!
この事態にフリードリヒは大いに慌てた。
何しろ、それまではフリードリヒに対して友好的な態度であった帝国内の諸侯らが、掌を返したように皇帝に対して敵対的になったのである。
選帝侯らも皇帝に対する不支持を表明し、このままでは自らの息子カールによる帝位継承すら危うくなってしまう。
フリードリヒは、史上最大の窮地に立たされた。
——さて、どうするべきか?
かつて皇帝ハインリヒ4世が行ったように、教皇に対し跪き赦しを請うべきか?
いや、とフリードリヒは考えた。
彼は得意の「待ち」の作戦に出ることに決めたのである。
すでに教皇インノケンティウス8世は70を超えた老体。
いつ昇天してもおかしくはない。
そうすればフランスの影響力も失われ、フリードリヒに対する破門も取り消される。
しかしフリードリヒ自身も50を超えた身でもある。
彼自身、いつ死期が迫ってきてもおかしくはない。
そして今、自分が死ねば、息子カールの帝位継承はまず不可能。
そうなれば彼の夢である永遠の帝国の完成はずっと遠のいてしまうだろう。
自分が死ぬのが先か、教皇が逝くのが先か。
フリードリヒは自らの悪運と神の導きを信じ、ひたすら待ち続けることにした。
果たして運命は、どちらに転ぶのか。
各種イベントと経済状況
バイエルン・ヴェネツィア同盟戦争の終戦直後、拡大した首都ウィーンに対し、リエンツの農民たちが移住を希望し始めた。
これを受け入れるとリエンツの税収基礎値が1下がり、その自治権も25%上昇してしまう代わりに、首都ウィーンの税収基礎値を1上げることとなる。
これを拒絶すると20年間の「農奴制の拡大」が起こり、安定度上昇コストが15%削減される一方で陸軍士気が10下がり、汚職が年間0.1上昇するペナルティが発生する。
拒絶することによるペナルティはそこまで痛くはない。
だが、首都ウィーンにはせっかく寺院も建設したばかりである。
大した税収を見込めないリエンツの税収基礎値ダウンや自治権拡大によるデメリットよりも、ウィーンの税収基礎値が多少なりとも増えるメリットを選びこれを承認。
リエンツの農民たちの多くがウィーンへと移住することとなった。
また、1460年にはヴェネツィア文化がオーストリアの受容文化、いわば「第二外国語」となった。
受容文化となる条件は、その文化を擁する州の合計収入が国全体の20%を超えることである。
ヴェネツィアの州は元々開発度が高かったため、たった2州を併合しただけで早くもその文化が帝国の受容文化となったのである。
これにより、ヴェネツィア(島)の収入がさらに増額。
生産力だけでなく、税収においてすら、帝国内最大の州となったのである。
次なる目標は、同じく開発度の高いブレシアの獲得。
だがその前に、フリードリヒは目の前に立ちはだかる、破門への対応を行っていかなければならない・・・。
(第3回に続く)
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