「われわれは常づね声を大にして、戦争は追剥だ、蛮行だ、戦慄だ、兄妹殺しだと叫ぶ。われわれは失神せずして血を見ることは出来ない。しかしだ、フランスやドイツが一度でもわれわれを凌辱したら最後、われわれの士気は忽ちにして揚がり、じつに心底からのウラーの叫びを上げて敵陣に突進するのだ。君らはわれわれの武器の上に神の祝福を祈り、われわれの勇敢は国を挙げての心からなる熱狂を喚び起こすだろう。ふたたびすなわち、われわれ及びわれわれの哲学よりも高所に在るのではないとしても、少なくともそんなものよりも力強い或る力が存在するんだ。われわれがそれを阻止することの出来ないのは、そらあの海の向うから湧いて来る黒雲をとどめる力がないのと同じなのだ。偽善はよし給え、その力に向って腹の中で舌を出すのはやめ給え、『なんて愚劣だ、なんて時代遅れだ、なんて聖書に悖ったことだ!』などとぶすくさ言うのはやめにし給え。それよりかその力をまともに直視して、その合理的な正当さを認めたまえ。そして例えばその力が、虚弱で瘰癧やみで淫蕩な種族の絶滅を欲するなら、曲解された福音書からでっち上げた君の丸薬や引用句でその邪魔をし給うな*1」
ロシア皇帝ニコライ1世が目指し、その「代弁者」ヴァシリー・ザヴォイコが拡張していった「貴族たちの帝国」。一度は自由主義者に唆された皇帝アレクサンドル2世の手によって破壊されかけたものの、これをザヴォイコの後継者たるウラジスラフ・クタイソフ元帥が新皇帝ミハイル4世と共にロシアに取り戻すことに成功した。
その後クタイソフ元帥は決して止まることなく祖国のために尽くし続け、やがて1884年、ついにその経済は世界の頂点に近い位置にまで登り詰めるに至った。
だが、それだけではいけなかった。
この国が、決して自由主義や民主主義に遅れを取ることなどない、偉大なる国家であることを証明しなければならない。
たとえその過程で、最愛の息子を亡くしたとしても――その足を、止めるわけにはいかない。
この世を去るにはまだ早い。
その人生の最後の仕上げとして、強大なる最強の敵、オーストリアを打ち倒し、帝国を世界最高の国とすることーーそれこそが、クタイソフ元帥の使命であった。
Victoria3ロシア・プレイレポート「大地主経済」最終回。
果たして貴族の帝国は20世紀においても生き残り、世界の経済を支配することはできるのか。
~ゲームルール~
- 地主勢力を政権内に維持し続ける。
- 「土地ベース課税」「農奴制」の変更は行わない。
- 知識人/労働者/実業家集団を政権内に入れない。
Ver.1.1.2(Earl Grey)
使用MOD
- Japanese Language Advanced Mod
- Dense Market Details
- Dense Trade Routes Tab
- Improved Building Grid
- More Spreadsheets
- Visual Methods
- Romantic Music
- Universal Names
- Historical Figuaes
- Visual Leaders
- ECCHI
- Visible Pop Needs
- Auto Convert Production Methods After Conquest And Annex
- Japonism
目次
前回はこちらから
開戦への準備
さて、方針としてオーストリア打倒を掲げたはいいものの、これまではこのオーストリアがプロイセン最大の友好国であり、陸続きということもあり、かなりの量の交易を行い続けてきた。
家具(3,510ユニット)や衣類(3,330ユニット)などはまあいいとして、弾丸(850ユニット)や戦列艦(522ユニット)、あるいは石炭(892ユニット)といった重要な戦略資源は早めにプロイセンやオスマン帝国など別の輸入先を見つけるか、最悪自給できるように整えていこう。
また、いよいよ南洋植民地でも採掘できるようになってきたゴムや燃油などの重要戦略資源をあえて大量にオーストリアに輸出し依存させたうえで、直前でこれを切って資材不足に陥らせることを狙う。もちろん、アヘンも。
また、技術獲得は軍事を優先で進めていく。オーストリアとは識字率が2倍以上離れており、週の獲得革新値は70ポイント近い差がついているため、一点突破で狙っていくしかない。
何しろ、1896年時点ですでにオーストリアは塹壕歩兵や自転車伝令を採用している一方、ロシアはまだ散兵のままであり、このまま勝負を挑んでも勝てるはずもない。
幸いにも軍事賃金を最高にしていることもあり、軍部の支持度が高く軍事技術獲得コスト-10%のボーナスが得られている。
塹壕歩兵を解禁する「塹壕作業」を最優先でアンロックしつつ、攻城砲を解禁しつつ「士気の減少-5.0%」というパッシブ効果も解禁する「戦闘作戦」、同じく「士気の減少-5.0%」に加えて「徴兵可能な大隊+20%」のパッシブ効果も解禁する「戦争プロパガンダ」、さらには「陸軍防御+30%」「士気の減少-5.0%」の2つのパッシブ効果を解禁する滅茶苦茶強い「縦深防御」くらいまでは狙っていきたい。
とくに設備適合のペナルティが発生してしまう製法解禁技術と比べ、パッシブ効果は戦争中でもすぐに効果が出せるため、開戦に間に合わなくても狙う価値があるのは嬉しい。
さらに、最も重要なものとして、外交戦略を行う。
すなわち、オーストリアを包囲するための仲間探し。お誂え向きに隣国の列強5位プロイセンと列強3位イタリアがオーストリアに敵対しているため、この2国に資金援助を行い義務を獲得しにかかる。それぞれ毎週10万ポンドくらい支出されるが、国庫歳入が毎週113万ポンドくらいあるロシアにとっては特に問題はない。
問題は、イギリスやフランス、スペインがオーストリアと仲が良いこと。
これはもしかしたら現実の世界の第一次世界大戦のような状況になるかも・・・わくわくしてきた。
そうやって10年ほど準備を整えていき・・・
1902年11月。
割と持った方だったこの世界のイギリスも、無事分裂。
革命を率いているのはフィッツクラレンス・・・ウィリアム4世の庶子一族が、まさかの王位簒奪クーデターを働くとは。
なお、国王派の方はすでにヴィクトリア女王から代替わりしていたようで、それが原因のクーデターかもしれない。
しかし男王になっても「女王陛下の政府」なんだね・・・。
これでイギリスは世界大戦から脱落・・・と思っていると今度は1903年の7月に北米大陸が大変なことに。
アメリカ合衆国からアメリカ自由州が独立し、さらにハドソン湾会社からもハドソン湾会社赤衛軍とかいうわけのわからないものができてそれがまたアメリカ合衆国とも対立するというカオスな事態に。
アメリカ合衆国もオーストリアと敵対していたので仲間に引き込もうとしていたが・・・これはさすがに無理だな。
ただ、フランスもここにちょっと絡んでいるようで、ある意味チャンス。
いよいよ・・・仕掛けるべき時が来た!
世界大戦
開戦まで
1904年1月1日。
史実において未曾有の大戦争が勃発する10年前、ミハイル4世が治めるロシア帝国は、国境沿いに位置するオーストリア領東ガリツィアについて、この地域の多数派を占めるウクライナ人の安全を保障するためという名目で、この地の割譲をオーストリアに迫った。
当然、オーストリアはこれを拒否。そしてフランスとスカンディナヴィア帝国がオーストリア側につきロシアと敵対。
一方のロシアは財政援助を行って貸しを得ていたプロイセン王国及びイタリア帝国を呼び込み、2陣営計6か国が睨み合う世界大戦の様相を呈してきた。
早速、各将軍の配備を進めていく。
まずは北東部のポーランド・ガリツィア戦線。オーストリア本土防衛の要であると共にロシア軍の戦略目標であるガリツィア・ハンガリーへの入り口となるため、最も重要な最前線である。
オーストリア軍もここに14万の兵を投入。ロシア軍はクタイソフ元帥にヴァシリー・イェゴロフ少将、そしてミハイル4世自ら兵を率いてここを防衛する。
また、国境線沿いの街には鉄道を大量に敷設し、インフラを整備。インフラ量が動員できる大隊数に影響するということなので、これを活用する。
次に北部ボヘミア戦線。プロイセンとオーストリアが国境を接する地点である。
ここにはオーストリア軍10万が展開。こちらもロシア軍最強の猛将(「攻撃戦略の達人」持ち)であるイヴァン・デミドフ大将にアンドレイ・カメンスキー少将といった内戦時代からのベテラン、そして「防衛戦略の達人」「塹壕ネズミ」などをもつ防衛巧者フョードル・フォン・モーレンハイム准将による合計12万の軍勢を配備する。
(のちに、フォン・モーレンハイム准将はスカンディナヴィア戦線へと移動させる)
最後に、北イタリア戦線にも兵を配備する。プロイセン軍もイタリア軍も、攻め込まれて早々に降伏されても困るため、前線維持のためにロシア軍も手助けしてやることにする。
こちらにはオーストリア軍14万。ロシア軍はクタイソフ元帥に次ぐ国民的英雄となっているコンスタンティン・イグナチェフ大将が総責任者となる。この戦線には、中国司令部を守るピョートル・クロパトキン中将、そして新設された東南アジア司令部から派遣されてきたポール・フォン・レンネンカンプ准将とが配備され、10万の兵で前線死守を命じられる。
オーストリアとフランスの市場では想定通りゴムやアヘンの不足が発生。多少なりとも、状況を有利にはしてくれるだろう。
全ての準備を整えた上で、1904年5月11日。墺仏斯三国協商vs露普伊三国同盟による、総勢190万の軍勢が衝突する史上最大規模の世界大戦が幕を開ける。
1904年の戦い
最初に動いたのはオーストリア軍であった。
5月20日。オーストリア北部、シュレージエン地方に位置するブレスラウ(ポーランド語でヴロツワフ)近郊の平野部にて、オーストリア軍のフェルディナンド・デッパート大将率いる6万弱の軍勢による侵攻を、デミドフ大将率いる10万の兵が押しとどめる。
同日、北イタリアでも戦端が開かれていた。ポー河を挟んでミラノの街へと銃撃を浴びせかけるロシア・イタリア同盟軍。
オーストリア軍のガーハルド・シュミットラー元帥率いる3万5千の部隊を、イグナチェフ大将は6万の軍でもって防備する。敵軍は物資不足によるペナルティのみならずなぜか設備適合によるペナルティ儲けており、しかも「視界不良」によるマイナス補正がついて攻撃力が落ち込んでいる。最終的なキルレシオは10倍近くに達した。
そして5月21日にはポーランド戦線でも動きが。ヴォルィーニ州にあるコーヴェリの町の近郊で、オーストリア軍のマーティン・ハイニシュ大将率いる5万6千の部隊に対し、ロシア軍は皇帝ミハイル4世自ら11万の兵を率いて応戦。
いずれも、塹壕兵や機関銃を導入したこの時代の戦闘らしく防衛側圧倒的有利であり、オーストリア軍はいたずらに死体の山を築き上げるだけとなった。
開戦から1ヵ月でロシア軍の戦死者数5,000人に対し、オーストリア軍の戦死者数は2万。戦争支持度の減りも、オーストリア軍の方が早い。優勢である。
逆に言えば、こちらも攻勢の機会を窺うのは難しいということ。
ボヘミア戦線でプロイセン軍のエリッヒ・ルーデンドルフ准将が果敢に攻め込もうとするが、10倍以上のオーストリア軍に取り囲まれ、壊滅状態。
小モルトケことヘルムート・フォン・モルトケ中将もフランス領ストラスブールに攻め込もうとするが、やはり機関銃も装備した徹底した塹壕防御線の前に歯が立たない様子を見せている。
一方、コルシカ島ではイタリア軍のエットーレ・バウザン元帥がフランス軍に対して優勢の構え。
さらに9月には突如、スカンディナヴィア帝国で革命が発生!
この革命軍を率いるのはファシストのノルウェー人、ベルント・ロフテスネス。
フランスと手を組んでロシアと破滅的な戦争を開始したベルナドッテ王家を倒し、真の「スカンディナヴィア人」による政府を樹立することを国民に呼びかけた。
「今こそ、フランス人君主を追放すべきときだ!」
これを受け、戦争どころではなくなったスカンディナヴィア王家は同盟国側への降伏を宣言。まずは敵の一角を切り崩すことに成功した。
だが同じころ、戦略上の要となるポーランド戦線では苦しい状況が生まれてもいた。
オーストリア軍のゲープハルト・ツェラー少将率いる13万の兵によって攻め込まれていたイェゴロフ少将の10万の軍が壊滅状態に。
2ヵ月近く続いた大激戦の末イェゴロフ少将は敗北し、オーストリア軍によってロシア領16地方を奪われる損害を招いてしまったのである。
さらに12月にはプロイセンでも革命が巻き起こる!
こちらは共産主義者による革命。フリードリヒ1世の時代から500年続いてきた、ホーエンツォレルン家による支配が今終わりを迎えようとしていた。
これを受けてプロイセンは降伏。ボヘミア戦線に配備されていた各将軍はポーランド戦線の防衛へと回す。
脇役は去り、戦いは列強上位4か国だけで繰り広げられることに。この時点でロシア率いる同盟国側は戦死者14万5千、オーストリア率いる連合国側は戦死者19万8千と、今のところは同盟国側優勢に推移していた。
こうして、開戦から最初の半年が過ぎ去っていった・・・。
1905年の戦い
新年早々、ポーランド戦線で防衛を任されているイェゴロフ中将がまたも敗北。ルブリンからワルシャワまで17地方を占拠される。
この敗北を受け、同じポーランド戦線で防衛についていた皇帝ミハイル4世自ら猛烈な剣幕で叱責を受けたイェゴロフ中将は、北イタリア戦線へと飛ばされることとなった。
その北イタリア戦線では、アルプス山中の戦いでイタリア軍のルイージ・カドルナ元帥がフランス軍のロバート・ショデ元帥を打ち破る活躍を見せている。
カドルナ元帥は元々10万の軍勢を率いており、一方のショデ元帥は17万の軍勢を率いていたが、先頭幅の狭い山中での戦いに持ち込むことで数の有利を打ち消した格好だ。
カドルナ元帥は史実においては悪評判の高い将軍ではあるようだが、この世界ではかなり頼れる存在である。
これらの敗北を受け、フランス国内では戦争からの早期離脱を求める声が上がっているようで、いつ降伏してもおかしくない状況となっている。
そしてポーランド戦線ではクタイソフ元帥がオーストリア軍を圧倒する防衛力を見せ、防衛線にもかかわらず1地方を取り返す大活躍。
さらに、北イタリア戦線に飛ばされたイェゴロフ中将も、こちらではしっかりと防衛を成功させている模様。ミハイル4世の喝が効いたかな?
そんなこんなで防衛を中心に優勢は優勢なのだが・・・
結局、ポーランド戦線を前に推し進めないことには、敵側の戦争支持度を0未満に持っていくことは出来ず、勝利はない。もちろんこちらも0未満にはならないため白紙和平に持っていくことは十分可能だが、それでは何の意味もない!
攻勢に出ないといけない・・・たとえ、多くの被害が出たとしても。
10月にポーランド戦線にてボヘミア戦線から移動してきた「ロシア軍最高の猛将」イヴァン・デミドフ大将による攻勢を仕掛けるが、やはり厳しい。
それでも10月25日にはフランスが降伏。
さらに北イタリア戦線ではイェゴロフ中将が今度はオーストリア軍相手に攻勢有利に出ている。
この報せを受けて、ミハイル4世は興奮した様子で彼を讃える言葉を繰り返したという。名誉挽回である。
まあ、そもそも彼は「攻撃戦略の達人」であり、こちらの運用の問題だったと思われるが・・・。
しかしこの北イタリアにおける善戦に水を差すような事態が。
なんと、「アフリカの角」においてオーストリア海軍がロシア軍補給船団を襲撃。
これにより、華南司令部とインドネシア司令部から派遣されていたピョートル・クロパトキン大将およびポール・フォン・レンネンカンプ少将の部隊が補給困難に陥る。
戦いの行方はなおも混沌としており、どう決着がつくのか予想がつかない・・・そんな中で、戦争は2年目を終えようとしていた。
1906年 -奇跡の年-
なんとか戦略目標を達成すべく、果敢にポーランド戦線で敵軍に攻めかかるロシア軍。
1月末にはポーランド戦線に舞い戻ったイェゴロフ中将が挑みかかるも、そううまくはいかなかった。
やはり戦局の打開は上陸戦にしかないのか・・?
3月にはロマノフ大公率いる黒海艦隊でダルマチア地方への上陸作戦を仕掛ける。
中央地中海での海戦で、オーストリア海軍のジョセフ・グロート提督と渡り合う。
オーストリア軍はすでに駆逐艦、弩級戦艦などを導入しており、質においては完全な劣勢ではあるものの、ロマノフ大公は数を揃えたうえでなんとかこれを撃破。
5月にはダルマチアに上陸成功。
しかしやはり主戦場から距離が近すぎることもあり、ほとんど占領地を広げることもできないうちに敵の主戦力がやってきてしまう。
仕方なく、このダルマチア戦線をクタイソフ元帥に任せ、イグナチェフ大将は再びロマノフ大公に導かれて今度はイストリアへの上陸作戦を敢行。
しかし、上陸戦のためにロシア海軍が留守を作っている間に、地中海で次々と海軍襲撃を受けてしまう。
結果、ダルマチアを守るクタイソフ元帥も、イストリア上陸後のイグナチェフ大将も、補給を十分に受けられず苦しい戦いを強いられてしまう。
このままではせっかく掴み取ったダルマチアとイストリアの橋頭保も、失われてしまう・・・。
結局、ダメなのか・・?
打開できないまま、白紙和平に持ち込まれてしまうのか・・・?
しかし、10月17日。
ふと、ポーランド戦線の敵兵の動きが停まった、と思ったら・・・
ポーランド戦線から、敵兵がすべていなくなっている!!!!
どうやら、イストリア戦線にイタリア軍も全兵力を投入してきたのを見て、オーストリア軍も全勢力をそこに注ぎ込んできたようだ。
明らかにAIのミスだが、これは千載一遇のチャンス!
10月24日。
ポーランド戦線の全勢力で攻勢を仕掛け、じわじわと占領地を広げていく。
ハンガリー開放を目標に掲げているため、その支配領域すべてにおいて占領地を持たないと、0未満にはできない。まだまだ侵攻が必要だ。
10月31日。これまで耐え抜いてきてくれたイタリアがついに降伏。
もはやダルマチア、イストリアにはクタイソフ元帥とイグナチェフ大将しか残っていない。
11月10日。たった一人残るイグナチェフ大将は、イストリア占領地を守るべく決死の防衛線に挑む。
補給もままならない中、意地だけでこの防衛線を守り抜いて見せる。
11月22日。
クロアチアでも、クタイソフ元帥が、数も少なく戦闘開始段階での士気も低い中で、それでも死守を徹底する。
今や、この2人が守るこの占領地が勝利への唯一の道である。
このいずれかだけでも制圧されてしまえば、再びポーランド戦線にオーストリアの精鋭たちが舞い戻ってしまうかもしれない。
その命に代えても、絶対に死守しなければならない!
11月29日。
さらに輸送船団を潰しにかかろうとするオーストリア海軍を、ロマノフ大公が体を張って守りにかかる。
イグナチェフ、クタイソフ、アレクセイ大公・・・旧時代の英雄たちが、新時代の若者たちのための未来をかけた、決死の戦いに身を投じていく。
まさに、1906年は絶望の状況からの一転攻勢を決めた「奇跡の年」。
しかしその奇跡を確かな結果に変えるべく――1907年、最後の瞬間に向けた戦いが進行していく。
1907年 -終戦-
1907年1月30日。
イグナチェフ大将とクタイソフ元帥が敵の全軍を引き付けている間、無人の荒野を駆け抜けていくロシア軍40万の兵たち。
ハンガリー領への侵攻も始まったことで、いよいよ敵の戦争支持度も0%を下回り始めた。
2月26日はオーストリア最大の都市ウィーンも陥落し、クロアチア・イストリア遠征軍の補給も回復。勝利は時間の問題となった。
そして4月25日。
3年にわたり続き、19万ものロシア人の戦死者、損耗を合わせると55万強となる死者を生み出し、32万ものオーストリア人の戦死者、損耗によるものを合わせると70万強となる死者を生み出した、かつてない大戦争は終わりを告げた。
賠償金は得られなかった代わりに、大量の石油を産出する東西ガリツィアを併合したほか、オーストリア経済の2割強を確保するハンガリーを独立国として解放。
これによりロシアは、GDPでも威信ランキングでも世界の頂点に立つ、最高の国家であることを証明したのである。
長い、長い戦いが終わった・・・。
ウラジスラフ・クタイソフ元帥が、ヴァシリー・ザヴォイコ提督から継承したこの「貴族の帝国」を、彼はついに頂点にまで君臨させることができたのである。
彼は執務室で一人、今は亡き息子のことを思いながら、彼が好んでいたロシア産ワインを口にしながら、深い、深い眠りへとついていった。
エピローグ
1909年10月4日。
ザヴォイコ提督の愛弟子であり、クタイソフ元帥と共に「帝国」の未来に向けて歩んできた盟友アレクセイ大公が、77歳でこの世を去った。
さらに1912年1月20日には、世界大戦で最後までイストリア戦線を守り抜き、クタイソフ元帥の後継者と目されていた英雄コンスタンティン・イグナチェフが、67歳の若さで息を引き取った。
自分よりも若く有望な男たちが次々と先に逝ってしまう中、80歳を超えたクタイソフ元帥はかつてとは打って変わって無口になりながらも、しかし慈愛に満ちた目でロシア臣民たちを見つめ、その行く末の幸福を願い続けていた。
今や、彼にとって不安は少ない。
国王ミハイル4世は先の大戦において自ら陣頭指揮を執ったうえで勝利を手に入れたことで国民人気は自身以上に絶大なものとなり、またその政策もザヴォイコ提督からクタイソフ元帥に受け継がれた方針を堅持することは間違いなさそうだ。
その子アレクセイも、しっかりと地主層が思想的背景についており、かつてのアレクサンドル2世のような「間違い」を犯すことはなさそうだ。
ただ、やや野心的なところが時折垣間見えるのが、少し不安ではあるが・・・。
いずれにせよ、1916年の段階でロシアは紛うことなき世界一の位置につけている。
この帝国はきっと、これからも永遠に在り続けることだろう――。
最後に、1916年のロシアの姿を見ていきたいと思う。
まずは威信ランキング。最後の最後で復活してきたオーストリアに1位の座を奪われたと思っていたが、公務員の給与を普通に戻したらしっかりと追い抜いて1位に返り咲いた。GDPでは2倍近い差をつけ、圧倒的である。そして、独立させたハンガリーが列強5位にまで登り詰めている。
人口は最終的には東インド会社も抜いて2億4,600万人に。戦争による拡張はあったものの、移民を一切呼び込まない自然増のみでこの数字を達成した。現在、年242万人増えている。
収支は以下の通り。
関税による収入が150万ポンド/週に達しており、収入全体の3分の2を占めるという恐ろしい状態に。税率は最低にしているが、普通にあげても10万ポンドしか変わらないのであまり意味がない。戦争してこれなので、自由市場意味ある? 次回はそのあたりの検証をしてみたいところ。
なお、関税の内訳はこんな感じ。
大量の畑で使用する肥料の輸入が27万ポンドと最高額。4か国から32,500ユニットを輸入している。めちゃくちゃ余っている商品なのでこれができる。大農業経済の思わぬ副産物である。
発動機・家具・衣類・磁器・工具の輸入も続いての高値。このあたりの工業製品を一切製造せず輸入任せのこの経済。まあ、今回の世界はヨーロッパの激動が比較的小さかったのは要因かもしれないが・・・。
なお、交易ルート維持のために支払っている行政力は1,785。
まあ、資金は無尽蔵にあるので問題ないし、ボトルネックはむしろ輸送船団の数。78,184の輸送船団を走らせているが、まだ足りないくらい。清とドイツと陸続きという恵まれたロシアでもこの状況である。
そんな大地主経済。
最も特徴的とも言える人口構成がこんな感じ。
重要主義で交易中心経済をしている関係上、交易所(商人ギルド)の所有者である商店主が力をつけがちで、一時期は農家を上回る政治力を持っていたので慌てて農地を大量生産していった。結果、百姓の数は3割近くにまで減り、1位の座を奪われてしまったのは残念。あと、貴族は結局商店主を追い抜けず。
それでも農家2,000万人、国内最大の政治力というのは結構な達成ではないだろうか。大農家経済。
国内の農地の数はこんな感じ。
商品作物にもかなり注力していた。
なお、建設局は資材の関係上、「鉄骨施設」に固定していた。その代わり、130個建てており、752の建設力を生み出している。
文化・宗教状況はこんな感じ。
人口では漢民族が上だが、福建の発展と直轄化によって閩(ビン)族の政治力が漢民族を上回った。また、白ロシア(ベラルーシ)人は漢民族よりも低い影響力に留まることに。
最後に政治状況。君主制・専制政治・国民至上・国教・土地ベース課税・農奴制を維持したまさに大地主経済。
地主の影響力は20世紀でもなお35.7%を維持しており、農村民がついで29.65。そして信者(聖職者階級)が12.8%という、まさに旧時代国家である。これで世界一を取れたのだから文句はあるまい。
なお、何やら赤い人たちが暗躍しているようだが・・・こんな地獄のような貴族帝国で、共産主義革命を起こせるものなら起こして見せてほしいところ。労働組合の影響力はわずか2.3%しかないですよ?
彼らがしっかりと活躍する「普通」のロシアプレイはこちらから!
なお、これらのキャラクターはトルストイや前回のムッソリーニなどと共に、MODの「ECCHI(https://steamcommunity.com/sharedfiles/filedetails/?id=2882342752)」で追加されているキャラクターである。
その他にも今回は出てこなかったフョードル・ドストエフスキーや、出てきたけど数年ですぐ死んでしまったグレゴリー・ラスプーチン、他国ではチャーチルやガンディー、アインシュタイン、ノーベル、ヒ〇ラーなんかもいるので、史実キャラが出てきて興奮するタイプの人は導入をお勧めする。
と、言ったところで今回は終了。
まだ1916年だが目標は達成したし、教皇領編のときのように他に達成したい目標があるわけではないため、ここで筆を置きたいと思う。
意外と楽しかったし学べるところも多かったが、さすがにそろそろ、縛りプレイはうんざりしてきている。
次は、もっと本来のVictoria3が意図しているプレイングを伸び伸びとしていきたいと思う。
それでは、次回もよろしくお願いします。
Кутайсов и матушка Россия, желаю вам вечного процветания. Покойся с миром.
今回のシリーズはこちらから
【Victoria3】大地主経済 第1回 農業帝国への道(1836年~1856年) - リストリー・ノーツ
【Victoria3】大地主経済 第2回 農業経済の隆盛とストレルカ戦争あるいはザヴォイコ氏戦争(1856年~1876年) - リストリー・ノーツ
【Victoria3】大地主経済 第3回 内戦、そして止まらぬ戦争の20年(1876年~1896年) - リストリー・ノーツ
これまでのシリーズはこちらから
*1:アントン・チェーホフ『決闘』、神西清訳。