最初にその街を建てたのはオランダ人であった。
オランダ東インド会社の艦隊司令官ヤン・ファン・リーベックによって1652年に建設されたその街は、内陸部への開拓の前哨地として発展し、オランダ系移民(ボーア人)たちは先住のコイコイ人たちを迫害しながらその勢力圏を南アフリカ全域に広げていった。
状況が変わったのは18世紀末。フランス革命の余波を受け、1795年にイギリス艦隊がケープタウンに上陸し、これを制圧。1815年のウィーン議定書によってケープタウンは正式にイギリスの植民地となった。
イギリス政府は植民地でのオランダ語の使用を禁じ、奴隷制度も廃止。これにより黒人奴隷を活用した大農園経営を経済の主体としていたボーア人たちは不満を持ち、新天地を求めて移動するグレート・トレックを開始した。
イングランド人の植民地として再スタートしたケープ植民地。
あくまでも本国政府の傀儡国として、自由は少なく、国力はまだまだ低い。
ここから産業革命を進め、成長し、そしてやがて南アフリカ国家として独立する日は来るのだろうか。
そしてそのとき、この国は果たしてどのような国となっているのか。
Victoria3 プレイレポート第11弾。のちの南アフリカことケープ植民地でやっていこう。
※最序盤以外はオール物語形式となります。
目次
後編はこちらから
これまでのプレイレポートはこちらから
パクス・ネーエルランディカ:オランダで「大蘭帝国」成立を目指す。
強AI設定で遊ぶプロイセンプレイ:AI経済強化MOD「Abeeld's Revision of AI」導入&「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」、「AIの好戦性」を「高い」に設定
金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り
アンケートを作りました! 今後の方向性を決める上でも、お気に入りのシリーズへの投票や感想などぜひお願いします!
エドムンド・フェインの改革
1836年当時の植民地総督はサー・ベンジャミン・ダーバン。ヘイルズワース生まれの彼は10代の頃に英国陸軍に入隊し、半島戦争で活躍。30代後半から各地の植民地総督を歴任し、1834年からはこのケープ植民地総督並びに最高司令官に就任した。
政体は最初から大統領共和制。但し選挙制度はまだなく専制政治。他の後進国家同様に地主の影響力が最も強いが君主制も奴隷制も伝統主義も世襲制の官僚もないため影響力は低め。
今回は初期の聖公会が「好戦主義者」だったこともあり、地主・聖公会・軍部の保守連立政権を形成し、早速「植民地搾取」の法律を通しにかかる。
今回のプレイでは海外植民地を作っていくつもりはないのだが、北部のグリカランドやツワナ領北ケープが北ケープ州の分割ステートとして未入植状態でありマラリアもないため、少しずつ入植を開始していく。
技術は時代Ⅰはすべて埋まっており承認国のため伝播も早い。この辺りは前回のオランダ同様、とてもやりやすい。
但し財政はかなり厳しく、イギリスの傀儡国のため上納金が非常に重い。
正当性には注意しつつ高レベル課税と消費税に頼りながら、建設局も1個か2個で我慢しながら細々と開発を進めていくほかない。
とにかく最初はスローペース。
だが本当の後進国と違い、ちょっと開発するだけですぐさま地主が弱体化し実業家集団の影響力が上がっていくので、あとは地主階級のベンジャミン・ダーバンが死亡し、総督が代替わりするのを待つだけである。
そして1852年6月26日。
74歳になっていたダーバン卿がついに死亡。
ここから物語が始まる。
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1852年11月1日。
エドムンド・フェインは、ケープタウンの港に着くと、船の甲板に立って周囲を見渡した。夏の始まりを感じさせる日差しに照らされて、白い帆や鮮やかな旗が揺れる賑やかな場所だった。
港には多くの人々が集まっていた。先のアヘン戦争の英雄、そしてこの植民地の新しい総督を一目見ようと、植民地中の人が集まってきたかのような人の数であった。
フェインはその中から、自分を迎えに来てくれているはずの男の姿を探していた。
男の名はアベル・マクレガン。自分が到着するまでの間、総督代理を務めていたという人物である。この植民地の実業界を実質的に取り仕切っている人物と聞いているが、その顔も年の頃も分かっていない。
やがて、港の入り口から馬車がやってきた。馬車から降りてきたのは黒い上着とズボンに白いシャツとネクタイを付けた紳士たちであり、彼らがマクレガン一行なのだということはすぐ分かった。
しかしその中心に立つリーダー格の男が自分が想像していたよりもずっと若々しい顔立ちをしていることにフェインは驚いた。
「ようこそケープタウンへ。長旅お疲れでしょう。まずは馬車にお乗りください。官邸までお連れいたします」
男と共に馬車に乗り込み、出発したことを確認すると、フェインは彼に尋ねた。
「失礼ながら、マクレガンさんはお幾つになられて?」
「今年で30ですね。それでも、この街には10年以上過ごしており、この街のことは何でも知っています。ぜひ頼ってください」
30。あまりの事実にフェインは驚きを隠せなかったが、落ち着いた様子のマクレガンの話ぶりは妙に納得させられるものがあった。
本国の植民地大臣ヘンリー・グレイ伯爵に与えられたフェインの任務は、前任のダーバン卿が長い統治期間の間に構築していた既得権益の解体と適切な徴税制度の確立であった。
マクレガンもまた、その制度改革が彼の支持基盤である資本家層にとっても利益があることをいち早く理解し、全面的な協力を約束してくれた。彼らにとってもダーバン卿の政策は障害であり、新しい総督がその政策を踏襲することを恐れていたようだった。
そして1853年12月23日に「人頭課税」法案が成立。これまでの土地所有者たちが優遇される税制度が改められ、広く平等に課税されることで植民地政府は大幅な税収増を得ることができるようになった。
この税収を活用し、フェインは消費税をあらかた整理したうえでケープタウン周辺とと東ケープ州に「製造業の奨励」、鉄鉱山のある北ケープ州には「資源産業の奨励」の布告を出し、産業の発展と国民生活の改善を図った。
確実に豊かになっていくケープタウン植民地には、欧州からも数多くの移民が集まり、少しずつ人口は増えていった。
一方で既存のプロテスタント中心の社会に、ベルギーやアイルランドからのカトリック移民が入り込んできたことで、いくつかトラブルも巻き起こるようになっていた。
この事態に対し、マクレガンはフェインにとある提案を行った。
「閣下、ケープタウンのカトリック教会でまた暴動が発生しました。アイルランド移民が数名、犠牲になったようです」
「聞いたよ。先日も彼らが経営する商店が滅茶苦茶に破壊されたらしい。現地警察も役に立たないし、歯止めが効かないようだ」
「閣下、これは由々しき事態です。本国ではとっくにカトリック解放法が制定されているにも関わらず、この地ではそれが不徹底に終わっている」
「別段、彼らに公職を禁じているわけではないし、法律には則って対処している。プロテスタント側の気持ちも分からんではない。外からやってきたものは、この土地のルールに従わなければならん」
「いえ、カトリック解放法の意義は信教の自由にあります。言ってしまえば、カトリックであろうと国教会であろうと違いはないのです。正しく近代の民であろうとすれば、信仰ではなく理性に従い、科学に基づいて国家の発展を目指すべきです」
マクレガンのあまりの物言いにフェインはしばし絶句した。マクレガンはそれを見て、目の前の男が保守的な人物であることに思い至り、慌てて言い直す。
「それはともかく、今のような状態が続けば、今後の移民増加に支障を来たします。このケープ植民地は他のインドやカナダと違って人口の面では非常に問題を抱えており、成長のボトルネックとなることは間違いありません。早めに差別を少なくし、自由な社会を作っていくことが、ひいては女王陛下の利益につながるのです」
女王陛下の、と言われれば「王党派」のフェインも文句は言えなかった。心情的には反発するところはあれど、マクレガンの言い分も最もであった。
ケープタウン大主教の猛反発は避けられないだろうが・・・フェインは最終的にマクレガンの献策を容れ、その支持のもと1855年4月9日に「信条の自由」を制定した。
さらに「専門的な警察機構」も制定。これで保守的な地主層の影響下にあり対カトリック犯罪への捜査には全く役に立たなかった地元警察を解散させ、より総督の意図に沿った治安維持が行われるようになった。
少しずつ、旧来の地主層の権力の解体という目的を達成していくウェイン総督。
そしてついに彼は、より決定的な改革に着手することとなった。
それはすなわち、選挙と議会の導入である。フェインは基本的には保守的な傾向にあるが、彼を総督に任命したヘンリー・グレイ伯爵のことは深く尊敬しており、彼は「植民地行政はイギリス本国のためではなく現地民の利益のために行われるべきである」と公言した最初の大臣であった。
すでにグレイ伯爵を含む内閣は解散しており、彼自身も半ば隠居状態となってしまったが、フェインはグレイ伯爵の意志を受け継ぐつもりでいた。
もちろんマクレガン率いる実業家集団も、そして近年力を付けてきている学者や公務員を中心とした知識人集団も、この動きに強く賛同。
選挙制度の導入と実施に関しての法整備と物理的な準備について、多くの植民地市民たちの協力を得て前進させることに成功した。
1861年5月1日には最初の選挙が行われ、フェインの支持する保守党が勝利した。
その後も自由貿易法の成立や公立学校法の制定など、先進的な改革を矢継ぎ早に成し遂げていくフェインとマクレガン。
ケープ植民地の自治の拡大と発展に大きく貢献したということで彼は「ケープタウンの父」と称賛され、ポート・エリザベスには彼の名にちなんだ「フェイン・カレッジ」という名の大学が建てられたり、東ケープには「フェインタウン」と呼ばれる街そのものが、そしてケープタウン内の街路の1つには「フェインストリート」という名が与えられたりもした。
そんな彼も、60を超える頃から次第に体力的な衰えを感じ始め、先が長くないことを理解し始めていた。
そして1869年4月30日。
17年間に渡りケープ植民地の統治を任され、その改革に尽力した英雄フェインは天に召された。
物語は次の段階へと移っていく。
「責任ある政府」運動
「あれは何だ?」
1869年9月10日。
新たにケープ植民地総督に任命されたアレクサンダー・ロウサー大佐を港で出迎え、官邸に向っていた途中、ケープタウンの中央広場に大勢の人々が集まっているのを目にしたロウサーが、隣のマクレガンに尋ねた。
「あれはナサニエル・ステープルトンの集会ですね。自由党の党首ですが、喜望峰議会の自治権の更なる拡大を主張している一派です。平和主義を標榜していますが、実態は非常に暴力的で危険な連中です」
「止めてくれ」
ロウサーの言葉に、御者は一瞬迷いを見せたあと、馬車をゆっくりと止めた。揺れる車内でマクレガンは不安そうにロウサーを見つめる。
「まさか、話を聞きに行くつもりですか?」
「いや、聞くだけじゃなく、話をしようと思ってね」
「必要ありません。彼らは私たちの敵ですよ」
「いや、敵ではない。ただ、少し異なる考えを持っているだけだ。どのみち、彼らと敵対しているばかりでは、今後の政策に悪影響をもたらすだろう? あれだけの人気ぶりを見ていれば、市民がどちらの味方なのかははっきりと分かる」
しかし、と言いかけてマクレガンは口を閉ざす。すでにロウサーは馬車から身を乗り出しており、何を言っても聞かないであろうことは明白だった。
マクレガンは首を振り、諦めて彼もロウサーの後について広場へと向かった。
「おや、見てください! ここに新しい総督閣下がいらっしゃいました! アレクサンダー・ロウサー大佐です。彼も私たちの声を聴きに来てくれたのでしょうか? それとも、私たちを黙らせるために来たのでしょうか?」
ステープルトンはマクレガンたちの姿を見つけると大袈裟に身振りで示しながら聴衆に語り掛ける。どのように振る舞えば人びとを巻き込めるのか、良く知っている話し方であった。
ステープルトンの周囲を固めていた聴衆は疑わし気な目つきで歩いてくるロウサーを見つめていた。17年前とは全く違うな、とマクレガンは思った。
しかし当のロウサーは気にも留めていない様子であった。
「こんにちは、ステープルトンさん。あなたの演説を聞きました。あなたはこの植民地の自由を願っている。私も同じ意見です」
「同じ意見? しかし貴方は本国政府の代表でしょう? 本国政府は我々のことを、自分たちの利益を集めるための農場としか思っていない。違いますか?」
「中にはそういう人がいるのも事実でしょう。しかし全員がそうではありません。私の前任のフェイン中将がそうであったように」
「10年前の憲法のことを言っているのであれば、それは帝国派の多くが持つ誤解です。確かに議会はできたが、それは形ばかりのものに過ぎません。未だに行政権は本国政府とその代表者たる貴方たち総督の手にあり、『責任ある政府』はケープには存在しません。税制改革だって同様です。確かに古い貴族たちから特権は奪ったかもしれないが、今でもなお、一部の資本家たちに有利な税制度が残っており、全く公平ではありません」
言いながら、ステープルトンはちらりとマクレガンの方を向いた。それに合わせて聴衆の視線もまた、彼に集まったような気がして、マクレガンはより一層居心地が悪くなった。
「貴方の言う通りです、ステープルトン議員。まだまだこの植民地には改革が必要だ。そしてそれに協力してくれる人たちも。私は自由と正義を象徴する英国政府の代表として、この植民地の平和と発展に責任を持つことを約束します。もちろん、あなたの言う議会の権利拡大と税制改革も含めて。その具体的なプランを、共に建てていきましょう。そのことを確認するために、私はここにやってきたのです」
そう言ってロウサーは右手を差し出した。その表情には全く敵意を感じさせない笑顔が作られていた。
ステープルトンは一瞬迷ったような表情を見せたあと、すぐにその顔に笑顔を浮かべ、同様に右手を差し出した。
「そうですか。私は閣下を誤解しておりました。それであれば、共に闘いましょう。この植民地の将来に渡る自由と発展のために。歓迎いたします、総督閣下」
周囲を取り囲んでいた聴衆がわっと歓声を上げ、次々にステープルトンの、さらにはロウサーの名前も叫び、彼らを讃え始めた。先ほどまでの敵意がまるで夢か何かであったかのように。
果たして利用したのか、されたのか。
マクレガンは目の前の光景を見ながら、少なくとも自分たちの時代が終わってしまったことだけは理解していた。
ロウサーは有言実行の男であった。
議会で多数派を占めるステープルトンら自由党の党員たちと交流を重ね、最終的に1873年9月22日、政府が議会に対して責任を持つことを定めた「普通選挙」法を制定した。
その後に行われた選挙では自由党が圧勝。マクレガン率いる自由貿易党はその半分程度の得票しか得られず、明らかな勢力の後退が見られた。
この頃にはすでに、ロウサーの近くにはマクレガンとその一派の姿は見られなくなっており、ステープルトンら自由主義勢力ばかりが集まっていたという。
そしてこの選挙結果を受けて、ステープルトンはケープ植民地初代「首相」となった。
ステープルトンは自らが推し進めたこの「責任ある政府」運動の成功に満足していた。
だがこの成功の背景には彼とロウサーだけでなく、もう1人の主役の存在が欠かせなかった。
次はその男の物語を語ろう。新しい時代の中心となる男だ。
掘り削る者たち
ルイス・スミットは1842年5月8日、ポート・エリザベス郊外の綿花農園を営む父の下で生まれた。彼の父は古くからのオランダ系移民の子孫で、母はピューリタンの子孫だった。
彼の父は仲間のボーア人と共に「グレート・トレック」を行うことを選ばなかった。彼はこの土地を愛しており、この豊かな自然をやがて生まれてくる我が子にも味わせてやりたかったのだ。
しかしイギリス政府は国内に残るボーア人たちに対して英語を強制し、奴隷制度を廃止し、やがては彼らの持つ特権の数々を剥奪していった。そして産業革命が進んだ本国の安い綿織物が市場に入ってくるようになると、彼らは農園を畳む他なくなり、スミット父子は新しく開鉱された石炭鉱山に働きに出るようになった。
しかし、その鉱山における労働環境は実に劣悪であった。度々事故が起こり、その度に多くの子どもたちを含む労働者たちが命を失った。
しかし当時の政府の保障は十分ではなく、それどころか実業家集団寄りだった当時の政府はこれを黙殺。大した対策もなく、ただ被害だけが拡大していった。
20代になったルイスは鉱山の仲間たちと共に、この状況を変えるための労働者たちの連帯組織を作った。彼らはそれを「掘削党(Diggers)」と呼んだ。それは実際の自分達の境遇を表しているものであり、この労働者たちの苦しみという「岩盤」を掘り開けるという意志の表れであり、そして17世紀のイングランドで僅かの期間存在した農業社会主義グループの名前を継承したものでもあった。彼はその存在を敬虔なピューリタンであった母から聞いて知っていたのだ。
掘削党は最初こそ鉱山労働者のみを対象としたグループだったが、やがてすぐに植民地内で苦境にあえぐその他の多くの労働者たちを巻き込み、一大運動へと発展していった。
ボーア人のルイスを指導者に据えるこのグループは隣国オレンジ自由国やトランスヴァール共和国の労働者たちとも連帯し、その影響力は日増しに強くなりつつあった。
そして1873年。
4年前に就任した新総督アレクサンダー・ロウサーは自由党党首ナサニエル・ステープルトンと共にルイスたちに接触してきた。
曰く、本国からの自治を確立するための憲法改正に協力してほしいと。
30になっていたルイスはこれを承諾。但し、選挙権における財産制限を撤廃し、自分達の意見が政治に反映される状況を認めてくれるのであれば、という条件付きで。
ロウサーとステープルトンはこれを了承し、そして1873年9月22日。ルイス率いる掘削党のメンバーも協力し、ついに普通選挙法が成立した。
そしてこの権利拡大をもって、ルイスは正式に政党としての掘削党の立ち上げを進める。
当初はわずかでしかなかった彼らの勢力も徐々に拡大していき、1877年の選挙では自由党に迫るほどの得票数を得るに至った。
ステープルトンはこの掘削党と連立を組み、さらなる改革を進めていくこととなる。
1879年3月9日に「規制機関」設立。これでルイスは懸案であった炭鉱労働者たちの安全を幾分保障することができるようになった。
一方で自由党の望む法案成立にも協力。1880年1月20日には「言論の保護」法を制定。本国以上に先進的で自由な法制度を整えていく。
そして両政党はついに、その最終目標たる税制の改革に取り組むことに。
ただ、実質的な増税となるこの法改正に対し、反発する勢力も多く、それは掘削党の中でも例外はなかった。
さらに実業家たちを中心に現行の税制の維持を目的とする派閥が「どうせならすべての課税を廃止するが良い!それが市民にとって最も幸せなことなのだから!」と非現実的な主張を行い純粋な無党派層たちを焚き付け、激しい運動を展開している。
この状況を落ち着かせるために、自由党・掘削党政権は一時的な減税を決定。
そういった努力もあって、1882年8月15日「比例課税」法が成立。
その収入に応じて傾斜的に課税額が変わっていく方式で、ロウサーがステープルトンに約束した「公平な税制」も実現されることとなった。
すべてがうまくいっているように感じられていた。
その戦争が巻き起こるまでは。
アフリカーナーのために
1883年春。兼ねてより高まりつつあった英仏間の緊張は、このとき頂点を迎えようとしていた。
舞台となったのはアフリカ。当時、フランスはアフリカの大西洋岸(ダカール)から象牙海岸、そして南カメルーンへと至るギニア湾沿岸部を勢力圏に治めていた。
一方で彼らは当時の最重要商品の1つであった象牙を求め、内陸部、とくに交易の盛んなニジェール川流域を何としてでも確保したいと考えていた。
対する英国は同じく大陸西岸からサヘル(サハラ砂漠南端)を通り東海岸のケニアまでを繋げる横断ルートの完成を目指しており、彼らにとってもニジェール川流域は重要な戦略的地域であった。
この両国の思惑がニジェール川流域で激しくぶつかり合うのは当然の成り行きであった。
当時すでにこの地域は複雑に分割されており、一触即発の状態であったのだから。
きっかけは両国の勢力圏のちょうど境目に存在していたオニチャという町。
ニジェール川東岸に位置するこの町はニジェール河川交易の中心となる町であり、フランスにとっても上流域へと進出する上での欠かせない戦略拠点であり、イギリスにとっても河口部のポートハーコートをフランスに奪われてしまっている以上、何が何でも確保する必要のある町であった。
1883年4月28日。
この町を支配するイボ人のオビ(王)が、自由貿易を求めるフランスの商人一行を虐殺するという事件が発生する。生き延びた二人のフランス人がポートハーコートに逃げ込むと、現地のフランス軍はただちに「報復」のための軍を派遣することを決めた。
一方、オビとその一派はニジェール川対岸のベナンシティを支配するイギリスに助けを求め、これを受けて当地の「保護」を名目としたイギリス現地軍が川を越えてオニチャの町に入城した。
5月16日。
オニチャ郊外の平原地帯で、英仏両軍が睨み合った。
開戦の危機に瀕し、ケープ植民地に対しても本国から動員の令が下った。
ロウサー総督はただちに予備役を含めた3万の兵を組織し、ボーア人の勇敢なる将軍ヘルマヌス・シェーマン准将に率いさせて派遣した。
そして彼らは誰一人帰ってこなかった。
ロシア軍をも味方につけたフランス軍は瞬く間にニジェール川一帯を制圧し、英軍はベニンシティでの籠城戦を展開するも、翌年春にはこれも陥落。
この籠城戦に参加していたシェーマン准将麾下3万の「ケープ植民地人」は全滅し、わずかばかりの遺品のみが遺族たちのもとに届く結果となってしまった。
「どうしてこんなことが起きたのか、それを皆は知りたがっているんです。聞けば、ニジェールの戦いに参加したのはほとんどが現地民や我々アフリカーナーばかりで、本国人はほとんど参加していなかったというじゃないですか。フランス軍は30万もの兵を動員したっていうのに」
珍しく感情的になったルイス・スミットが、総督執務室の机に座るロウサーに対し激しくまくし立てている。
「我々がボーア人だからですか? アフリカーナーは、結局本国にとっては他のアフリカ人たちと同じ使い捨てだということですかね?」
アフリカーナー、ここ最近、スミットとその周辺はよくその言葉を使うようになっている。ボーアもアフリカーナーもどちらも同じものを指しているが、自虐的な感情を混ぜるときには(ブールでもなく)ボーアと呼び、ある一定の誇りをもって自称するときにはアフリカーナーと呼ぶ傾向があることをロウサーは気付いていた。
「もちろん、我々だけでなく、このケープのイングランド人も多く動員され死んでいったことは知っています。だからこそ、この南アフリカに住むイングランド人とアフリカーナーの両方が手を取り合って、ことを始めなければいけないと思っているんです」
「始める、とは?」
それまで、重苦しい表情でひたすら聞き役に徹していたロウサーは、そこで初めて口を挟んだ。
「もちろん・・・イギリスからの独立です。我々『ケープ人』だけで国を作る必要がある、ということです」
二人のやり取りを部屋の隅で聞いていたナサニエル・ステープルトン首相も、固唾を呑んだ。もちろん彼は事前にスミットの考えを聞いてはいたが、それに対してロウサーがどんな反応をするのかは、予想がつかなかった。言うべきではない、ともスミットに伝えていたが、『我々はもう、運命共同体です。隠し事はするべきではない』と言って聞かなかった。ピューリタンらしい頑固さであった。
「それを私に言えばどうなるか、分かっていますか? 私はあくまでも本国の代表としてこの場にいるのであって、本質的に『あなたたち』の味方ではない。すぐにでも本国にこのことを報告し、あなたたちを逮捕することだってできる」
ロウサーの視線は鋭く、60も半ばに差し掛かった男のそれとは思えないほどで、一回りも年下のスミットは思わず身ぶるいしそうになった。
しかし彼は気丈にも言い返す。
「いえ、あなたはそのようなことはしないと分かっています。あなたは本質的にこの『国』のことを愛し、この国の『国民』のことを愛しています。あなたが最初、ステープルトンに会って話したときのその言葉は、決して嘘ではなかったはずです」
ロウサーはちらりとステープルトンの方を見た。ステープルトンは小さく肩をすくめた。
「分かりました。実は言っていなかったのですが、私もそろそろ引退しようと思っており、近々この役職を辞任して本国に戻るつもりでいたんです」
突然の言葉に、予想していなかったスミットもステープルトンも驚いた。
「ただ、本国でももちろん、このことは誰にも言わないようにしておきます。残念ながら私にできることはそれだけです」
スミットたちにとってそれは十分すぎることだった。むしろ来るべきタイミングで彼が総督として自分たちと本国との間に立たなければならない事態は避けたいとも思っていたのだから。
「それから、ことを成すにあたって、準備は十分にしなければなりません。衝動的に動いてはいけない。時間をかけてじっくりと・・・資金を集め、仲間を増やし・・・10年は、準備に費やす必要はあるでしょう」
「それでは私も引退しなくてはならないな」ステープルトンは軽口を叩いたが、彼もそのことは良く理解していた。これはスミットら「次の世代」の仕事だ、と。
「そして、この地の有力者ともしっかりと話をしておく必要があります。それがたとえ、あなたの政治信条と衝突するような男であっても」
1886年1月。言葉通りロウサーは総督の座を辞任し、本国へと帰還した。
代わりにやってきた総督はひどく官僚的な人物で今や喜望峰議会中心に動いている植民地政治にはあまり干渉してこなかった。
ルイスはもちろんこの男には計画のことは話さず、極秘裏に準備を進めていった。そしてこの男からもその話が出てくることはなく、ルイス達に対する捜査らしきものもなかったことで、ロウサーが約束を守ったことを実感していた。
あとは、ロウサーの最後の言葉を、ルイスが守る番であった。
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1891年11月10日。
夏の暑い日差しに照り付けられながら、ルイスはデ・アールの街を訪れていた。
「動脈」を意味する名前のこの街は、北ケープ州の重要な鉱山地帯とケープタウンとを結ぶ、文字通り動脈の役割を果たす街として発展してきた。
ここで、ルイスはある男と面会する予定だった。
男の名はセシル・ローズ。ハートフォード生まれのイングランド人ながら、健康的な理由から17歳のときに親によってこの南アフリカに送られた彼は、18歳のときには早速現地の金取引に参入し、ロスチャイルド商会からの資金提供も受けながらこの20年で世界の金市場でも莫大なシェアを誇る「鉱山王」となった。
生粋の帝国主義者とも知られている彼が、果たして英国からの独立というルイスの野望に賛同してくれるかどうかは賭けではあったが、国内のボーア人有力者たちや海外の財界とも深いパイプを持つ彼は、どのみちこちら側に引き込まなければ計画そのものが破綻する存在であることは間違いなかった。
それに、この手の男は得であると気付かせてやれば思想信条関係なく味方につけられる。そのためのカードは持っているつもりだった。
あとは、鉱山経営者という存在に対する、ルイスの個人的な嫌悪感が邪魔をしていたが——そこは、ロウサーの最後の言葉を思い出し、堪えた。
「わざわざこんなところまで足を運んでくださるとは、恐れ入ります。スミット首相」
応接室に入ってきたローズはそう言うとシルクハットを脱ぎ、軽く会釈をした。
2年前にステープルトンは惜しまれながらも政界を引退し、その後継者としてスミットが新たな植民地首相となっていた。彼は掘削党をより広く支持を集められる理念をもった社会民主党と名を変えた上で選挙でも圧勝し、誰もが認める新首相として就任していた。
「それで、私に協力してもらいたいこと、というのは?」
席に着くなり否や、ローズは単刀直入に本題へと切り込んだ。普段からそういうわけではないのだろうが、今回ばかりは和やかに雑談から始めていく、というタイプの相手ではないとローズも直観的に分かっていたようだ。
「私たち社会民主党は近いうちにある法案を議会に提出する予定です。それは累進課税法というもので、現行の課税制度から所得税率を下げる代わりに利益配当税の割合をより一層高めるものとなります」
「なるほど、それは我々資本家たちは強硬に反対しそうですね。そのための工作に来たというわけだ。ただ、それを成功させるには随分と高い代償が必要だと思いますよ。何せ、我々は金だけは腐るほど持っているのですから。
しかし何でまた? 何か、近いうちにまとまったお金が必要になる理由でもあるんですか?」
油断ならない目つきでルイスを見据えるローズ。その口元には薄い笑みが浮かんでいた。
「もちろん、その理由はここでは言えませんが、相応のリスクを取る覚悟は十分にできています。私がここに来ているというだけでもリスクですからね」
「それはそうでしょう。何しろ貴方は世界のブルジョワジーに対抗する立場にあられる。我々のように欲に塗れた者たちと一緒にいるところを見られたら、貴方の支持者たちがどう思うか」
ローズはその口元の笑みを残したまま、姿勢を崩した。
「良いでしょう。協力するのは構いません。その代わりにお願いしたいことですがーー隣国の、オレンジ自由国がこのところ、随分『不安定化』しているのはご存じですよね?」
ルイスは何も言わず続きを促した。
「つい先日も貴族の抑圧的な政策に反旗を翻した農民たちの大規模な反乱が起きましたが、彼らはズールー族の戦士を雇ってこれを鎮圧していました。
あまり良い状況とは言えませんよね? 彼らも我々が『文明化』してあげるべきだと、私は思うのですが、いかがでしょう」
ローズがオレンジ自由国にある金鉱山にも狙いをつけていることは事前に知っていた。父の同胞たちがグレート・トレックの末に建てた国を征服することに抵抗がないわけではなかったが、現地の労働者たちとの連携の中で、確かに彼らが苦しい思いをしていることはルイスも知っていた。
しかし、問題がある。
「あなたの希望を叶えたくとも、そのような外交行為はケープ植民地には許されていません。本国政府が許可する必要があり、アフリカ中部以北に興味を持っている今の本国政府ではその許可を下すことはないでしょう」
「そうですね。これだけの金鉱があるのにもったいないことです。
本国が我々の外交を制限し、国家としての意志を尊重しないのであれば、そんな宗主国とは袂を別つべきかもしれませんね」
自分が言おうとしていた言葉を先に言われたことで、ルイスはさすがに面食らってしまった。ローズはそれを愉快そうに眺めながら、続ける。
「どうやら利害は一致したようですね。資金調達は任せてください。また、累進課税の件は、しっかりと協力させていただきます。
代わりに戦争で使う武器の輸入先は私に一任させてください。それからもちろん、『征服地』の鉱山利権も、全て頂かせてもらいます。それくらいの価値が私にはあるでしょう?」
自信たっぷりに語るローズの姿に、ルイスは本当にこの選択が正しかったのか不安を覚えつつも、しかしそれ以外に選択肢はなかったと自分に言い聞かせた。
1892年6月7日。
実業家集団の本来あるべき抵抗もほとんど受けないまま、累進課税法案が成立。
これで財政面での準備は整った。武器弾薬の輸入も、ローズの伝手を借り本国政府には気づかれないよう進められている。
あとは好機を待つだけーーそしてそれは、1895年の9月に訪れた。
西インドのシンド藩王国の反乱にプロイセン王国が介入し、英国からの独立を支援した。
もちろんその後にその支配権を自らが握り、植民地競争で遅れを取っている彼らのインド地域における足掛かりを手に入れようとしたわけだがーー当然、英国はこれを許はしない。
10年前は敵同士だったロシアとの間にも「北海同盟」を結んでいた英国は、プロイセンの隣国ロシアと共にこれに宣戦布告をした。
これは千載一遇の機会であった。当然、10年前と同様、総督を通じて援軍派遣の依頼が飛び込んでくるが、ルイスら議会勢力は何かと理由をつけてこれを遅延させた。
その間に計画の最終段階の準備を終えた12月の頭に、いつまで経っても派兵を決めないルイスたちに痺れを切らして議会に怒鳴り込んできた総督をその場で拘束。
アフリカーナーが中心となっていた軍部にはすでに話をつけており、大した混乱もなくクーデターを成功させたルイスらは本国政府に対しての独立を宣言した。
かくして1895年12月24日。
後編へ続く。
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