1473年2月18日。
偉大なる皇帝フリードリヒ3世の後を継いだのは、27歳とまだ若いカール1世。
これはハプスブルク家としての数え方であり、神聖ローマ皇帝としてはカール5世と名乗るべきだろう。
すなわち、かの広大なる「ハプスブルク帝国」を築き上げた有名な皇帝である。
史実ではフリードリヒ3世の2代後の皇帝であり、世代で言えば曾孫にあたるのがカール5世ではあるが、この世界ではフリードリヒの息子という形となった。
呼び名はゲーム内表記に従いカール1世としておく。
能力値は父フリードリヒ以上のものがあり、周囲からの期待は高かった。
新たな皇帝となったカールに、その側近たちがまず求めたのは、フリードリヒが始めた第二次バイエルン・ヴェネツィア同盟戦争の継続であった。
もちろんカールもそのつもりではあったが、その前に彼がまず取り掛かったのは、「異端火刑法」の制定であった。
15世紀初めにイングランド王ヘンリー4世によって制定された法律であり、聖書の所有やその翻訳を禁じ、違えた者を火刑に処する厳しいものであった。
元々はロラード派など、教会の権威を批判する者たちを異端として弾圧するための法律である。
教会と対立し、破門すら経験した父帝フリードリヒとは対称的に、カール1世は教会との融和を目指し、その第一歩として、この法律の制定を指示したようである。
実際にカール1世の在位中、帝国と教会との関係性は急速に回復していく。
ゲーム内での効果を確認すると、この法律を制定することで、全プロヴィンスの税収が永続的に+2%され、宣教師の布教力も永続的に+0.5%される。
これに対するペナルティは、カトリックの改革欲求*1が+0.1%されるだけ。
現時点での改革欲求はすでに40.2%まで上昇しているため、今更0.1%上がったところで大して影響はないようにも思える。
この法律、通さない選択肢はないのではないか?
しかし隣にフス派の指導者が統治するボヘミアがいるのに、こんな法律を制定して怒られないのだろうか。
第二次バイエルン・ヴェネツィア戦役は何の問題もなく進行した。
もともと父の代から戦況は圧倒的有利に進んでおり、あとは両国が音を上げるのを待つだけであった。
1473年8月23日。
「影響」アイディアの4番目「国家プロパガンダ」を解禁する。
この効果は「攻撃的拡張」の上昇を20%抑える、というもので、今のオーストリアにとって何よりも望ましいアイディアであると言える。
「攻撃的拡張(Aggressive Expansion)」とは、敵国からの領土の獲得や属国化などによって膨れ上がる数値で、これが高すぎると周囲の国々が自国に対し包囲網を形成し、やがて雪崩のような大量の軍隊で懲罰的戦争を仕掛けてくる。
初期の拡張政策はこの攻撃的拡張の問題によりしばしば制限がかけられてしまう。
人的資源と並び、拡張主義者の頭を悩ますパラメータである。
そして1473年11月19日。
ヴェネツィアからはブレシアとトレビゾを譲り受け、バイエルンには、プファルツ選帝侯にシュトラウビングを割譲させる。
329デュカートと大量の賠償金も獲得し、カール1世は、フリードリヒ3世に劣らない名声を獲得することとなった。
英傑カール大帝! 聖帝フリードリヒに劣らぬ威厳に満ち溢れている!
宮廷人のみならず民衆も、若く気高い新皇帝を大いに歓迎した。
およそ4年後に、ウェルシュ・ブリクセン(旧ブレシア)のコア化も完了する。
しかしここはロンバルディア地方であり、文化もロンバルド文化で異文化ペナルティを受けるため、現時点での税収はイマイチ。
しかし資源は絹なので生産力はそれなりにある。寺院と工房を建てて強化を図ろう。
1477年時点での経済状況は以上の通り。
ウェルシュ・ベルン(元ヴェローナ)の税収が良い。さすが開発度21である。
20年前と比べても大きく経済が拡張しており、特にチロルの金山収入が2倍近く膨れ上がっているのだがこれは何だろう。時間経過と共に自然と上昇するのか。まあ、インフレも加速していくんですが。
もはや資金を気にする必要が少なくなっており、かなり自由に動ける態勢になってきた。
1485年3月1日。
教皇との関係も良好で、破門の心配もない。
先の戦争からすでに10年近くが経過している。
即位時は27歳だったカールも、すでに39歳。いい年になってきてもいた。
そこで彼は、再び矛を構えることにした。
今度は父帝からの引き継ぎではなく、自らの意思で。
そしてカールは、父が望めなかったある標的に狙いを定めたのである。
かつては東フランク王国の東端として、オストマルク辺境伯領・パンノニア平原へと至る玄関口として交易の中心地にもなった。
中世後期においては皇帝の拠点の一つとして重宝され、皇帝フリードリヒ2世によって大特権を授与され、以後は帝国自由都市として大きく栄えることとなった。
開発度は21。オーストリアとしてはなんとしてでも直接支配を狙いたい土地であった。
これはカール1世にとってまたとないチャンスであった。
同盟国はハンガリー程度しか参戦してはくれない。
しかしそれで十分。何が何でもニュルンベルクを獲得すべく、カールは宿敵バイエルンへと三度牙を剥いた。
もはや、かつて慈悲を与えた事実などなかったかのように。
いや、前帝フリードリヒの頃から、本当の意味での慈悲など、オーストリアの皇帝たちは誰かに与えたことなどなかったのではあるが。
1486年1月20日。
開戦から1年ももつことなく、ニュルンベルクは制圧され、帝国への併合が完了される。
もちろんバイエルンの領土も無事ではなく、戦争の代償として彼の国は首都ミュンヘンの帝国への割譲を余儀なくされる。
カールの征服行はまだまだ止まらない。
1492年12月5日。
今度はミラノ共和国(政体変更をしていた)からの要請に応えて参戦する。
カールには狙いがあった。
ミラノの目的はサヴォイア公国の領土モンフェラートであったが、サヴォイアの同盟国として敵側で参戦する国の中にフェラーラ公国があることが、カールにとっては好都合であった。
フェラーラ公国の首都フェラーラは、先代のフリードリヒの頃から狙いをつけていた交易都市である。
ヴェネツィア交易圏での覇権を確立するためにはぜひ奪い取っておきたいプロヴィンス。
しかしこれまでは、フェラーラ公がフランスと同盟を結んでいたためになかなか手が出せないでいた。
そんな中舞い降りてきた、千載一遇のチャンス!
すでにフェラーラの請求権は確保している。
オーストリア陸軍は、オスカー・フォン・ホーエンベルク将軍の指揮のもと、まずはフェラーラ公国を占領。
次いで、すでにミラノ陸軍により壊滅状態に陥りつつあったサヴォイア公国本土を侵略。
やがて開戦から3年後の1495年8月14日。
サヴォイア・フェラーラ戦争は終わりを告げ、ミラノ共和国はピエモンテとモンフェラートを確保。
そしてオーストリアは報酬としてフェラーラの地を割譲させてもらった。
開発度はさほど高くないために税収や生産はまあまあではあるが、ポー川の河口部に位置しているため基礎交易力が高くなっており、非常に魅力的。
これでようやく、ヴェネツィア交易圏の交易シェア率が30%を超えた。
1495年時点での経済状況。
新参者のニュルンベルクがすでに存在感を発揮している。さすがである。
帝国内外の重要都市を次々と傘下に収めていくカール1世。
その才覚は先代以上かと持て囃され、カール自身も署名をする際には「征服帝」と自称するほどであった。
しかし、そんなカールと帝国に、巨大なる災厄が訪れる。
時は遡って1493年。
ミラノ共和国の誘いに乗って対サヴォイア・フェラーラ戦役の真っ只中。
同盟国ハンガリーが、オスマン帝国との戦いへの参戦を要求してきた。
こちらとしても、重要な戦役の最中ではあるため、実際に軍を送ることはできないが形式参戦だけはするつもりで受諾した。
軍勢も敵軍の2倍近い総数を誇ってはいるため、これはまず負けないであろうと思っていたのだ。
(しかしよく考えればそのうちの半分近くは、実際に軍を動かしていないオーストリア軍の兵数ではあったのだが)
1496年6月10日。
そんな甘い考えを持ちながら、ほとんどその戦争のことを忘れ、サヴォイア・フェラーラ戦役の後始末をしていたカール1世は、突然飛び込んできたハンガリー特使の報告に驚愕する。
「ハンガリー王国の領土の大半がオスマントルコの軍勢に占領され、その軍勢およそ6万5千が貴国の領域に迫ってきております! 皇帝陛下、今立ち上がらねば、我々ヨーロッパ世界の崩壊を意味しますぞ!」
6万5千!?
カールは慌てて、大臣たちに情報を集めさせた。
結果・・・
開戦当初と比べ膨れ上がっていたオスマン軍。
そしてハンガリー各地における同盟軍敗走の報告。
さらには国境線に近づいてくるオスマン軍の姿を捉えた皇帝は、ただちに、サヴォイア戦争の英雄ホーエンベルク将軍に帝国陸軍総勢5万を託し、異教徒の迎撃に向かわせる。
まずは先遣隊として送り込まれたオスマンの2万の軍勢を、シュタイアーマルクの山岳地帯で迎え撃つ。
なんとかこれを撃退するが、次いでオスマンの本隊4万3千が、帝都ウィーンに迫る!
こちらの軍勢は4万4千。
ホーエンベルク将軍! その意地を見せてくれ!!
しかし・・・
オーストリア軍は大敗を喫した。
敵軍の2倍以上の損害。
これほどの敗北は初めてであった。
将軍に力がなかったわけではない。
ただ、敵国のこの戦いにおける士気の高さに、帝国軍は敗れ去ったのである。
何しろ、オスマン軍の総指揮官は、現スルタンのセリム2世。
まだ26歳と若いこの熱意溢れる青年は、戦場の最前線に赴いて末端に至るまでの兵士を鼓舞して回ったという。
それは、父フリードリヒ帝にあって、カール自身にないものの一つであった。
異教徒の軍に包囲される帝都の姿を遠く見やりながら、カールは自らの思い上がりを戒めた。
—―我はまだ父を超えてはおらぬ。
絶望している暇はない。
何を犠牲にしてでもこの難局を乗り切り、そして、再起を図らねばならない。
カールは決断した。そして、部下たちとともにウィーンを包囲しているスルタンのもとに特使を派遣し、講和のための条件を整えた。
オスマンの青年王が求めた講和の条件は、領土でも賠償金でもなく、先だってカールが広く宣言した「帝国改革への呼びかけ*2」の撤回であった。
やがてヨーロッパを支配しようと目論むオスマンの若き君主にとって、帝国統一への第一歩となる帝国の改革はなんとしてでも中断させたかったようだ。
これはカールにとっても悔しい決断ではあった。
しかしそれでも、彼はまずは領土の保全、そして帝国の再起を優先した。
改革はまたやり直せばよい。
この宣言撤回を条件に、オスマンと講和したカール1世。
もはや希望を絶たれたハンガリー王国は、あっという間にそのほぼ全土をオスマンに制圧され、そして領域南東部を大幅に割譲させられて屈辱的な講和を結ばされた。
ハンガリーの悲劇は、それで終わりではなかった。
領土を蹂躙され、半死半生の目に遭ったハンガリーに対し、その死体を蹴るがごとく襲い掛かるハイエナたち。
とくにボヘミアの支配者であるイジー・ス・ポジェブラトにとって、形だけとはいえボヘミア王位を未だに保持し続けている現ハンガリー王の存在*3は邪魔で仕方ないのだろう。
同盟国のアンスバッハ、ザルツブルクの軍とともに、ハンガリーと、そしてその同盟国であるザクセン公の領域を蹂躙していく。
選帝侯同士が争う様相すら見せているこの事態に、本来であれば帝国皇帝であるカールは黙っているわけにはいかなかった。
しかしそんな矜持を押さえつけて、カールは皇帝権威の回復のために何を成すべきかを模索していた。
まず彼が執り行ったのは、兼ねてより友好関係にあったローマ教皇と正式な同盟を結び、改めて帝国の方向性を内外に示したことである。
現教皇グレゴリウス13世は翌年に昇天し、新たな教皇となったのはインノケンティウス9世。
これはオーストリアの敵国であるスペインの影響下にある教皇であったが、その事実が教皇庁と皇帝との間に亀裂を生むようなことはなかった。
教皇との結びつきを強めることでカールが狙ったのは、イタリア地域への更なる拡大である。
教皇との激しい対立の末に教皇領を不当に占拠しているフィレンツェ共和国。
そして、オーストリアにとっては同盟相手でもあるミラノ共和国。
これらの国々が持つ、肥沃なるイタリアの地を欲したカールは、この「イタリア政策」への邁進に全力を尽くすことになる。
史実におけるその道が、帝国統一にとって大きな足枷になっていた事実を、カールはもちろん知る由もない。
(第5回:「ロンバルディア征服戦争」へ続く)
Europa Universalis IV on Steam
*1:Reform Desire. 95%に達するとどこかの国で宗教改革が発生する可能性が出てくる
*2:Call for Reichsreform. 帝国改革(Imperial Reforms)の第一段階。神聖ローマ帝国皇帝は、皇帝として正しい行いをすることで「皇帝の権威(Imperial Authority)を高め、諸侯の支持を得ることで様々な「帝国改革」を実行していくことができる。これは全部で8段階あり、最終段階においては帝国内の全諸侯が「神聖ローマ帝国」の名のもとに併合される。まさに帝国の統一、完成へと至る道であり、本プレイレポの最終目標である。
*3:現ハンガリー王ラースロー5世の父ラディスラウス・ポストゥムスは、その父アルブレヒト2世からボヘミア王位を継承していた。しかしアルブレヒト2世はラディスラウスが生まれる4か月前に死去しており、ラディスラウス自身の身柄もフリードリヒ3世の手元に置かれるなど実質的な統治力はなかったために、ボヘミアはフス派の頭目であったポジェブラトによって支配されることとなった。史実ではラディスラウスは、17歳のときに後継者なく病死してしまうため、ボヘミア王位はそのままポジェブラトのものとなるのだが、この世界ではラディスラウスが長寿を誇り、正統な後継者も育ってしまったために、未だに名目的な王位はハンガリー王の手中に残ることとなった。