ローマ教皇領。
8世紀にフランク王ピピンの寄進によって成立し、以後1000年以上に渡りイタリア半島の中心部を支配する史上唯一の「教会国家」であり続けた。
しかし、時は19世紀。先のナポレオン戦争時代に一度消滅しながらもウィーン会議によって復活するが、もはやその権威は地に堕ちきっていた。
史実においてはやがて来るイタリア統一運動のさ中の1870年に、その長い生涯を終えることに。この国もまた、近代化の荒波の中で消えた悲しき国家の1つであったのだ。
では、その運命に抗ってみせよう。
確かに、当時の教皇ピウス9世のように、近代化の流れにただ愚直に背を向け、保守的になるだけでは、同じ運命が到達してしまうだろう。
かと言って、安直な自由主義に堕すれば、行き着く先は同じく国家の消滅となりかねない。自由主義者は唾棄すべき敵である。
それでは、どうするのか?
教皇の権威を護りつつ、その領土と権利とを保全するための方策を採る必要がある。
そしてそれは、十分に実現可能なのである。
そう、金の国(De Civitate Pecuniae)ならね。
~ゲームルール~
Ver.1.1.0(Earl Grey)
使用MOD
- Universal Names
- Historical Figures
- Dense Trade Routes Tab
- Umemployment and Peasant Data
- Improved Building Grid
- Visual Methods
- Romantic Music
- Visual Leaders
- Bug Fix 1.1
- ECCHI
目次
第2回以降はこちらから
過去のシリーズはこちらから
ポーズ解除前まで
さて、教皇領は初期状態でラツィオ、ウンブリア、ロマーニャの3州を領有しており、人口は初期状態で259万人、GDPは140万ポンドとなっている。1州(というか0.5州)スタートだった前回のコンゴと比べると雲泥の差といった恵まれたスタートである。
しかも、ver.1.1.0になって、教皇領は大幅な強化が図られた。
なんと、最初から行政府が建っているのだ!!!
・・・そう、旧バージョンではなぜか行政府が1つもない状態から始まり、いきなりの官僚制ポイント-100スタート。税収が0という悲惨な状態だったため、まずはすべての貿易を切り官僚制を確保しつつ、初手建設セクターからの行政府2建設みたいな他の国ではありえないような序盤戦略を強いられていたのである。
だが、今回のアップデートによってようやくまともな国となった。
むしろ、初期状態でいきなり4,020ポンドの黒字になっていたりと、もはや最強国家なのではないだろうか(錯覚)。
そんな超絶強化された教皇領で始めていくわけだが、最初にまず取り掛かるのは「人種差別」の法律の制定。
教皇領は最初から「文化的排斥」の法律を制定しているのだが、この2つの法律の違いは、文化的排斥の方が「主要文化と何らかの文化特性を共有していれば差別されない」のに対し、人種差別の方は「主要文化と伝統文化特性(いわば人種的ルーツ)を共有していないと差別される」という点。
教皇領の主要文化は南イタリアおよび北イタリア文化なのだが、両方とも共通して「イタリア語圏」と「ヨーロッパの遺産」という文化特性を持っている。そしてこの「ヨーロッパの遺産」の方が人種差別で重要になる「伝統文化特性」である。
「英語圏」でありながらヨーロッパではなく「アフリカの遺産」という文化特性を持っているアメリカの黒人などであればいざ知らず、イタリア語圏の文化特性を持っている文化は同時にヨーロッパの遺産も持っている。
よって、わざわざ文化的排斥にしなくとも、人種差別で効果としては全く問題ない。
その上、メリットについて言えば確実に人種差別の方がより大きいのである。
より抑圧的な法律である人種差別を採用することによって、権力の値が50ポイント増加する。
さらに、これら抑圧的法律については、1.1.0パッチから「受け入れられた文化(差別されていない文化)のPOPがより急進的になりにくくなり、体制支持になりやすくなる」という効果が追加されている。
そしてこの効果も、文化的排斥から人種差別の方がより大きくなるのである。
これは、人種差別を採用しない理由がない。
そして、この人種差別の制定はローマ教皇庁*1と小ブルジョワが支持してくれている。今回のプレイではこの2つの利益集団を大事にしていきたいので、その意味でも重要な法律だ。
さて、この人種差別によっても稼ぐことのできる権力の値が今回のプレイでは重要になる。
現時点でも「神権制」「寡頭制」「国教」「検閲」といった各種法律によって権力を稼いでいるほか、ラツィオ(ローマ)にある専用モニュメント「バチカン市国」からも追加の権力がもたらされている。
この権力を使って、早速今回のプレイで重要になる「実業家」と「小ブルジョワ」への「強化」に使用する(初期状態でついているカトリック教会への強化は外してよい)。
とくに実業家は早めにその影響力を高め、早期の「影響力がある」利益集団入りを果たさせたい。
その上で余っている権力は3州すべてへの「社会的流動性の促進(教育自由度+25%、資格取得+25%)」およびラツィオ州への「資源産業を奨励する(建設セクター建造で不足する木材供給量増加のため)」の布告発令、そして「酒類」「奉仕」への消費税に使用する。
さらに最初期の段階で不足している酒類を最も豊富に供給してくれるイギリス市場から輸入する。
さらに、初期状態で不足しているにも関わらず両シチリア王国もトスカーナ公国も教皇市場から紙を買い付けているので、これに対して「国内物資の保護」政策をかけて輸出関税を高めることにする。
これらの政策によって、ポーズ解除前の段階での収支は以下の通り(もちろん、兵舎はすべて破棄しており、軍事費も節約している)。
この、旧バージョンとは雲泥の差となった初期財政を活かし、まずは首都州ラツィオに建設セクターを2つ建設。一旦、木材の供給が大きく不足することになるため、一時的な輸入を行おう。
さらに早々に建設セクターの基礎製法を「鉄骨施設」を変更できるようにするために、教皇領には一つもない飾り細工工房を1つ建設。これで工具が産出されるようになるため、伐採所の基礎製法を「製材所」に変更して木材需要を満たし(先ほどの木材輸入を終了し)たうえで、唯一の鉄産出州であるアンブリアで怒涛の鉄鉱山建設ラッシュを行い、鉄骨施設と飾り細工工房の基礎製法「銑鉄の道具」解禁に向かおう。
なお、1つ目の鉄鉱山が建築される前に金の備蓄が上限に達し始めるので、その時点で建設セクターの基礎製法を鉄骨施設にするのが良いだろう。その際に、鉄の輸入を行うと良い。
鉄が賄えるようになったら今度は供給が不足気味な紙の生産量を増やすべく、製紙工場の基礎製法を「亜硫酸パルプ」にする際に必要な硫黄をロマーニャで採掘することにする。
上記の通り今回は貿易を序盤から多用する。自分の市場だけではとてもではないが需要供給を賄い切れない小国が、しかもコンゴのように孤立主義を採用していない国であれば、貿易というのは非常に重要になる。
そこで最初の獲得技術は社会系技術の「証券取引所」にする。
貿易ルートの官僚制コスト削減、貿易ルートの競合(より自国に有利に商品量を回してくれるようになる)UPという効果はもちろん嬉しいが、加えて次に制定予定の保護主義を解禁するため初手獲得が必須となる。
その後は「亜硫酸パルプ」を解禁するメカニカルツールに向かうため、その前提技術であり生産系技術最後の時代Ⅰ技術である旋盤を取っていくこととしよう。
以上でポーズ解除までにやるべきことは完了。
それでは、時間を進めていこう。
序盤の法律制定
ゲームスタートから1か月後の1836年2月24日。
いきなり最初の教皇グレゴリウス・カッペラーリ(グレゴリウス16世)が死去してしまう。
代わってこの世界での第255代教皇となったのは、カトリック教会勢力の指導者でもあったルイージ・ランブルスキーニ枢機卿。
史実ではグレゴリウス16世の国務長官を務めていた彼は、史実におけるグレゴリウス16世死後の1846年に保守派筆頭としてコンクラーベに挑み、最初の投票では過半数の票を獲得。しかしルールで3分の2以上の得票が必要だったため決戦投票に持ち込まれ、最終的にはのちのピウス9世となるジョヴァンニ・マリア・フェレッティ(このゲーム中では小ブルジョワ集団の指導者)に敗れることとなる。
史実では教皇に届かなかった教皇候補ランブルスキーニが、この世界ではしっかりと教皇の座を手に入れることに。
もちろん、本名を教皇名として名乗るわけにはいかないので、クレメンス15世とでも名乗っておこうか。
なお、元々グレゴリウス16世は「近代と名のつくものはすべて嫌い、ガス灯や鉄道ですら教皇領の中に入れることを拒んだ」とされる超反近代主義者で今回のプレイの主題に対してはロールプレイング的に似つかわしくなかった。
一方でこのランブルスキーニは、少なくともこのゲーム上では「革新的」の特性を持っている。この性格をもつ新教皇クレメンス15世の下で、「金の国」を目指していくこととなる。
1837年6月20日に人種差別法が制定。
続いて農村民を政府の中に入れ、彼らが支持し、反対者もいない農本主義を採用する。
これ自体は経済システムのベスト法律ではないないものの、とにもかくにも伝統主義を脱し、土地ベース課税を人頭課税にいち早く切り替えるために必要なので仕方ない。
これで農村民を満足させて得られる承認ボーナス「誠実な仕事」も序盤では結構おいしい。
なお、本当は実業家の影響力がまだ高くないうちに彼らが嫌う交易方針法「保護主義」を制定したかったのだが、人種差別法の制定が早すぎてまだ証券取引所が獲得できていないため、一旦先に農本主義制定を行うこととする。
実業家の機嫌を取るプレイであれば、彼らが支持する重商主義、ないしは自由市場にすべきであるようにも思えるが、今回のプレイではできるだけ関税でも稼いでいきたい。
そういったときに、少なくともこの時点では輸出に強い関税をかける方が理に適っていることが多い。先ほどの紙の輸出に対する関税のように、他国が勝手に教皇領から買い付けようとする資源の国内流出を防ぎたい意味も込めて。
また、所有権の違いも微妙に関わってくる。重商主義の際は所有権が「商人ギルド」となり、店主の雇用が促進され、間接的に小ブルジョワ集団への影響力増加効果をもたらす。
一方で保護主義にすることでこの所有権が「個人所有」へと変わり、事務員と資本家の雇用が促進される。結果、間接的に実業家集団の影響力増加効果をもたらすことになるのである。もちろん、事務員の増加と合わせ、知識人層への影響ももたらすが・・・。
このあたりは今後、輸出がより儲けられるタイミングになったとき(そして知識人層の影響力が邪魔になってきたとき)に、改めて法律を変えることも検討していこう。
そしてこのあたりの法律が十分に取れるようになったタイミングで、実業家集団も政権内に入れ、いよいよ人頭課税の成立を目指していく。
人頭課税に賛成する実業家と農村民を共に政権内に入れ、その影響力の合計である31%法案制定成功率を確保。
地主の反対も強くないため、審議はスムースに進み、審議開始から11か月後の1842年2月17日には無事、制定。収支が大きく改善された。
これで用なしになった農村民を政権から追放し、彼らが反対する「移住規制なし」の法律を続いて制定。
さらに先ほど農本主義にしたばかりだが、農村民も追放したことだし、いよいよ工業化を促進していきたいため、「レッセ・フェール」の制定も1845年までに実現していくこととなる。
だが、この急進的な諸改革は政権内部に歪を生んでいくことにもなる。
教皇庁内の動揺
1842年8月。
「移住規制なし」の法律制定に向け審議を行っていく中、教皇庁内の保守派勢力の筆頭であるジュギリールモ・デプレティス枢機卿が、これに強く反対する姿勢を見せてきた。
だが教皇クレメンス15世(ルイージ・ランブルスキーニ)はこのデプレティス枢機卿の異論を一蹴。同じカトリックであるならば、広く移民を受け入れていくことを主張し、法律の制定に向けて強い支持を与えた。
この背景には、近年力をつけつつあるローマ教皇領内の資本家勢力を支持基盤とする、ギターノ・インブリアーニ枢機卿の存在が強く影響していたと囁かれている。
これは、これまで教会内最大勢力であった保守派の筆頭たるデプレティス枢機卿が、次期教皇として盤石ではなくなりつつあること、その対抗馬としてこの若きインブリアーニ枢機卿が可能性を高めつつあることを関係者の間で感じさせる出来事となった。
さらに、このインブリアーニ枢機卿の意向をより強く汲んだ形となる「植民地搾取」の法律を制定しにかかろうとするにあたり、カトリック教会の倫理観からの逸脱について、保守派を中心に強い批判が浴びせられることとなった。
その筆頭が、貴族勢力の指導者でもあるジュリオ・オルシーニ枢機卿である。
かつてローマ教皇も輩出したことのある名門オルシーニ家に属する彼はドメニコ会出身の元修道士でもあり、その偉大なる先達ラス・カサスを敬愛し、強い反植民地主義を標榜していた。
そのオルシーニ枢機卿が中心となって、農村民勢力の指導者ドナト・ロージカ枢機卿及び労働者勢力の指導者ピエトロ・ブリガンディ枢機卿とが共謀し、クレメンス15世に対するクーデターを画策。
そして1847年5月29日。
ついにオルシーニ枢機卿らが蜂起。都市化が進んでおらず実業家集団の影響力が弱かったウンブリア州とロマーニャ州が独立。オルシーニ枢機卿は農村民の支持が厚いロージカ枢機卿を対立教皇として据え、教会の主導権を要求してくることに。
これ見よがしに列強たちはこの内戦に直接介入しようとしてくる。
しかし教皇クレメンス15世は、この支援を受け入れて半島内に外国勢力が影響力を持つことをよしとしなかった(それは史実において教皇庁が何度も失敗してきたことでもある)。
代わりに、彼は列強各国(プロイセン、フランス、イギリス、オーストリア)から武器を大量輸入。ローマで徴兵した2万5,000名の教会軍を、オルシーニ枢機卿の兄であるアンドレア・オルシーニ将軍に率いさせて対抗させる。
対するクーデター軍側には両シチリア王国とサルデーニャ・ピエモンテ王国が武器支援を実施。イタリア統一を画策する両国は、この内戦を激化させて教皇領の弱体化を図ろうとしているようであった。
そうはさせない。
速やかにこの内戦を集結させ、諸外国の思惑を打ち砕かなくてはならない。
かくして1848年3月19日。
教皇庁内での政策の相違に端を発する対立が実力行使に発展し、ローマ内戦が勃発することとなった。
ローマ内戦
教皇軍とクーデター軍の最初の戦いは9月25日、ラツィオ州とウンブリア州との州境に位置するカンピテッリという村の近くの森の中で繰り広げられた。
アンドレア・オルシーニ将軍は6,000の部隊を率いて森の中に軍を展開。対するクーデター軍のクリストフォロ・デッラ・ローヴェレ将軍もまた同じく6,000名を引き連れてこれに対抗した。
数的には互角。しかし、武器弾薬の補充が間に合わず十分ではなかったクーデター軍側は大きなペナルティを負ってしまっており、戦力差においてオルシーニ将軍側が圧倒することに。
所詮は若造の枢機卿たちによるおままごとのような反乱。戦争は起きる前の準備こそが肝要だということを分かっていない上層部のせいで、優秀なデッラ・ローヴェレ将軍はこの後、苦しい戦いを強いられてしまうこととなる。
そのままオルシーニ将軍は連戦連勝を重ね、開戦からわずか半年後の1848年3月にはクーデター軍の全土を占領。
陥落寸前のボローニャの街から逃げようとしていたロージカ枢機卿も(彼の支持者であったはずの)農民たちに捕らえられ、オルシーニ将軍の前に差し出された。実質的な首謀者であるジュリオ・オルシーニ枢機卿は、堂々とした態度で兄の前に座り、怯えた様子のロージカとは対照的に、覚悟を決めた様子で沈黙を保っていた。
オルシーニ将軍もとくに余計な言葉を紡ぐこともなく、教皇クレメンス15世の命に従い、反乱の首謀者たる3名の枢機卿の即時処刑。
デッラ・ローヴェレ家は処刑こそ免れたものの、一族の資産は没収され、クリストフォロ将軍も蟄居を命じられることとなった。
かくして、ローマ内戦はわずか半年で終結。教皇庁の混乱を期待していた列強各国にもイタリア国内の2大国にも付け入る隙を与えないスピード終結であった。
とはいえ、これによって生じた人的資源は死者数だけでも5万を超え、戦場となった村々は焼き払われ、大きな被害を生むこととなった。
純粋な成長を見せていた経済も大きく損なわれることとなってしまった今回のローマ内戦。
教皇クレメンス15世とその後継者としてほぼ確実視されているインブリアーニ枢機卿は、まずはこの立て直しを図ることが急務となった。
だが、そのための好機はすぐに訪れることとなった。
1852年8月。
ヨーロッパ全土を揺るがすこととなる、大戦争が勃発したのである。
普墺戦争と特需景気
1852年8月。
プロイセンとオーストリアというドイツの2大国はその対立を深め、統一の主導権を巡る争いはついにその極限にまで到達した。
かくして、8月27日。ここに列強5位プロイセン王国と列強4位オーストリア帝国との間で普墺戦争が開幕する。
しかもこの戦いにドイツ諸邦のみならず列強1位イギリス・列強2位フランス・列強3位ロシア帝国、そしてオスマン帝国までもが介入し、総勢200万弱もの兵士たちが動員された欧州大戦へと発展したのである。
この戦乱の中で、たとえばフランス市場では弾薬や銃火器の原料となる硬材が大量に不足する状態に。
オーストリア市場でも同じく弾薬や大砲などが不足している。
この好機を逃すわけにはいかない!
前年のクレメンス15世の崩御を受け、予定通り第256代教皇となっていたギターノ・インブリアーニ改めアレクサンデル9世は、この戦争特需への対応を各産業に通達した。実業家集団との強いコネを持つ彼だからこそできる、迅速な対応であった。
早速フランスに週135ユニットもの小火器を輸出し、5,340ポンド/週もの貿易収入を得ている。関税収入も598ポンド/週に。
その一方で普仏同盟と敵対する側のロシア、オーストリアには戦列艦を輸出。こちらからも2,720ポンド/週の貿易収入と290ポンド/週の関税収入を得ている。
長引く戦争は、着実に教皇領の経済を上向きにさせる効果を発揮していた。
さらに、もう1つの僥倖がこの時期、教皇庁に訪れていた。
南イタリア関税同盟
普墺戦争勃発から3か月後の1852年12月1日。
欧州の動乱に危機感を覚えたがゆえか、両シチリア王国からまさかの同盟の誘いが!
同盟自体は割とどうでもいい。
だが、それ以上に重要なのは、これを受託することで両シチリア王国が教皇庁に対して義務(恩義、借り)ができるということ。
そしてこのとき、両シチリア王国を「教皇領の関税同盟に引き入れる」ことに対する受託スコアが-50を上回っていたのである。
つまり、50ポイント分の受諾スコアを得られる「義務」を、この同盟締結によって得られるのであれば、そのまま両シチリア王国を教皇庁の主導する関税同盟の中に組み込めるということである。
迷わずに両シチリア王国の同盟依頼を受諾!
そして直ちにこの義務を消費して「関税同盟に招待」を実行!
こうして、GDP740万ポンド、人口291万人でしかない教皇庁が主導する関税同盟の中に、GDP1,270万ポンド、人口752万人の両シチリア王国が下位参加国として組み込まれることに。
教皇庁にとっては非常に非常に大きい、南イタリア関税同盟が成立した。しかも、軍事同盟もセットで、より美味しい同盟締結である。
さらに、この関税同盟は教皇庁にとってより重要な、ある現象を発生させていた。
すなわち、市場内移民の発生である。
関税同盟に組み込んだ南イタリア、シチリアの地はいずれもラツィオ州よりも生活水準が低いため、少しずつではあるが移民が動き始めている。
これまで国外からの移民が全く発生していなかった教皇領にとって、これは大きな一歩となる。
実際、人口は自然増以外での変化がほぼない20年でもあった。この20年増えたのは45万人だけ。ここから少しずつ移民で稼いでいきたい。
GDPは内戦などで一時期凹んだ部分もあったが少しずつ成長。20年前の140万ポンドから892万ポンドと、約6倍に成長。
平均生活水準もなかなか上がらずにいたが、終盤にようやく上昇。移民の基盤となるため、意識的に上げていきたい。
ところで、1.1になってから、利益を出している施設がそう簡単に下層民に還元しなくなり格差が広がる傾向が出てきているようだが、その影響で平均生活水準も上がりづらくなっていたりする?
途中、混乱などもありつつ、ようやく少しずつ求めていた交易で稼いでいく国の姿が整われつつある。
この20年で築いた基盤でもって、さらなる成長を見せていくことはできるか。
第2回へ続く。
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