16世紀後半。
100年前の応仁の乱以降進展し続けていた「戦国時代」は、いよいよ収束の時を迎えつつあった。
その立役者として最も期待されていた男が織田信長。将軍・足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼした後、畿内を中心に随一の影響力を誇り、その有能な家臣団の手により日本全土の統一が今まさに進められつつあった。
しかし、1582年6月21日(天正10年6月2日)。
この織田信長が、嫡男の信忠と共に家臣の明智光秀の手によって弑される「本能寺の変」が勃発。時代は再び混沌の渦中へと放り出されることとなった。
この時、天下には複数の有力者が並立することとなる。
信長を殺した男、明智光秀。
西国に巨大な支配圏を持つ羽柴秀吉。
筆頭家老で北陸に勢力圏を広げる柴田勝家。
信長の最大の同盟者であり東海地方に覇を唱えていた徳川家康。
天下は彼ら英傑たちのいずれかの手によって支配されることになるだろうと、誰もが思っていた。
しかし、ここにもう1人、忘れてはならない男がいる。
男の名は織田信雄ーー信長の次男であり、長男信忠が亡くなった今、織田最大の有力者として相応しいはずの男であった。
だが、史実における彼は暗愚な男として有名であり、むしろ弟である三男・信孝の方が、器量においては上とさえ見られてもいた。
しかしーーその通説は、本当に正しいのだろうか? もしそれが正しいのだとすれば、なぜ信孝や信長の嫡孫の秀信の方が先にこの世を去り、信雄が1630年までの73年の生涯を全うすることができたのだろうか。
それを、単なる「長いものに巻かれ続けた人生」と看做すのは容易い。だが、乱世の荒波の中、生き抜いたその才能は、決して偶然によるものだけではないだろう。
現実として、信雄は時代の敗北者となり、生き永らえながらも目立つことはなく、織田の名は歴史の主役の座からは引き摺り下ろされた。
だが、もしも彼が時の運に恵まれ、適切な選択肢を選ぶことができていれば、運命はどう変わっていたのかーーこの物語は、そんな、「影の実力者」織田信雄の「逆襲」の物語である。
神の賽子は再び振られる。織田の大うつけの、「あり得たかもしれなかった」もう1つの物語が、今開帳するーー。
Ver.1.10.2(Quill)
使用DLC
- The Northern Lords
- The Royal Court
- The Fate of Iberia
- Firends and Foes
- Tours and Tournaments
- Wards and Wardens
使用MOD
- Japanese Language Mod
- Shogunate(Japanese version)
- Nameplates
- Historical Figure for Shogunate Japanese
目次
第二話以降はこちらから
【CK3】織田信雄の逆襲② 清須会議編(1585-1587) - リストリー・ノーツ
【CK3】織田信雄の逆襲③ 関ヶ鼻の戦い編(1587-1595) - リストリー・ノーツ
【CK3】織田信雄の逆襲④ 大乱前夜編(1595-1604) - リストリー・ノーツ
【CK3】織田信雄の逆襲⑤ 大坂の陣編(1604-1610) - リストリー・ノーツ
【CK3】織田信雄の逆襲⑥ 虎狩りの役編(1611-1615) - リストリー・ノーツ
【CK3】織田信雄の逆襲⑦ 緑川の戦い編(1615-1617) - リストリー・ノーツ
【CK3】織田信雄の逆襲⑧(最終回) 天下統一編(1618-1627) - リストリー・ノーツ
正福寺会談
1582年6月30日(天正10年6月9日)、志摩半島山中に位置する正福寺。
史実では残っていないが、この日、この場所で、織田信雄と徳川家康が密談を交わしていた。
「信雄殿、先立っての伊賀越えに際しては助力を頂き、深く感謝申し上げます。今ここに手前がいるのも、それどころか我々徳川自体が存続しているのも、信雄殿の助けがあったらばこそでしょう」
「いや、何、運も良かった。不穏な情勢の中、もしやと思い伊賀の地の警備を厚くしていたのが功を奏した。乱暴狼藉を働かんとする不埒な輩は実際に多く、前もってこれを制していたことで、こうして貴殿と話をする機会を設けられたのだから予にとっても僥倖だ」
本能寺の変発生当時、徳川家康とその側近たち34名は、殆ど丸腰の状態で堺に投宿しており、全滅の危機に瀕していた。
彼らにとって最大の難関は「伊賀越え」。元々独立勢力の多い伊賀の地は1年前にようやく平定したばかりであり、信長亡き後再び反乱が起こる可能性は非常に高かった。そんな中を少数の兵力で駆け抜けねばならなかった徳川一行は生きた心地がしなかったことだろう。
事実、史実においてはここで彼らは一揆に出くわしている。史実ではこれを甲賀者たちが救ったとされているが、この世界ではこの地を支配していた織田信雄がすぐさま支配を強めたことで、一揆の発生そのものを抑え込み、家康を無事通過させることに成功していた。
「まるで信雄殿は鷹の目を持つが如くですな」
カッカッと笑う徳川家康。信雄はそれを目を細めて見やりながら、やがて前のめりになって家康に顔を近づけ、声を低くする。
「とは言え、重要なのはこれからだ」
信雄の思わぬ迫力に、家康は少しだけ怯む。
「予にとっての加太峠はまさにこれから。今度は貴殿の助けを必要とするだろう」
「うむ・・・」
信雄の言いたいことを、家康は理解していた。そのためにこそ、この会談は設けられている。
「信雄殿の要望通り、我が娘・督との婚姻を進めましょう。これで信雄殿と手前とは義父子の間柄となりましょう」
「頼もしきこと。何しろ畿内は、一触即発の状態。父上を殺した明智か、これを打ち倒さんとする柴田か、羽柴か・・・いずれが勝利しようとも、織田の座は安泰ではない。予も、信孝も、奴らよりも明確に劣るが故、傀儡となるか滅ぼされるかの二択しかない現実は分かっている」
言いながら、薄ら笑いすら浮かべる信雄を、値踏みするかのような視線で見つめる家康。この男が父・信長はもちろん弟・信孝と比べても無能であるとの噂を、家康も知らないわけではなかった。
しかし、先だっての伊賀越えの件と言い、目の前の余裕そうな表情と言い、その風説とは異なる評価を下さざるを得ないのではと、家康は思い始めていた。
故に、その関係の持ち方も、当初の方針から変える必要もある。だからこそ彼は、自らの娘とこの男との婚姻ーーすなわち「同盟」の締結を決めたのである。
「で、どうなさるおつもりで? すぐに明智の討伐へと向かわれるのですか?」
「貴殿の助力を得られればそうしたいところだが、貴殿も暫くは『忙しい』だろう?」
信雄の不敵な笑みに、家康は無言で首肯する。事実、彼はこの混乱を利用して勢力を拡大すべく、この直後に東の北条と組んで関東の滝川・上杉連合との戦いに赴くこととなる。
「で、あれば、我も無謀な戦いはするつもりはない。――何、鬼柴田かサルが父の仇を討ってくれるだろう。それよりもより効果的な『侵略先』がある」
「・・・と、言いますと?」
家康は信雄の言葉通り、同盟を結んだからと言ってすぐに兵を出すつもりはなかった*1。信雄がそのわずかな兵力で侵攻できる先など、果たしてあるのか。
「紀州だ」
信雄の言葉に、家康は耳を疑った。
紀州――すなわち、半島南部の紀伊国。ここは、大名による支配は及んではいないものの、ある意味でそれ以上に恐ろしい雑賀・根来衆の支配領域であった。信長存命の頃にも侵攻を加えているものの、そのゲリラ戦術を前にして信長を「降伏」させている。
「奴らは明智と内通しているとの由。羽柴らが明智と戦っている背後を突くやもしれぬ。直接我々が明智を叩かずとも、十分に意味のある動きとなるであろう」
「それはそうかも、知れませんが――」
果たして、勝てるのか、と言わんばかりの家康の表情に、信雄は不敵な笑みを浮かべる。
「策はある。既に、父上の家臣であった九鬼嘉隆を懐柔し、我が臣下として迎え入れておる。奴を先手として海から紀州に仕掛け、混乱させる」
「それと・・・今、紀州は半年前に起きた内紛による混乱から立ち直っていない。昨年秋から続く高野山攻めの影響も残っている。今、織田軍は明智への対応のためにここから完全に手を引いているが、鎮圧するならば今が最大の好機だ。これを数年遅らせれば、また奴らは織田を苦しめることになるだろう。誰かがやらねばならぬ」
まるで見てきたかのように語る信雄。あの、得体の知れぬ山林の中の様子は、憶測だけで手を出せるほど甘いものではない。ましてや、信雄のように大した勢力を動かせない者が。
しかし、余程自信があると見えるだけに、家康はそれ以上口を挟むのを辞めた。噂通りの暗君なのか、それとも稀代の天才なのか。
この戦いの結果を持って、評価を決めることにしよう――本格的にこの男を支援するかどうかを決めるのは、それからでも遅くはない。
熊野の戦い
8月2日。畿内が明智の謀反とその対応に混乱する中、紀南の地にて織田信雄とその軍奉行・九鬼嘉隆の水軍は密かに熊野への侵攻を開始する。
信雄の見立て通り、紀州の雑賀衆・根来衆は混乱しきっており、紀州勢力の連携は見られない。実質的な各個撃破を果たせる状況であり、まずは熊野の堀内氏善を攻めることとする。
かつて信雄とも対立したことのある氏善。その後信長より熊野社領分を与えられ臣従していたが、今回の内乱に際しては旗色を明確にしない姿勢を取っていた。
信雄はこれを、明智方との内通を行っている証左であると断言し、陸海からの同時侵攻を試みた。
九鬼が指揮する水軍による海からの攻撃に耐えかね、山中に逃走する堀内軍。しかし九鬼嘉隆は陸地に上がってもその才能を発揮する。
むしろ彼は、森の中での戦いこそ、得意とするところであった。
さらに織田軍にはもう1人の勇将がいた。
男の名は木造具政。元伊勢国司・北畠晴具の三男で、父の命により木造具康の養子となっていたが、信長による伊勢侵攻の際に抵抗した兄たちを裏切り信長に臣従。以後、信雄の家老として仕えていた男だ。
彼は九鬼嘉隆に劣らない武勇を誇り、その象徴的な赤い鎧と苛烈な攻撃・略奪ぶりから「伊勢の赤鬼」と称され恐れられている男だ。
この嘉隆と具政の活躍により、熊野の戦いはわずか19日間で終結。138名の敵兵を討ち取り、敗走させた。
その後、堀内氏の居城であった新宮城を包囲し、陸海による徹底的な封鎖の末、約半年で新宮城は陥落。
城主・氏善はその子どもたちと共に捕えられ、即座に降伏。1582年2月16日。本能寺の変から8か月後に、熊野の戦いは終結する。
だが、これで終わりではない。
信雄はすぐさま次なる標的に向けて動き出すこととなる。
安濃川の戦い
2月25日。新宮城陥落と氏善降伏から1週間後、新宮で戦後処理に当たっていた九鬼嘉隆のもとに、織田信雄自ら赴いていた。
「此度の戦いぶり、実に見事であった」
「恐縮で御座います」
信雄の言葉に、嘉隆は恭しく首を下げる。
「事前の約束通り、この熊野・新宮の地は貴殿のものとする」
「有り難き仕合わせで御座います」
「だが、まだ、足りぬだろう?」
「はーー」
信雄の言葉の真意を測りかね、嘉隆は顔を上げた。そこには薄ら笑いを浮かべる主君の姿があった。
「返す刀で、紀伊も撫で斬りにせい。名目上の君主・畠山政尚を追放し、在田も貴殿に渡してやろう。さすれば、英虞から新宮、在田へと連なる南海航路を完全な支配下に置き、木材を主力商品とした東西交易を独占できるようになる。九鬼家の繁栄は約束されることになるだろう」
思いもよらぬ信雄の提案に、嘉隆は驚きのあまり言葉を繋げず、ただ信雄を見つめることしかできなかった。
そんな嘉隆に対し、信雄は声を低くし、睨みつけるようにして鋭く言い放った。
「代わりに我を裏切ろうなどと、ゆめにも思うなよ、九鬼殿」
「め、滅相もございませんーー」
嘉隆は慌てて頭を下げる。そのこめかみには、冷や汗が一筋流れていた。
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「どうでしたか、上様の御様子は」
帰陣してきた嘉隆の姿を見て、家老の長秀が心配そうな様子で訊ねる。
「ああ・・・あれが信長公の息子か。とんだ暗愚だと聞いていたが、とんでもない。まるで、信長公がそのまま乗り移ったかのようであった」
「左様でございますか・・・ただ、で、あればこそ」
「ああ、同乗する船として頼もしい限りだ。奴に賭けてみようじゃないか」
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1583年3月7日。
織田信雄は熊野を制圧した軍をそのまま、今度はその隣国である紀伊に向けて進軍を命じた。
紀伊国は名目上、畠山政尚という大名が治める土地であったものの、彼が実効支配できている土地は西岸の在田郡のみであり、それ以外は湯川氏や山本氏など、土着の勢力が自治を獲得しのさばっていた。
信雄はこれらの土着勢力たちには所領安堵を約束し切り崩しを図りつつ、九鬼嘉隆を中心とした主力軍を畠山氏の居城・鳥屋城を包囲開始し始める。
しかしそこまで行った上で、嘉隆は畠山軍の主力の姿がないことを訝しんでいた。彼はすぐさま草を放って情報収集に当たらせる。
やがて、嘉隆たちが到着する数日前に畠山政尚を含んだ主力軍が城を出て、山中を伊勢に向かって進軍したとの情報を掴む。
と、ほぼ同時に、伊賀・名張の地に突如畠山軍が現れたとの情報が嘉隆たちのもとにもたらされた。
嘉隆の判断は早かった。すぐさま、鳥屋城を包囲するのに最低限必要な兵だけを残した上で、自らは662名の兵のみを率いて紀伊の山中へと入り込んだ。
そして同年6月。室生口峠を越えた九鬼軍が名張・黒田城の眼前に現れると、たまらず畠山軍は包囲を解き撤退を開始。
これを逃すわけにはいかない。嘉隆は軍を引き連れながらがこれを追撃。
そしてついに1583年7月16日。
伊勢平原を北へ退却し続けていった畠山軍は、安濃川を挟んで九鬼軍と対峙することとなった。
畠山軍は畠山政尚自ら率いた544名。一方の織田軍は嘉隆率いる675名。数はほぼ同じだが、嘉隆は信雄から精鋭弓足軽二百を貸し与えられており、兵の質においては上手。
さらに木造具政を始めとする精鋭の武将たちが率先して兵の前に出て鼓舞しつつ畠山軍へと襲い掛かっていた。
戦闘が始まって1時間も過ぎる頃には、戦意を失った畠山軍が次々と敗走を始め、やがて畠山政尚を中心とした旗本軍のみが嘉隆の軍に包囲されることとなった。
最後は政尚も必死の抵抗を試みるが、もはや大勢は覆らず。
最終的には政尚はその身柄を拘束され、「安濃川の戦い」は織田=九鬼軍の圧勝で終わった。
主君捕縛の方は直ちに鳥屋城にも伝わり、間も無く降伏。開城となる。
畠山政尚は信雄の要求通り在田からの退却を受け入れ、新たにこの地を嘉隆に宛行う*2
嘉隆はこれにて、紀州の東南西の要所をすべて手中に納め、この地の海上交易を一手に担うこととなった。
この信雄の神速の紀州征伐は瞬く間に周辺に伝わり、やがて雑賀を支配する鈴木孫一は自らの息子・重朝を人質として信雄に差し出し、大和国を支配していた筒井順慶も信雄に友好の書状を送るなど、紀伊半島全域に対する信雄の影響力が確実に広がりつつあった。
1583年秋。
ようやく一息つき居城・田丸城に戻ってきた信雄を待っていたのは、妻・督姫が嫡男を産んだという報せであった。信雄はこれを大いに喜び、彼を「三法師」と名付けた。
「我が愛しき三法師よ・・・お前の為に、織田の家を没落などさせん・・・サルにも、家康にも、その命運を握らせはせん・・・」
腕の中で安らかに眠る三法師の顔を見つめる信雄の瞳には、強い決意の炎が揺らいでいた。
清州へ
1585年夏。
本能寺の変よりすでに3年が過ぎ去っていた。すぐに終結するかと思われていた羽柴-明智戦争も、思いもよらぬ長期化が進んでいた。
それでもこの春にようやく毛利との和睦を成立させた羽柴は攻勢を加速させ、同年7月1日(天正13年6月14日)には山崎の戦いで明智を討ち倒した。
見事、主君信長の仇討ちを果たした羽柴は、明智の占領していた山城・近江を丸ごと獲得し、一躍織田家中の最大勢力へと伸長した。
そのことは当然、家中の安定をもたらすものであるどころか、より一層の混乱と不穏とを呼び起こすものとなるであろう。
ゆえに、この混乱を宥める必要がある。
かくして、「明智討伐後」の織田の秩序をもたらすべく、ここ清州の地で、織田家宿老たちによる会議が開かれることとなったのである。
果たして、織田の命運は、そして信雄の命運はどのように定まるのか。
次回、第二話「清洲会議」編へと続く。
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