ハプスブルク皇帝世襲時代の3代目となったのはアントン32歳。
しかし彼は実は嫡子ではなかった。
1476年当時、正妻との間で男子に恵まれなかったカール1世は、ある秘密の会合にて出会った女性との間に一人の男子を設けた。
それがアントンであった。
カールは彼を嫡子であると喧伝するも、噂というのはどこからか漏れるものであり、いつの日かアントンが庶子であることは公然の秘密となっていた。
その4年後に改めて正妻との間に男子アルブレヒトを生んだものの、愚昧に過ぎる*1その弟よりも、カール1世はこのアントンを可愛がり続け、やがて彼を正式な神聖ローマ皇帝位継承者、すなわち「ローマ王」の地位につけたのである。
当時、帝国内外に多大影響力を持ち、大小の諸侯を征服して回っていたカールの決定に逆らう者はおらず、彼の死後も、問題なくその皇位は継承された。
しかしやはりその血筋の正統性(Legitimacy)を疑う者は多くいて、このことは帝国自体の正統性を大きく傷つけるものとなってしまった。
正統性の減少は全領土における不穏度(Unrest)の上昇を招き、反乱を起きやすくする、あらゆる信仰に対する寛容度(Tolerance)を下げることで、土地収入へのペナルティをわずかに与える。
また、外交評判(Diplomatic Reputation)を傷つけて各種外交アクションの成功率をわずかに下げ、属国からの収入(Income from Vassals)へのダメージをももたらす。
不穏度の上昇は、元からの「真なる教えへの寛容(Tolerance of the True Faith)」の高さから相殺され、ほぼ無効化しているほか、破壊的なペナルティは今のところは存在しないが、正統性は威信と違って回復もしづらいパラメータであるのと、なんとなくやはり気持ちがよくないので、今度からは継承権(Claim)が弱い後継者を手に入れるイベントには気を付けなければならない。
いや、ペナルティが大したことないのであれば、やはり能力値を優先させるべきか?
どちらがいいのだろうか。
1510年6月13日。
ザクセンでプロテストタント市民による暴動が発生。
ボヘミアとの戦いで、アルブレヒト勇敢公が戦死したザクセンでは、まだ幼いヘクトール・フォン・ヴェッティンを、勇敢公の遺志を継ぐ摂政議会が補佐する形で政治が進められていた。
領民の多くが異端に染まる中、懸命にもカトリックの教えを保持し続けていた彼らも、暴徒化したプロテスタント市民の前では、譲歩を行わざるを得なかった。
以後、ザクセンでは異端に対する寛容策が採られていくことになる。
嘆かわしいことだ。
さらには1510年7月15日。
ウィーンの司祭が聖書のドイツ語訳を行ったという知らせが入り込んでくる。
このとき、新皇帝アントンは、「聖書のドイツ語訳! 素晴らしいことではないか。これで神の言葉を誰もが手軽に読むことができるのだな!」などと言ったらしい。
しかしその言葉を周囲の大臣たちが諫め、「陛下、これは法に反することですぞ。それに、教皇はじめカトリック諸侯らとの関係を大きく傷つける結果となります。どうか法の遵守を! そして正統なる教えのために正しい決断を行われたまえ!」とアントンに迫った。
アントンは若干の不満を覚えながらも、これに従うことにした。
そう、確かに、聖書の勝手な翻訳は、先代のカール1世の制定した「異端火刑法」に反する行為なのである。
彼は件の司祭を宮廷に呼び出し、その場で有罪判決を告げたのち、3日後に火刑に処したのである。
上記のエピソードからもわかるように、新皇帝アントンは、冷静沈着なフリードリヒ3世、苛烈なる性情のカール1世とはまた違った、どこか浮世離れした感性をもった皇帝であった。
そのことはときに、先代の時に緻密に積み上げられてきた教皇との関係性を傷つけかねない決定を彼にさせることにも繋がった。
たとえばこれは、1514年のことになるが、とある宴会の席で、アントンお抱えの芸術家であるルドルフ・フォン・ショーンブルクが、司教と言い争う事件が起きた。
これを受けてローマ教会は、ルドルフに対する異端審問官の派遣を決め、彼を尋問する方針を固めたという。
アントンはこれに激怒した。ルドルフは、彼が即位する前からの付き合いであり、年齢も近いこともあって親友として接する間柄であった。そして彼はアントンの宮廷に自由に出入りし、彼に対して主に統治面のアドバイスを行うことも多々あったという*2。
彼はこのとき、次のような言葉で罵ったという。
「あのクソ司教め! 今度は奴の昼食に毒を入れてやる!」
と。
さらにはその2年後。
ヴェネツィアにて貴族と聖職者の領土をめぐる争いが激化し、その仲裁役を求められた際にアントンが告げた言葉である。
「神は乞食や漁師にも宿っている。そうではないのかね?」
さすがにこの言葉には、ローマ教皇エウゲニウス6世も激怒したらしい。
先代より積み上げてきた教会との関係性の高さがなければ、再び皇帝が破門され事態すらありえた。何しろ今、再び教皇への影響力を高めているのはあのフランス王なのだから。
しかしこのときアントンが貴族の肩入れをしなければ、彼らが大量の軍隊を動員してヴェネツィアで蜂起する計画すらあったらしい*3。
ある意味でアントン皇帝というのは、どんな勢力にも遠慮せず、そして結果的にすべての勢力に対して適切なバランスを取る才覚に優れていた、とも言えるかもしれない。
いずれにしても先代、先々代とはまた違った異色の皇帝により、オーストリアと神聖ローマ帝国は運営されていくことになる。
そんなアントン皇帝ではあるが、先代から続くイタリア政策には積極的な姿勢を見せた。
1510年10月11日。
オーストリアとの戦争によって深く傷ついたミラノに対し、容赦なく襲い掛かったのがフランスとスイス。
フランスはミラノからピエモンテおよびノヴァーラの2州を奪ったうえで、フランチェスコ・アドルノなる人物をお飾りの君主に仕立て上げて公位を与え、自らにとって都合のいい独立国として設立した。
1512年6月10日。
さらに追い打ちをかけるようにスイスがこのミラノの肥沃なる首都の地を奪い取り、そこを自身の直轄領として併合した。
このときスイスは、ニコラウス・アエビという人物による独裁政治が行われていた。
スイスはハプスブルク家にとって故郷とも言える地であり、合わせてその旧領の多くを奪い取られた過去を持つ、忌まわしい相手であるとも言える。
1512年12月25日。
アントンはこのスイスへの宣戦布告を決断する。
大義名分は、彼の者が不当に占拠するミラノ平原の解放。
およびかつて彼とバーデン辺境伯とが分割して消滅させたラーフェンスブルグ公領の回復である。
メミンゲン自由市とバル大司教がスイスと同盟を結んでいたようだが、まとめて粉砕する。
アントンの弟アルブレヒトも、将軍として前線にて戦うことに。
血気盛んな彼自身の要望であったらしいが、さほど優れた才能があったわけでもなかった。
性格の不一致から、アルブレヒトとあまり仲の良くなかったアントンは、密かにこの弟後継者が戦場で死んでくれないかと願っていたとか*4。
ともあれ戦力の差は歴然であり、開戦から1年後の1513年12月30日には、スイスはミラノの割譲とラーフェンスブルグの独立承認、および99デュカートの賠償金支払いを条件に講和を受け入れた。
ラーフェンスブルグはこの後、オーストリアの属国として保持されることに。
なお、スフォルツァ家に支配権を返却したパルマであったが、アントンの策略により民衆をけしかけ、ルドヴィーコを追放させたうえでオーストリアの属国に仕立て上げていた。
さらに1514年2月1日にはパルマ市民は帝国直轄地として併合されることを望み、無事偉大なるオーストリアの一部となった。
居場所を失ったルドヴィーコとその家族がその後どこに消えたのかは誰も知らない。
すべての政治は帝国の繁栄のため。
その非道さと現実主義的感覚を、この新皇帝もしっかりと併せ持っていたというわけである。
1517年4月20日。
アントンはさらに、再度のフィレンツェ侵攻を行う。
1年後の5月8日に講和したとき、その首都フィレンツェはオーストリアのものに、ウンブリアは教皇のものに、そしてピサとシエナはそれぞれの独立を認められた。
フィレンツェ共和国はオーストリア・教皇によって分割して完全に消滅した。
1519年9月5日。
今度はバーデン辺境伯領に攻め込み、翌年8月27日に講和。
アルザスの地を獲得したほかラーフェンスブルグの旧領を返却させる。
プファルツ選帝侯の旧領も返却させる予定だったが、プロテスタント信仰に染まっていたために断念。
選帝侯も異端に染まった土地など不要であろう。
1526年2月5日。
ミラノに宣戦布告し、その最後の領土であるジェノヴァを侵略。
およそ1年後に、何の障害もなくこれを奪い取った。
ジェノヴァ交易圏における交易シェア率も高まり、3つの交易拠点から得られる交易収入は11デュカート近くにまで及んだ。
この後、ピサとシエナを併合することができれば、その割合はさらに高まることだろう。
(1530年時点で13.3デュカートまで貿易利益は高まった。税収入は18.07、生産収入は10.19である)
1528年7月25日。
マントヴァとルッカを併合したフェラーラ公国に攻め込み、翌年12月14日に講和。
ラーフェンスブルグ、 ピサ、シエナの併合が完了した後の、1536年時点での領域が以下の通りである。
ハプスブルク家の紋章は双頭の鷲であるが、まるで翼を広げたその鷲のような形となった。
神聖ローマ皇帝の権威、ここにあり、である。
しかし、アントンにとっても晩年となる1530年代。
北ドイツにおけるプロテスタントおよび改革派の広がりは無視できない規模にまで及んでいた。
何しろ、七選帝侯のうち四人がプロテスタントを信奉し始めたのである。
すでにアントンも60を超え、すでに先代・先先代よりも長く生きている。
このままではまずい。
窮地に立たされたアントンが選んだ策はーー異端に染まるボヘミア選帝侯から、その選帝侯公位を剥奪する、というものであった。
かくして1536年11月19日。
戦争目標はその首都プラハの占領。
敵同盟国はナッサウ伯のみ。
こちらの同盟国は、ハンガリーの手を借りることができればよかったが、彼の国は今、セルビアとの戦争に手一杯となっている。
代わりに、ドイツ騎士団領の力を借りることにした。
北東ドイツの広範囲を支配するに至ったこの騎士修道会は、帝国外の諸侯でありながら帝国領土を占拠しており、将来の敵国であった筈だったのだが、ブランデンブルク選帝侯すらもプロテスタント化した今、誠実に信仰を保持し続ける、貴重な同盟国であり続けていた。
現在の人的資源は0。
しかし後回しにすればするほど、帝国は危機を迎えてしまう。
アントンはやるしかなかった。
ついに帝国は、巨大なる宗教的対立の渦の中に飲み込まれていく。
(第7回に続く)