19世紀末。
「教会国家」ローマ教皇領は、史実におけるその消滅の年をゆうに超え、自由主義とナショナリズムによる世界の混乱の中でも果敢に生き残り、その権勢は史上最大のものとなっていた。
世界各地に張り巡らされたローマ教皇庁自由貿易圏は、今や世界最大の市場となっており、世界各国から数多の商品がローマの市場へと流れ込んでいた。
いよいよ、時代は20世紀へ。
「金の国」教皇領は、その頂点に向けてラストスパートを突き進むことになる。
~ゲームルール~
Ver.1.1.2(Earl Grey)
使用MOD
- Japanese Language Advanced Mod
- Universal Names
- Historical Figures
- Dense Trade Routes Tab
- Umemployment and Peasant Data
- Improved Building Grid
- More Spreadsheets
- Visual Methods
- Romantic Music
- Visual Leaders
- Bug Fix 1.1
- ECCHI
- Visible Pop Needs
目次
前回はこちらから
教皇領の拡大
1896年11月29日。
英仏独墺を襲いそれを崩壊せしめた急進主義の波も巧みに乗り越え、教皇領を世界最大の市場へと押し上げた第257代教皇インノケンティウス14世(チェシディオ・ナゼッリ)が崩御。
新たに教皇となったのは、教皇庁内最大の勢力であった小ブルジョワ集団を支持基盤とするルッジェーロ・ヴァルバッソーリ。
グレゴリウス17世と名乗った彼もまた急進主義者の1人ではあったが、同時に野心的でもあった彼は、自らの野望を叶えるより前に、各勢力の均衡を保ち自身の基盤を確実なものとすることを選んだ。
2年後の1898年11月3日には、教皇領内の急進主義の先駆けであった実業家集団の指導者、クリストフォロ・ジェルマネッティが死去。
新たに実業家集団の指導者となったのは好戦主義者のカルミネ・ウィンスペアーレ。
教皇領における急進主義の波も、少しずつ収まりつつある様子を見せていた。
1900年8月8日。翌年に控えた選挙に向け、急進主義を脱した実業家集団が新たな政党「左派」を結成。「極左」党と袂を分かつこととなった。
元々、土地や資本を多くもつ者にのみ投票権を許された現在の「土地所有者投票」法。
これまでは実業家集団と同じ党ということでその得票によって影響力を保っていたが、それが分離してしまった以上、豊かではあっても資本を持つ者のの少ない小ブルジョワ単独政党では票を集めることができない。
そして1901年1月29日。
左派結党後最初の選挙で見事圧勝。極左党はその議席を一気に失うこととなってしまった。
グレゴリウス17世はこれを見込んでいたからこそ、自らの出身勢力そして急進主義者たちにおもねることをやめたのであった。
再び力を取り戻した実業家集団たちを利用しながら、いよいよ教皇領は「世界最大の経済大国」へと突き進んでいくこととなる。
1901年8月2日。
これまで警戒状態が続いていたがゆえに関税同盟に入れることのできていなかったトスカーナ大公国が、ついに態度・温和へと切り替わってくれたことで早速融資を実行し、関税同盟入りへ。
これを受け、トスカーナ大公国は政治的にも教皇領の一部となることに同意。
教皇領は中央イタリアを完全支配する4州の国家へと成長した。
さらに1910年10月。
オーストリアの一部であったヴェネト州が、その独立を主張して蜂起。
どうやら1885年のオーストリア七月革命の際、ロンバルディアで分離独立したオデスカルキ家のサルデーニャ・ピエモンテ王国が、さらなる革命の結果成立したサルデーニャ・ピエモンテ共和国――サヴォイア家のサルデーニャ・ピエモンテ王国と区別がつかないため、ここではロンバルディア共和国と称する――に変貌した後オーストリアの影響下から脱し、そのままヴェネト地方の北イタリア人たちを唆し続けた結果、この分離独立運動が巻き起こったらしい。
教皇領の存在感ゆえに19世紀中は一切進まなかった「イタリア人ナショナリズム」および「イタリアの統一」が、着実に前へ進みつつあるようだ。
このヴェネト独立戦争に、列強2位でオーストリア共和国の永遠のライバルであるハプスブルク朝ドイツ帝国も介入。ヴェネト独立勢力の支援を決定する。
そのまま1911年に入り戦争が開幕――と、思いきや、開戦間もない3月2日、まさかの白紙和平が結ばれる。
一体何が?
謎ではあったが、この結果ヴェネトは無事独立。
そして予定通り、ロンバルディア共和国がこれを併合。北イタリア共和国(仮)と名乗る新国家が誕生する。
この北イタリア共和国(ゲーム中ではサルデーニャ・ピエモンテ)もまた、関税同盟に組み入れたのちに併合イベントが発生。
教皇領はこれでヴェネト・ロンバルディアを含む6州国家へと拡張することとなった。
そして――1916年1月1日。
ゲーム開始から80年。
完成された「金の国」
ついに、世界最大の経済大国へと成長したローマ教皇領。
威信ランキングでもフランスを追い抜いて列強2位へと躍り出ることに成功した。
人口は4,220万。初期3州のみでも3,000万を超え、今や総人口では他の列強諸国と肩を並べるほどにまで成長している。
首都ローマのあるラツィオ州の人口は最大で1,200万人を超えたが、人が増えすぎて「人口過密」ペナルティが発生。時折人が減る状況まで生まれていた。
平均生活水準は22.8。但し、世界1位の座からは転がり落ちてしまっており、「世界で最も豊かな国」とは言えなくなってしまったかもしれない。
教皇領市場は南北アメリカだけでなく、スウェーデンからオーストラリア、シャムに至るまで、世界中を傘下に置いている。
市場ランキングでも2位イギリス市場に対してほぼ2倍近い大差をつけて堂々たる1位である。
最後に収支も見ていこう。
投資プールは際限なく膨らみ、最終的には4億ポンド超えに。借金膨らんでもかなり持ちこたえられそう。関税は最盛期には26万ポンド/週くらいにまでは伸びたのだが、ここまでくるとなかなか安定しない。正直、国家全体の繁栄を考えたら自由市場の方が良いだろう。
1836年からの20年ごとの推移はこちら。
最終盤は膨れ上がる人口を支えるための課税キャパシティ対策に行政府を建てまくったことが収支を圧迫する状況となっていた。獲得したトスカーナやヴェネト・ロンバルディアを併合完了すればもう少し余裕が出そう。
と、いうことで、多文化主義と比例課税を封印しつつ戦争による拡張を禁止、最終的には植民地などはあれど直轄領は初期3州のみという状態で、世界最大の経済大国に躍り出ることができたということで今回はここまでにしたいと思う。
貿易プレイは結構楽しいものがあったものの、まだまだAIの改善で面白さが増えていきそうな領域であるということと、貿易過多にすることでかなりゲームが重くなることがネック。このあたりの改善はパラド様に期待したいところ・・・。
「金の国」教皇領は、20世紀も健在で、世界にその栄光を届け続ける。
教皇領よ、永遠に。
めでたし、めでたし・・・。
で、終わるわけには、いかない。
神の国
当初の目標たる縛りプレイでの世界最大の経済大国に、が達成させられたので、ここで戦争を解禁。
せっかくトスカーナやヴェネト・ロンバルディアを手に入れたので、ここから教皇庁によるイタリア統一を狙っていこう。
最初の標的はオーストリア。「未回収のイタリア」となりかねない南チロル・イストリアの領土を要求。
敵側には列強5位のイギリス共和国と(アメリカの東半分を支配する)列強8位のアメリカ自由州がつくが、こちらも列強1位のドイツと列強6位のロシアを味方につける。
オーストリアが禁輸してきて石炭が原料不足に。施設の製法変更などで対応する。
たとえば教皇領全土に182個存在する家具工場の自動化方式をハンドアセンブリに変えるだけで1,310個の石炭需要を減らせるため、それだけで原料不足は解消できる。そして生産性もさほど大きな影響はない。
貿易に依存した国家体制でも、ある程度の大きさを持っていれば戦争に突入しても意外となんとでもなるものである。
1916年9月20日。オーストリア共和国は要求に屈することなく開戦。
ローマ内戦を除けば、教皇領にとって初の本格的戦争となる。
教会軍は南チロル戦線で、ドロミテの山中に立てこもるオーストリア軍を襲撃する。
しかし知識人層出身のマッテオ・ガルツィア大将は、狭い山中にて8,000の部隊でアメリカ自由州軍の13,000と相対。
機関銃を備えた米自由州軍の圧倒的防御力の前に劣勢。この戦線を打ち崩すことは難しそうだ。
よって、定番の策。オラツィオ・ジェノイーノ提督率いる教会海軍でアドリア海を北上し、ダルマチア海岸にて上陸作戦を結構。そのまま北上し、北イタリア戦線に裏から合流を狙う。
救援に駆け付けたセルビア軍と、トリエステでの壮絶な市街戦が繰り広げられる。
高い防御力に悩まされながらも、今度は数で勝るガルツィア大将はこの戦いに見事勝利。
1917年3月には硬直していた北イタリア戦線でも、ドイツ軍のモーリッツ・トルンク元帥がウーディネの平原地帯で7万以上の部隊を展開。
アメリカ自由州軍の屈強な防御陣形も、圧倒的な数の差の前に崩れ落ちていく。
なお、戦争中にスウェーデンから同盟締結のお誘い。
このあとロシアとも一戦を交える予定なのでありがたい。受諾しておく。
1917年10月。
開戦から1年でオーストリア南西部をあらかた征服し終え、帝都ウィーンも目前にまで迫る。
このタイミングでオーストリアは降伏。南チロルとイストリアの領有権を教皇庁に明け渡し、彼らが保護国下に置いていたルッカとモデナの宗主権も教皇庁の手に渡ることとなった*1。
残ったイギリスとアメリカは、それぞれの植民地をなぶりつつ戦争支持度を下げていった他、同盟国ロシアがイギリス本土上陸に成功。凄い。
そんなこんなで1918年6月26日。「伊墺戦争」が終結。
激戦の地となったトリエステで結ばれた条約により、すでに締結された南チロルとイストリアの帰属が確認されることとなった。
これで教皇領は北イタリアをほぼ全土手中に収めることとなった。
さらに、1921年には統一のリーダーシップをかけて両シチリア王国と対決。
敵側には両シチリア王国の宗主国となっているロシア帝国の他、モロッコ、清、メキシコなどがついてくるが、その他の列強は今回は介入せず。
こちらもドイツと同盟を結んだうえで挑んだのが普通に見捨ててきて、元々同盟を結んでいたスウェーデン改めスカンディナヴィア帝国のみ。
まあ、ロシアは識字率38%の後進国。実質教会軍単独で戦うとなっても問題はないだろう。
なお、教皇領の兵役制度は初期状態の国民民兵のままのため、未だに前線に立つのは各州から集められた普段は市井の暮らしをしている徴募兵たちである。
それでも最新式の装備を与えられた彼らの攻撃力は174にまで達している。
未だ戦列歩兵中心の旧式ロシア軍を、自動車による偵察も取り入れた現代軍にて蹂躙。バルト海での強襲上陸作戦を成功させ、ロシア首都サンクトペテルブルク周辺一帯を一気に占領していく。
ジェノイーノ提督率いる教会海軍も、敵海軍の妨害を見事に防ぎ、しっかりと長距離補給を完遂していく。
そして1923年5月17日にローマ条約が締結。
イタリアの統一候補は教皇領ただ一つとなった。
そして・・・1924年12月21日。
いよいよ、教皇グレゴリウス17世は、教皇の名の下にイタリアを統一することを宣言。イタリアに残るパルマ共和国、サルデーニャ・ピエモンテ王国、両シチリア王国の教皇領への編入を一方的に要求する。
この強引な手法に対して世界中からは非難の嵐が飛び交う。
それは禁輸という具体的な経済制裁の形を取ることに。
無効化された貿易ルートの数々。
当然、GDPも急降下する。
この余りの事態に教皇グレゴリウス17世は憤死。
この教皇領最大の危機を前にして新たに教皇となったのがルカ・ベルティーニ。
珍しく自らの名を教皇名にそのまま用いて「ルカ1世」と名乗った彼は、崩壊した交易体制を立て直すべく、エルサルバドルやブラジルといった、それでも教皇領と友好関係を保とうとしている非列強諸国との交易を開始していく。
それでも、諸列強は戦争に介入することなく、今回相手側の主導国となった小国パルマのために馳せ参じたのはオーストリアのみ。
サルデーニャ・ピエモンテ王国も両シチリア王国も早々に争うことを諦め、統一されることを甘受。ドイツもイギリスもアメリカも非難はして経済制裁は加えるものの介入はする気なく、まるでどこかで見たような光景である。
そして1925年4月5日。実質的なオーストリアとの一騎打ちとなる「イタリア統一戦争」が開幕する。
もちろん、今や見所もなく。
1年後の1926年4月18日にミラノで結ばれた条約により、教皇領によるイタリア統一が承認されることに。
この状態で「イタリアを形成」ボタンを押すことで・・・
緑色になったと思ったら・・・
↓
!!!????
教皇庁による統一イタリア、「神の王国」が形成された。
そして、この統一イタリア、改め「神の王国」創設に深い影響力を与えていたのは、ある1人のカリスマの存在であった。
ムッソリーニ枢機卿による支配
1924年3月。
イタリア統一運動を主導する急進主義政党「極左」党党首ルカ・ベルティーニ枢機卿は、同じ極左党出身の教皇グレゴリウス17世の崩御を受けて第259代教皇に就任。
その後を継いで極左党党首および枢機卿に就任したのは、当時41歳のベニート・ムッソリーニであった。
父アレッサンドロから急進主義的思想を受け継ぎ、母ローザから篤いカトリック思想を受け継いだ彼は、ボローニャの宗教学校生時代からオーストリアやフランス、ロシアに支配されるイタリア諸国の解放と民族の統一を訴え続け、その共感者たちを集め続けていた。
卒業後はジェノヴァで司教を務めながら政治運動に参加し、極左党地方機関紙の編集長にも抜擢される。
1909年にはオーストリア領ヴェネトにある支部に派遣され、そこでイタリア人ナショナリズムを喚起・反オーストリア行動を訴える記事を100本以上掲載するなど、その後の同地の独立運動にも大きな影響を与えることとなった。
これらの動きを経て彼は党内で急速に支持を集め、党最大の機関紙「アヴァンティ」の編集長に任命されるなど、不動の地位を得ることに。
1910年代後半から従来の反戦主義を唱え続ける党指導部及び教皇庁を直接非難し、積極的民族主義と拡張路線を主張。
これは資本家を中心とした実業家集団の指導者であったフランチェスコ・レツァスコ枢機卿とも共鳴するものであり、国内におけるこの勢力の影響は無視できないものとなった。
そして1916年、教皇領は従来の方針とは異なる積極的対外政策へと傾き、対オーストリア戦争及びイタリア統一運動へと突き進むこととなる。
その結果としてのムッソリーニの枢機卿および極左党党首就任は、何ら不思議なものではなかっただろう。
だが、ムッソリーニは従来の社会主義的急進主義に幻滅してもいた。
「思想としての社会主義はすでに死に絶え、悪意としての社会主義のみが残った」と語った彼は、統一運動が完了し、「神の王国」が形成されたあと、急進主義と保守主義、民族主義と親カトリック主義とが融合した新たな思想のもと「国家ファシスト党」を結成。
本来土地所有者投票法の下では不利なはずの小ブルジョワ集団が、ムッソリーニのそのカリスマ性と幅広い思想を受け入れる思想とで数多くの支持者を集め、一気に得票数を伸ばしていっている。
結果、1929年1月30日の選挙にてファシスト党が勝利。
これでムッソリーニ枢機卿は国家全体の指導者となる次期教皇の最有力候補であることは疑いようがなくなった。
そしてムッソリーニは、自らの喧伝する「ファシスト」思想のもと、法体系の変革を突き進めていく。
まずは秘密警察。これまでは急進主義者たちの圧力によって制定できていなかった国内治安維持のための法律を通し、国家の意向に歯向かう意志のある者たちを行動を未然に防ぐこととする。
この制定に向けた準備を進める中で、スイスのスパイを発見するイベントも発生。
国家ファシスト党に所属する軍部が中心となってこれを活用していくことに。
続いて1929年5月14日には移住規制の法律を制定。これまでは産業のための労働力を欲する実業家集団の意向を受けて国境を開放してきたが、民族主義者レツァスコ枢機卿の指導のもと、資本家たちもこれ以上の非イタリア民族の流入を拒否する姿勢を明確にし始めた。
そのまま市民権についても、純粋なイタリア人にのみ認めるという民族国家の法律を制定しにかかる。
カラブリアにある大学でも、イタリア人は骨格から他民族と異なる「神に選ばれた民族なのだ」という怪しげな理論を展開する学者も出てきており、いよいよ世も末となってきている。
当然、この国家の変化に対し、国内の知識人層は猛反発。
しかし知識人もマルクス主義者たちも、今やムッソリーニ枢機卿の傀儡となった教皇ルカ1世は徹底的に弾圧。
さらに「異議の禁止」法も制定したことにより、政府批判は事実上不可能となったのである。
いよいよ独裁的な権力を掴みつつあったムッソリーニ枢機卿は、その国民からの高い支持を背景に、1931年に寡頭制を再導入。一時期は急進派に対する妥協のため取り入れた選挙制度を廃止、再び有力枢機卿たちによる合議制が取られていくこととなる。
これに反対した軍部も政権から追放し、正当性が大幅に回復。90超えの「正当なる政府」として国民から認められることとなった。
こうして、小さくも経済的に世界を支配する国家を目指していた「金の国」は、強力な民族主義の下閉じた帝国を志向する「神の国」となっていくのである。
この後、この国は「ムッソリーニ教皇」によって支配されることになるだろう。
その先に、どんな未来が待ち受けているのか――それは、このゲームでは描かれない未来である。
まとめ・1936年の「神の国」
さて、それでは最終的にイタリアを統一した教皇領改め「神の王国」の最終状況を確認していこう。
まずはGDP。最終的に11億ポンドを超え、2位以下に大差をつけて正真正銘の世界最大の経済大国に成長した。
但し威信ランキングでは惜しくも届かず。最後は大規模徴兵の法律も通して常備軍も465大隊まで用意して威信伸長を目指したが間に合わなかった。
まあ、ボヘミアの摩天楼+184なんていうAIによるプレチ(?)があるからこれは仕方ない。
あと神の王国側は指導者ルカ1世による悪党補正が痛かった。ムッソリーニ教皇になっていれば1位を目指せていたかもしれない。
そのムッソリーニ教皇だが、ぜひ見てみたかったのだがルカ1世が何度繰り返しても死なず、75歳の長寿を全うし続けていたため1936年時点では見れず・・・本当に何時間もかけてチャレンジしたが果たせなかったので実に悔しい。
話を戻して今度は人口。最終的には9,268万人と、清・インドに次ぐ大帝国となった。
首都ローマのあるラツィオ州は1,400万もの人口が集まる超密集地域となり、東南アジアの植民地も軒並み100万人超えの人口を誇った。あ、サルデーニャを併合するの忘れていた。
それを受けて、最終的な収支表はこちら。
特筆すべきは、税率「普通」状態にもかかわらず、所得税収に匹敵する消費税と関税を徴収できている点。
最終的な権力は2,000ポイントを超え使い道に困るくらいであり、合計7種の物品に消費税をかけてもまだ余裕があったほどである。
関税収入内訳はこんな感じ。一時期世界の敵となり禁輸されていたが、戦後はそれも回復。関税同盟はもはや自国だけとなったが、代わりに貿易によって巨万の富を築いた。
最終的には76本の交易ルートを自ら結び、合計1,140ポイントの行政力を消費し、19万4,520隻の輸送船団を使用していた。
平均生活水準は22.5で世界6位。列強の中ではオーストリアの22.4を超え1位となっている。
識字率は79.8%で世界11位。こちらはオーストリアの81.3%には負けている。
人口統計を見ると、徹底的な民族主義の結果、南北イタリア人が8割を超え、政治利欲に関しては当然彼ら以外はほぼ発言権を持たない結果に。
元々国教政策を続け宗教学校も最大レベルにしている関係上、国内はほぼカトリック一色。一時期移民で1割ほどプロテスタントも入り込んできていたが皆改宗してくれたようだ。神の王国に異教徒も異端も住める場所などないからね?
最終的な法体制はこのような形に。
ファシズムの隆盛によって当初想定していた以上に強権的・抑圧的な体制にできたのは良かった(良かった?)。
最後に、世界の情勢を見ていこう。
ひたすら混沌としていたヨーロッパ情勢だが、ハプスブルク朝ドイツ帝国はその後再び内戦によって今度はハノーファー家によって乗っ取られ、さらにこれに対してモルトケの一族(年齢的に小モルトケの息子か?)が中心となったプロレタリア革命が巻き起こり、結局最後は共和政に落ち着いた。
さらに1930年代にはスペインでも内戦が発生。
その指導者となったのはなんとアブスブルゴ(=ハプスブルク)家。
ハプスブルク家もまた、故地オーストリアを追われた後様々な遍歴を重ねながら史実とは異なる運命を描いている様子・・・。
そんな激動のヨーロッパの1936年の姿はこんな感じ。
一度は失敗したポーランド独立も見事果たされた様子。ドイツ共和国とは貿易協定を結んでいるが、独立は堅持できている。
そして仏独とスカンディナヴィア帝国が戦争状態に突入しており、何やらきな臭い様子が・・・。
アフリカの状況はこちら。
このゲームは最終的にこのアフリカでどれだけ派遣を握れたかで順位が変わってきそう。ここでもオーストリアが広大な植民地帝国を築いており好調な経営となっている。
南北アメリカ。アメリカ合衆国が大変なことになっている。バージョンアップでアフリカへの植民が抑制された結果、アメリカが弱体化していない?
アジアは割といつも通り。
ただ、ところどころに「神の王国」ってあるのが割と笑える。太平天国みある。
どうしても教皇ムッソリーニが見たかったので、オブザーバーモードでしばらく世界を眺めてみることにする。
1936年12月25日。
76歳を迎えていたルカ1世は崩御し、第270代教皇及び「神の王国のドゥーチェ」ムッソリーニ教皇が即位した。
列強ランキングも見事1位。名実ともに世界最強の国家となった。
その後はしばらく眺めていたがとくに大きな戦争などは巻き起こらなかったのでここで終了。
人頭課税・非多文化主義・戦争による拡張なしの条件で目指した経済大国への道は、無事、成功したと言ってよいのではないだろうか。
次回は・・・さらに制限を厳しくしてみるか。
すなわち、「土地ベース課税」、実業家集団の力も借りない地主勢力だけで、どこまで経済を伸ばしていけるのか。
企画倒れにならなそうなら、やってみたいと思う。
それでは。
今回のシリーズはこちらから
【Victoria3】金の国 教皇領非戦経済 第1回 改革・内戦・死の商人(1836年~1856年) - リストリー・ノーツ
【Victoria3】金の国 教皇領非戦経済 第2回 世界経済大戦(1856年~1876年) - リストリー・ノーツ
【Victoria3】金の国 教皇領非戦経済 第3回 革命の時代(1876年~1896年) - リストリー・ノーツ
これまでのシリーズはこちらから
*1:ただ振り返ってみるとこの要求は単に悪名を増やすだけで意味がなかった。属国の解放くらいにしておけばよかった。