11世紀半ば、北アフリカの地はベルベル人のイスラム王朝、ズィール朝が支配していた。
彼らは元々はこの地を支配していたシーア派のファーティマ朝により統治をゆだねられていた勢力であったが、1051年にスンナ派のアッバース朝と結ぶことを決め、ファーティマ朝からの独立を宣言。
これを受けてファーティマ朝は、自らの領内に居住していたアラブ遊牧民=ベドウィンの一派(バヌーヒラル)を北アフリカの地に送り込み、ズィール朝の領土を襲わせることに成功。
これによりズィール朝(Zirid)はチュニジア東部海岸部を保持する都市国家へと縮小し、北アフリカの地にはカイラワーン(Kairouan)、トリポリタニア(Tripolitania)、キレナイカ(Cyrenaica)といったベルベル人の諸部族が支配する混沌とした状態となったのである。
今回プレイするのは、そのうちのトリポリタニアを支配した「ゾーグバディット家」。
現実の歴史には名を残していないベドウィンの一部族に過ぎない彼らが、歴史上に残る大帝国を築き上げるまでの足跡を辿っていく。
目次
ゾーグバディット朝の成立(1093年)
1066年9月15日時点でのゾーグバディット家の当主はアブド=アッラー・イブン・サイード(34歳)。
勇敢で勤勉、かつ思いやりのある男で、とくに学識と信仰に優れている、優れた君主であった。
前代の父サイードは1066年の1月に崩御しており、新たに当主の座に就いたばかりであった。
トリポリタニアは現時点で3州しか持っていない小国であり、まずは勢力拡大が重要となる。
狙いを付けるのは隣国の同じベドウィン部族国家であるキレナイカ(Cyrenaica)。
その族長であるジャファー・イブン・キラブ(49歳)は総兵力1,480と、1,098名しか兵を持っていないアブド=アッラー独力では敵う相手ではない。
よって、その南に位置するジャドー(Djado)のベルベル人君主、タキヤ・イブン・イスマイール(26歳)の娘をアブド=アッラーの妃に迎え入れ、同盟を締結。
その総兵力2,622名を借り受け、早速キレナイカへと宣戦布告する。
キレナイカ側にはアグリジェントの領主アリーの軍687名も加わるが、それでもトリポリタニア・ジャドー連合軍3,800名の方が優勢。
1068年9月23日。トリポリタニアの首都ジェルバ(Jerba)を包囲中の敵連合軍に対し攻撃を仕掛け、これを殲滅した。
以後、情勢はトリポリタニア・ジャドー連合軍側に優勢に傾き、キレナイカの各諸都市を次々と占領。
ついに1068年11月14日。2年にわたる戦争が終結し、キレナイカの一部ラブダ(Labda)を割譲させることに成功した。
さらに領土を拡大していき、ゲーム開始から13年後の1079年には6州を領有。
同じバヌーヒラルのカイラワーン(Kairouan)族長ムニス・イブン・ユーカンナ(49歳)の娘とアブド=アッラーの次男とを婚約させ、同盟を締結。
フェザーン首長国と名前を変えた元ジャドーのタキヤ・イブン・イスマイールの軍3,043と合わせ、合計8,829名もの大規模な連合軍が出来上がる。
これをもって、チュニジアを支配するズィール朝スルタン、「愚かなる」タミームに宣戦布告する。
目標はそのアシュアリー派スルタンの位。
学識ライフスタイルを進めることで解禁する「請求権の購入」で信仰点1,000ポイントを支払い、1079年2月23日、いざ開戦!
戦争自体はあっけなく終わりを告げた。
ズィール朝側にはアラビアを支配するイスマーイール派ベドウィンのハシミド氏族(総兵力3,173)が同盟国としてついていたが、それでもトリポリタニア連合軍の8,900には敵うはずもなく、開戦から1年後の1080年2月26日にはズィール朝の首都マフーディヤを占領。
これをもって終戦。ズィール朝は滅亡し、新たにゾーグバディット家の主導する「アフリカのスルタン国」が成立した。
アフリカのスルタン国・・・?
どうやら、一般的なイスラーム国家である「〇〇朝」という名称にするためには、現在の部族制を脱し、氏族制へと移行しないといけないようだ。
ひたすら威信を貯め、時を待ち、氏族制移行に必要な部族権限(Tribal Authority)のLv4獲得を目指す。
そして、1093年1月28日。
ついに、ベドウィンの一部族の頭領に過ぎなかった男、アブド=アッラーが、自らの王朝を建国するに至った。
同盟国カイラワーンもゾーグバディット朝の傘下に入ることを認め、ズィール朝を廃し新たに成立したゾーグバディット朝は北アフリカ一帯を支配する最大国家へとのし上がったのである。
ゾーグバディットの名が、歴史に刻まれた瞬間であった。
カイロ入城(1107年)
次なる目標は、かつて自分たちが居住していた地エジプト。
そこに座するシーア派のファーティマ朝を廃し、スンナ派の帝国を取り戻すこと、それが60代後半となり人生の終わりが近づきつつあったアブド=アッラーの最後の望みであった。
そして1098年8月27日。
ゾーグバディット朝はキレナイカのすべての領土を征服し、いよいよファーティマ朝と国境を接することに。
しかも折よく、このときファーティマ朝は教皇ルキウス2世による第一次十字軍によりエルサレムを占領されるなどかなりボロボロの状態。
早速、アレクサンドリア首長領を標的にして開戦する!
とくに抵抗らしい抵抗を受けることなく推移し、2年後の1100年12月15日。ファーティマ朝の首都カイロやピラミッドの残るギザなど中心部をすべて制圧し、終戦。
これらのことにより威信を失ったからか、ファーティマ朝君主ムラードは36歳の若さで謎の怪死。
その子アブー・マンスール(15歳)が若くしてカリフ位を継ぐが、これを認めない国内勢力が蜂起し、かつての大国は完全にバラバラになってしまった。
1105年10月23日。
カイロの領有権を主張して再度、このエジプトの勢力に宣戦布告。
だが同時に、ファーティマ朝に臣従していたはずのアラビアのハシミド氏族もエジプトの支配圏を狙ってカイロに攻め込む。
そして1106年12月11日、このハシミド氏族によってハシミド朝が興り、エジプト及びアラブの新たな支配者となった。
「すでに我々の共通の目標は失われた。ここは其方のカイロ征服という野望を捨てて、矛を納めぬか? さもなくば・・・」
と迫るハシミド朝スルタン、アブドゥル=ガフル(23歳)。
その総兵力は6,180。決して簡単な相手ではないが・・・
カイロを手に入れなければ、この戦争の意味はない。
大国・ハシミド朝を新たな敵として、戦争を継続!
1107年1月24日。ピラミッドが見下ろすギザの地で、互いの総力をかけた激戦を開始。
兵量では勝るが、質(=常備軍の数の差)では劣勢に立たされていたものの、およそ1ヵ月に渡る激戦の末、辛くも勝利。
これにより優勢に傾いたゾーグバディット軍は、1107年9月29日、ハシミド朝を降伏させる。
ようやく、エジプトで最も栄えたる都市、カイロを手に入れることとなった。
偉大なる治世の終焉(1111年)
戦争によって荒廃したカイロを立て直し、首都をトリポリタニアのジェルバからカイロに遷都。
すべての準備を整えたうえで、初代ゾーグバディット朝スルタン、建国の父アブド=アッラーは、間もなくその79年もの生涯を終えようとしていた。
1111年11月15日。
彼が即位してから実に45年。
巨大なるゾーグバディット朝を建国し、カイロも手に入れるという偉業を一代で成し遂げた男、アブド=アッラーが大往生を遂げた。
北アフリカの小部族の1つに過ぎなかったゾーグバディット家が、今や北アフリカ一帯を支配する巨大な帝国へと成長。
そして、彼の意志を継いだ後継者たちによって、この帝国はさらなる発展を遂げていくこととなる。
第2回「エルサレム奪還」へ続く。