女王ヴィクトリアが即位してからの最初の10年は、サー・ロバート・ピールとメルバーン子爵ウィリアム・ラムによる自由主義の時代であった。
しかしそのメルバーン子爵も1845年末に没し、代わって自由党の党首に躍り出たのは急進派ジョン・ラッセル卿。
穏健左派に属するピールとの蜜月も終わり、選挙制度改革を求める労働者たちによるチャーティスト運動の指導者フェアガス・オコナーと連合したラッセル卿は新たにチャーティスト党を立ち上げ、1852年選挙で圧勝した。
民意を盾に勢力を拡大していく彼ら急進派勢力はやがて、王制の廃止をヴィクトリア女王に迫る。
「シンガポール電報事件」もあり、精神的に疲弊していた女王は最終的にこれに同意。しかし、一つだけ、条件をラッセル卿に突きつけた。
それは、自らが退位して王制を終わらせることに同意する代わりに、その「グレートブリテンおよびアイルランド連邦共和国」の初代首相として、彼の夫であるザクセン=コーブルク=ゴータ公弟アルバートを据えるということ。
即答はできなかったラッセル卿であったが、混乱なく女王の退位を果たし共和制をスタートする上でそれが最善の手であることには同意し、ついにその条件を呑むこととなった。
かくして1856年9月19日。
英国はその歴史上初となる王制の廃止と共和制の開始を宣言。
その「多文化主義共和国」初代首相として、「ドイツ人」のアルバートが選ばれることとなったのである。
だが、ヴィクトリアが願った「国民の幸福」は、彼女の夢とは異なる形で実現していくこととなる。
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目次
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金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り
アルバート内閣
クリミア戦争
1856年9月20日。
王政廃止が決定し、ヴィクトリア女王の最後の挨拶がバッキンガム宮殿のバルコニーから行われ、それまで共和制を強く支持していたはずの国民の多くが詰めかけ、熱い涙を流したその翌日。
ロンドンの街中の広場では、彼らとは異なった種類の国民たちが集まり、熱狂に包まれていた。
民主進歩党政権の一員であり、第4代アバディーン伯ジョージ・ハミルトン=ゴードンに代わって小ブルジョワ(都市中流階級層)の指導者となっていた若き急進主義者ロデリック・マッキーを中心とした、熱烈な共和派の喧騒であった。
ヴィクトリア元女王のことをあろうことか「暴君」と呼びさえするこの集団が同じ政権を握る同胞たちだという事実を苦々しく思いながら、アルバート首相はこの喧騒を遠巻きに眺めていた。
彼には目下、対処しなければならない課題があった。それはすなわち、この共和政移行に際しての英国の混乱を狙ったかのようなタイミングでロシア帝国が突きつけてきた東インド会社に対するシク王国の領土返還要求である。
無理もない。この10年、東インド会社はシク王国の領土であったカシミール地方およびパシュトゥーニスタンを奪い取り、中央アジアやアフガニスタンにもその食指を伸ばしつつあった。
これは、南下政策を取ろうとするロシアの利害と完全に衝突していた。これまでは宗主国イギリスの存在ゆえに行動に移せなかったロシアも、「革命」により英国が混乱に陥った今ならば、と判断したようだ。
だが、そうはいかない。
今回の英国の共和政移行は、かの国が思っているような国家転覆事案ではない。それは、聡明なる女王陛下の御心と国民の協力によって成立した、平和的な禅定であったのだ。
そう確信するアルバート首相は直ちに連邦共和国軍全軍に動員を指示。「王党派」の共和国軍最高司令官ギルドフォード・フェロウスもすぐさまこれを受諾し、共和国陸海全軍33万の兵は直ちに臨戦態勢へと突入した。
この反応はロシア外相カール・ロベルト・ネッセルローデにとっては意外だったようだ。きっと英国は折れる、あるいは妥協するに違いないと踏んでいた彼の思惑は見事外れ、1857年1月8日、英露戦争が開幕した。
開幕したものの戦線はどこにも生まれておらず、双方どちらかの敵本土への「上陸戦」によって初めて戦闘は開始される。
先手を打つべくフェロウス司令官が考案したのは、共和国地中海艦隊最高司令官アレクサンダー・ミルネ提督による、黒海を突っ切ってのクリミア上陸作戦である。
ロンドンの港を出港し、ジブラルタル、マルタ、そして黒海西岸のブルガスを経て旗艦HMSロード・ウォーデンを中心とした共和国第1艦隊は、1857年3月9日、エドワード・マクフィー大将率いる7万の兵をクリミア半島の要衝セヴァストポリ要塞に突入させる。
どうしても数的不利になりがちな上陸戦ではあるものの、ロシア軍は未だナポレオン戦争時代の装備をそのまま使用しているような有様で、戦闘は英軍有利に推移する。
マクフィー大将はセヴァストポリを攻めつつ、さらにシンフェロポリ、ケルチにも波状的に上陸戦を仕掛け、ロシア軍を撹乱させることに成功した。
1857年5月2日にはこの上陸作戦を成功させ、クリミア半島全土を占領。ウクライナ平原への重要な橋頭保を確保したのである。
さらに、ジョン・ミラー提督率いる北海艦隊も同時期にバルト海に侵攻。
フィンランド海軍の妨害を受けるも、世界に先駆けて蒸気駆動の装甲艦を導入している共和国海軍の敵ではなかった。
フィンランドへの上陸にも無事成功し、南北2戦線で同時に攻め込まれるロシア軍の前線は混乱。
瞬く間に進軍する共和国軍は9月9日は敵首都サンクトペテルブルクの目前にまで迫ることとなった。
しかし、さすがのロシア軍も首都を目の前にされたときの抵抗は激しかった。
1858年3月にネヴァ川の対岸部分をすべて制圧した共和国軍は、そこで首都防衛を任されたロシア軍最高司令官ミハイル・ヴォロンツォフ元帥による決死の防衛の前に戦線は暫く停滞することとなった。
その後もネヴァ川の渡河は成功しないまま月日だけが流れていくが、その間にもマクフィー大将は東インド会社軍と連携してウクライナ地方をほぼ全土平定。
ついには1858年9月11日。ロシア帝国は自らこちらの要求をすべて受け入れる形での和平を提案。
これを呑み、1858年9月12日にロンドン条約が締結。ロシアは英国に対し総額643万ポンドの賠償金を支払うと共に、ウクライナ・フィンランドの独立を認めることを約束した。
これで英国はロシアの喉元に2つの同盟国を手に入れることとなり、安全保障における重要な前進を果たすこととなった。
ひとまず最初の政治的課題を「成功」させたアルバート首相。
しかし、その足元では、新たな時代のうねりが巻き起ころうとしていた。
煽動者ロデリック・マッキー
クリミア戦争での勝利は体制派の国民たちを大きく沸かせた一方、莫大な戦費は財政に重くのしかかり、このことに対して批判的な一団を出現させもした。
彼らは「外国人」が首相の座に留まっていることそのものに批判的であり、今回の戦争も「インド人*1のためになぜ英国が犠牲を払わなければならないのか?」と口汚く主戦派を罵った。
その中心にいたのはやはりこの男。「保守的でありながらときに革命的」な浮遊層小ブルジョワ集団を率いるアジテーター、ロデリック・マッキーである。
「ドイツ人」アルバート首相に対しても公然と批判を口にするマッキーに対し、アルバート首相はもちろん、1857年のオコナーの死により新たに労働者階級の指導者となった「伝統主義者」のエドワード・マクフィー大将も否定的な感情を持ち始め、今や先の選挙で圧勝した民主進歩党は分裂の危機に瀕していた。
だが、事実マッキーは実に巧みな扇動者であった。そして彼は、今やこの国の政治的影響力の中枢を担う中産階級たちの不安に付け込むのが異様に巧かった。
例えば、ジョン・ラッセル卿やフェアガス・オコナー率いる知識人層や労働者勢力が中心となって進めてきた多文化主義政策の結果、ロンドンの街中には純粋な英国人は7割にも満たず、「同胞」北部アメリカ人はまだしも仇敵とも言えるフランス人までもが堂々とした姿で歩いているのである。非国教徒やイスラーム教徒まで、我が物顔で街を歩いているほどである。
さらに、オコナーが強硬に進めた「賃金助成」の法律によって、これら「外国人」や「異教徒」の無産市民たちが英国人の血税を貪っているような不当な状況。
これら「自由で開かれた国」の背景にある社会不安の高まりを、マッキーは巧みに掬い上げ、そしてそれをさらに増幅させていった。
そして前小ブルジョワ指導者であったアバディーン伯から受け継いだ「メディアの使い方」も一級品であった。
例えば1859年に出版されたチャールズ・ディケンズの『二都物語』はロンドン市民にも広く受け入れられたが、そこで描かれたフランス革命と共和主義者たちの暴力の過激さはまるでマッキーら急進的共和主義者たちを揶揄しているようにも読めた。
少なくともそう捉えた一部のジャーナリストたちはこれにかこつけてマッキー派勢力を批判し始めたため、彼は議会で演説の機会を得て、この「行き過ぎた」ジャーナリズムに対する牽制を行ったのである。
さらにマッキーはこのメディアコントロールをエスカレートさせ、「保守的になってしまった」知識人層や労働者階級への批判論陣を大々的に展開。
庶民院ではアルバート首相およびマクフィー大将に対する弾劾決議まで行われた結果、知識人層と労働組合は民主進歩党から離脱。
間もなく行われた1860年2月1日の選挙では小ブルジョワ単独政党となってしまった民主進歩党がそのまま圧勝し、元女王が望んだ「自由で開かれた」アルバート内閣はわずか4年で引き摺り下ろされ、新たにマッキー内閣が成立することとなった。
マッキー内閣
「共和国市民法」と非公式帝国の拡大
知識人、そして労働者階級を駆逐した小ブルジョワ政権では、早速彼らのイデオロギーに基づく法整備改革が進むこととなった。
まずは街中に溢れる「外国人」失業者たちへの対策。
彼らを養うための「福祉」の存在は、常に当たりようのない不満に苛まれ続けている中産階級たちの怒りの矛先となっていた。体感的に日々増えていく犯罪も、根拠なく彼らがその犯人であると決めつける風潮が生まれつつあった。
この「国民」の不満に応えるべく、マッキー政権が最初に手を付けたのは「共和国市民法」と称する一連の制度改革である。
それは段階的な法改正を重ね、最終的には1862年8月14日、「国民至上」法の制定をもって完成した。
この法律の下ではグレートブリテンおよびアイルランド連合共和国の公用語は厳格に英語と定められ、ヨーロッパに民族的ルーツを持ち「適切な」英語を話すことのできる者だけが正式な「共和国市民」として認められた。
それは明確にアイルランド人を排斥する意図をもった法律でもあり、ここに、ピール・メルバーン子爵そしてヴィクトリア元女王の完成させたアイルランド解放政策は完全に消滅することが決まったのである。
アイルランドの名を含む共和国を名乗りながら、その「市民」から彼らを排除するこの法律のことを、反対者たちは影で「ブリテン市民法」と呼んだという。
一方、マッキーら英国至上主義者たちは同時に同じ英語を喋るヨーロッパ系外国人のことは「同胞」と呼び、親交を深めていった。
たとえば大陸のフランスやロシアといった「異邦人」たちとは対立する一方で、大西洋を隔てた新興国アメリカとは1862年11月14日に「英米同盟」を締結。
この蜜月の1つの形として、新大陸との間に「海底電信ケーブル」を敷設するという一大プロジェクトが立案される。
プロジェクトに対して各地域の資本家たちから資金を集めるイベントを進めつつ、一定の資金が溜まるといよいよ艦隊が出港する。
最終的には2年程かけてこの敷設は完了し、最後は大西洋を挟んだ2つの国家により世界初の長距離通信が行われることとなった。
さらに植民地政府に統治させていたオーストラリア、カナダをそれぞれ自治領(ドミニオン)として独立させ、緩やかな英連邦(Britsh Commonwealth)の一員として組み入れた。
一方で南アフリカの地に建てられていたケープ植民地は併合し、共和国の直轄領として支配を強化。さらに北部に追いやられていたボーア人やズールー族も武力をちらつかせて支配下に置いた。
これは表向きの理由としてはこの地の多数派が英国人ではなく現地アフリカ人やボーア人で占められており、自治領として独立させるには「教育」が足りないというものであったが、その実態はこの地で豊富に取れる茶葉の存在である。
かねてより紅茶に対して強い執着を持つ英国人であったが、その規模が拡大する中で需要は際限なく膨れ上がり、もはや清からの輸入や植民地政府による悠長な栽培だけでは圧倒的に足りなくなりつつあった。
同じ理由で1871年に東インド会社も解体し直接併合。同じく市場で不足がちなアヘンと共に、本国政府の介入で直接生産に乗り出したのである。
その他、世界各国に保護国や傀儡国、関税同盟締結国といった「非公式帝国」を広げていく英国。
今やその経済力は他を圧倒するほどの勢いを見せ、ここに、「パクス・ブリタニカ」と呼ばれる繁栄の時代を迎えたのである。
パクス・ブリタニカ
ロデリック・マッキーが政権を握った1860年以降、20年近くに渡り英国は繁栄の時代を迎えることとなった。
たとえば1871年当時のロンドンの出版産業は80.5という驚異の生産性を記録。
さらに英国で生産される13万の大衆紙と4万6千の高級紙は貿易を通じて世界各国に届けられ、とくに香港の取引所では清国内に対し毎週7,000単位以上の出版物が輸出されている。
今や英国から清に向けての最大の輸出品はアヘンではなくニュースペーパーであり、莫大な関税収入がその価値を物語っている。この世界ではアヘンではなく、『タイムズ』や『デイリー・テレグラフ』が、茶葉や絹の代金として支払われているようだ。
この繁栄を受け、出版に関わる「ジャーナリスト」たちは英共和国内で資本家に次ぐ政治団体に成長した。
彼らの多くはマッキーら小ブルジョワ勢力を支持し、その社会的影響力の高さでもって政権の支持者を世界中に広げていくこととなったのである。
その結果、民主進歩党以外のあらゆる政党はもはやそれを維持するだけの力を失い、「自己解散」を選ぶこととなった。
1872年選挙では民主進歩党「のみ」という奇妙な選挙となり、ここに小ブルジョワ一党独裁体制が確立することとなった。
その政策は共和国内に住むすべての人民を幸福にするものではない。
しかし、少なくとも「共和国市民」(すなわちこの国における唯一の有権者)たちにとってそれは間違いなく地上の楽園のような場所であり、3000万近い体制派の存在はその事実を物語っていた。
この20年は「パクス」と呼ばれながらももちろん全くの戦争のない平和な時代だったというわけではなく、とくにアフリカにおける植民地の拡大は現地の先住民との摩擦を引き起こし、たびたび大反乱を招くこととなった。
もちろん、この反乱に対してはすぐさま共和国軍を派遣。圧倒的な武力の差でこれをただちに鎮圧した。
そしてこの虐殺とも言える一方的な戦いにおいても、現地に派遣された戦場ジャーナリストたちによって英共和国軍人は英雄的に描かれ、マッキー政権の帝国主義的な側面も広く「国民」の支持を得ることにつながったのである。
まさに盤石。
1872年選挙の勝利によってマッキー内閣は4期目を迎え、かのロバート・ピール政権を超える長期政権化。
その繁栄は永遠のものであるかのように思われていた。
しかし・・・
「帝国」の終焉
与党・民主進歩党以外の政党はすべて解散し、民主的な政策の下での一党独裁を完成させたロデリック・マッキー。
その繁栄と支配は永遠のものになるかと思われていた。
しかし、元々確固たるものなき「浮動層」であることが彼ら小ブルジョワ勢力の特徴である。長期すぎる安定はやがてそこにカオスがもたらされることを自ら望んでいくこととなる。
簡潔に言えば国民たちは「飽いて」いた。彼らは若き新鮮な扇動者から20年近く君臨し続けてきて40を超えたロデリック・マッキーという「王」の存在に、些か身勝手ながらも退屈をし始めていたのである。
そんな彼らにとって、新たな「英雄」となりうる存在が登場した。
1874年6月18日。
力を付けてきた小ブルジョワ勢力の妻たちを中心に、彼女たちの「参政権」を求める運動が巻き起こる。
その中心に立ったのが、進歩派のジャーナリスト、ウィリアム・バーテロットの妻カミーラ・バーテロットであった。
より若く、そして過激な主張を繰り返すこのバーテロットの存在は、かつての「世界を変えてくれる」勢いを感じさせていた若き日のマッキーのことを思い起こさせ、次第に人びとはこのバーテロット女史を新たな時代の英雄として持ちあげることとなった。
一方、その存在が自らの立場を危うくしかねないと危機感を抱いたマッキーとその周辺はこの女性参政権運動、すなわち第4次選挙法改正運動に対しては徹底的な弾圧を加えにかかった。
しかし、一度進むべき方向を定めた群衆の力は、それまでそれを利用し続けてきたマッキー自身にも、もはやコントロールの利くものではなかった。
そして1875年4月24日。議会の賛成多数によって第4回選挙法改正が可決。すべての女性に参政権が認められることとなった。
この動きに対し、マッキーは最悪の手を差してしまうことに。
1876年1月1日。
マッキー政権は突如、バーテロットを贈収賄容疑で逮捕。その地位をすべて剥奪した。
それが確たる証拠によって行われたものなのかどうかは分からない。
しかし少なくとも多くの「国民」はこれを不当逮捕であると判断。
全英各地でこれまでにないほどの大暴動が巻き起こったのである。
マッキー首相はこの状況に対応すべく、ただちに緊急事態宣言を発令。軍隊を動員し鎮圧を図るが、怒れる「国民」たちは抗議の手を緩めず、口々にマッキーの退陣を要求するようにすらなる。
そして1876年2月1日。本来であればマッキー政権の5期目を確実なものとするための戦況が行われるはずだったその日、「国民」たちは皆投票をボイコットし、「得票なき選挙」が行われるという前代未聞の状況となった。
マッキーはこの結果を受け、ウェストミンスター宮殿で総辞職を宣言。合わせて民主進歩党の解党も宣言した。
結果、イギリス議会には政党な諸勢力が均衡し合う力で乱立する「戦国時代」へと突入することとなったのである。
混沌とする英国政治。
ともかくも、一時的な安定を用意せねば、国家が分裂する危機すらありうる。
では、誰がこれを一時的にでもまとめうるのか?
各派閥思惑が入り乱れる中、その妥協的合意の下、白羽の矢が立てられた人物がいた。
彼の名は、アルバート。アルバート・オブ・サクス=コバーグ=ゴータ。
ヴィクトリア元女王の夫であり、20年前の共和政移行の際にその統合の象徴となったこの男が、混乱期において再びこれを鎮める期待を込めて擁立されることとなった。
彼もまた、決意を込めていた。決して、権力のためではない。混乱が落ち着くそのときまでのあくまでも時限的な措置であることを明言し、神tと国民のために尽くすことを宣言し、「第2次アルバート内閣」が発足することとなる。
そしてアルバートはこの「暫定政府」を円滑に運営するために、もう1人の協力者を募ることとなった。
それは実業家集団を指導するライオネル・ド・ロスチャイルド。
スエズの土地購入における資金のほとんどを融資したことでも知られる、「ユダヤ人」銀行家である。
アルバート公の親友であったライオネルもまた、権力への志向ではなく、愛するこの英国の正しき未来のために、残り少ない人生と資産とをこの局面に「投資」することに決めたのである。
史上最大の繁栄の直後に訪れた、未曾有の国家的危機。
この事態に対応すべく、ドイツ人とユダヤ人という、2人の「非共和国市民」が立ち上がった。
果たして、大英共和国の未来には何が待ち受けているのか――。
第4回へ続く。
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