「奇跡」を現実のものとし、実現に至ったサヴォイア朝イタリア王国。
しかし、その立役者であったヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とカヴール亡き後、混乱の時代が訪れることとなる。
まず政治的主導権を握ったのは「民族主義者」ガブリエーレ・ダンヌンツィオ。
彼はイタリアをより偉大な国とするべく、清や日本など東アジアの国々に侵略し、南米など世界中に関税同盟を広げていった。
だがこの拡大を警戒したフランス帝国に仕掛けられる形で伊仏戦争が勃発。
イタリアは何とかこれに勝利するも、肥大化した軍事費により国家は破産寸前となり、これを批判した共産党が勢力を拡張。
矢継ぎ早に繰り出していった財政再建策の成功と、微粒子病の解決、女性参政権の実現などの改革によって、彼らは過半数の議席を獲得し、政治の実権を完全に掌握することとなった。
兼ねてより王政の廃止すら主張することに憚りのなかった彼らであったが、1908年に勃発した「イギリス内戦」に絡み議会との対立が決定的となった国王エフィジオ1世は、共産党の息がかかった軍部による圧力に耐えかねて国外に脱出。
1908年8月3日に公布された新憲法により、イタリアは正式に共和国となることが宣言され、初代首相に軍部指導者エンツォ・ダゼーリョが就任することとなった。
奇跡の果てに実現されたサヴォイア・イタリアの夢は、わずか30年にも満たない儚い生涯を終え、塵となって消えていった。
それでは、「その後」のイタリアの運命を眺めに行こう。
共産党勢力と、これに対抗しようとする民族主義者たち。
この政治的闘争の末に、イタリアは、果たして「世界一の帝国」となることはできるのだろうか。
Victoria3プレイレポート/AAR第14弾「サルデーニャ=ピエモンテ」編最終回「イタリアの夢」。
最後までご覧頂けると幸い。
Ver.1.3.6(Thé à la menthe)
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- No Fog of War
- No red smoke
目次
第3回はこちらから
国家ファシスト党の躍進
イタリアの王政が廃止され、イタリア共和国が成立してから初となる1910年の選挙に向けて、政界の再編は前述した「イタリア社会党」の誕生だけではなかった。
これまで「極左」党の中心的人物であった民族主義者ガブリエーレ・ダンヌンツィオが新たに「国家ファシスト党」を結成。
極左党時代よりもより過激な民族主義とローマ帝国時代を模倣した儀礼的手法・用式の徹底を特徴とする国家ファシスト党は、それまで自らも属していた左派からの決別を宣言。
従来の支持者のみならず、共産党思想の拡大に警戒心を持つ一部の有権者たちは、これに対抗しうる存在としての国家ファシスト党へ期待を寄せ始めていた。
特に、共産党政権が「人道主義者」の扇動者ピエルフランチェスコ・オッタヴィアーニと組み制定した「多文化主義」は、誇りあるイタリアが異民族によって侵されてしまうことの危険性を訴える訴えるダンヌンツィオにとっての追い風となっていた。
ダンヌンツィオは力強く訴える。
共産党とそれに連なる左派勢力は、巧みに民族の独立の成果を喧伝し、自分たちこそがイタリア民族の旗手であると主張するが、それは彼らの本当の目的のことを考えれば欺瞞であることが分かる。彼らが思想的根拠を置くマルクスは戦術的には民族主義を許容しつつ、最終目標としては民族を超えた超国家的な体制を志向している。先のアフリカ人、アジア人への差別を禁じた新法がまさにその根拠だ!
それくらいならばと気を許してはいけない。ロシア人のマルクス主義者が唱えている説で言えば、その国際的な共産主義の広まりを目指す「橋頭堡」として、共産党以外の政党を認めない非民主的な体制を目指そうとすらしている。彼らは我々から民族の誇りのみならず、我々が価値をおいてこの100年求め続けてきた自由と民主主義すら奪おうとしているのだ!
彼らを信じるな。そして、彼らが信じたイギリス共産党政権も、私たちは信じるべきではない。彼らは必ず、牙を剥く。そのとき、先のイギリス内戦への介入に唯一反対した政党が我々だけであったことを十分に覚えておくべきである。
ダンヌンツィオのこの訴えもあり支持者を集めた国家ファシスト党は、1910年の選挙で共産党の勝利を阻むことはできなかったものの、イタリア社会党を越える得票で持って野党第一党へと上り詰めた。
そして、ダンヌンツィオの主張を現実のものとする出来事が、翌1911年に巻き起こる。
ダンヌンツィオが影響力を持っていた極左党政権時代に広げていた地中海一帯の関税同盟圏。その一角であるチュニスとその同盟国モロッコに対し、アメリカ合衆国が干渉を仕掛けてくる。その際に、まさかのイギリス共和国もまた、アメリカ側についてこちらに敵対してきたのである。
防衛協定を結んでいたイタリアもここに介入せざるを得ず、1911年7月10日に開戦。
モロッコに上陸してきたアメリカ軍を、現地に派遣したイタリア軍で撃退するなどなんとか対応していたものの、翌年3月、その隙を突いてイギリス軍がイタリア本土に上陸。
ただちに全軍をイタリアに戻して撃退を目指すも、さらに上陸してきたアメリカ軍と、1,600を超えるその徴募兵の数に圧倒されてなかなか押し出し切れない。
結果、1913年7月にイタリア政府は敗北を認めざるを得なくなり、降伏。
実害はほぼない条約内容ではあったものの、同盟国であったはずのイギリスの裏切りと屈辱によって、国民の反共産党感情は大きく膨れ上がりつつあった。
そこでさらなる動きとして、女性参政権運動を推し進め、その支援をしてくれた共産党政権とは協力関係にあったはずの扇動者ソフィア・マーティンが、国家ファシスト党への支持を表明。
彼女は排外主義的なイタリア人中所得者層の代表として、移住規制法の制定を求める政治運動を過激化させ、それは実際に暴力行為にまで発展しうるものとなりつつあった。
ファシスト党に対抗しようとする勢力も手段を選ばなくなっていき、イタリアの租借地であった日本の神戸で、国家ファシスト党への支持を訴える運動を行っていたカトリック宣教師パスクァーレ・カドルナが何者かに襲われるという事態が発生。
まるで内乱のような両翼の激しい政治対立の末、1914年に行われた選挙では僅かな票差ではあったものの、国家ファシスト党が第一党を獲得。
ダンヌンツィオはついに首相の地位を手に入れるに至ったのである。
とはいえ、僅差の選挙戦の末の勝利であり、政権を維持すべく、共産党と対立関係にあるイタリア社会党との連立を組む必要がある状態でもあった。
ゆえに、ダンヌンツィオも現状の法体制を大きく変えることはできず、そのことは党内からの反発も少なからず招くこととなった。
その中で新たに発言力を付けてきたのがこの男――ベニート・ムッソリーニであった。
ムッソリーニの台頭
1883年7月29日にイタリア王国のエミリアで生まれたムッソリーニは、熱心な社会主義者である父の影響を受け、その政治的キャリアを共産党でスタートさせ、のちに分派したイタリア社会党へと移ることとなった。
しかし自らも従軍した西地中海戦争(先述した英米によるイタリアとチュニス・モロッコを標的とした戦争)の顛末や、ここを批判しきれない自党の姿勢に限界を感じ、のちに1914年の選挙結果をもとに連立を組むこととなったダンヌンツィオ率いる国家ファシスト党にこそ、自らの目指すべき方向性に近いところがあると確信するに至り、連立政権発足まもなく、彼は国家ファシスト党へと移籍することとなる。
一方、政権を取った国家ファシスト党は、前述の通りイタリア社会党との連立の中で、思うような政策を進められずにいた。
一つの成果としては、ソフィア・マーティンが強く要求し、内乱の可能性すら帯びていた「移住規制」法の成立。
しかしこの法律が対象とする「差別者」が「多文化主義」法にて存在しないことになっている以上、単独では無意味な法律となってしまっており、続けて党内主流派は多文化主義法の改正を求めるも、イタリア社会党の離反を恐れる執行部は二の足を踏み続けていた。
その中で、移籍してきたばかりのムッソリーニはダンヌンツィオら執行部の批判を公然と行い、不満を持っていた党内主流派を惹きつけ始める。
党の分裂を恐れる執行部はムッソリーニと話し合い、彼の意見を受け入れた上で、1916年6月にイタリア・トルコ戦争を勃発させる。
イタリアにとっての戦略的重要地点であるバルカン半島西部アルバニア。20年前の極左党政権時代に勃発した「世界戦争」においてオスマン帝国からドゥラスの港を奪い取ってはいるが、その支配領域をさらに拡張させることを目的として、開戦に至ることとなった。
敵側にはオーストリアや清もついているが、今や世界1,2を争う陸軍兵力を持つイタリアの敵ではない。アルバニア地域のみならずオーストリア方面でも占領地を広げつつ、1年後の1917年5月にはオスマン帝国の完全降伏。
イタリアはバルカン半島最大のGDPを誇るアルバニア地域をの完全制圧を実現したのである。
この軍事的成功は確かにファシスト党ヘの支持を後押しすることに繋がり1918年の選挙ではさらに勢力を伸長させた。
そしてもう一つ、同じく戦争によって、ムッソリーニは党内での地位を確立させることとなる。
ことが起きたのは1921年3月9日。
イタリアの最も古い同盟国としてこれまでも数多くの戦争に追従してきてくれていたメキシコ合衆国で、エミリアーノ・サパタ率いる革命軍が蜂起し、合衆国政府が危機的状況に陥ったのである。
当然、同盟関係にあるイタリア政府もすぐさま支援を申し出るが、ここに、共産化していた元同盟国スカンディナヴィアとプロイセンが介入。
イタリア社会党の顔色を窺う党執行部は戦争回避の道も探り始めようとしていたが、ムッソリーニら強硬派はこれを断固として拒否。
執行部の決定を待たず、自身の影響下にある提督を中心とした共和国海軍の一部をカリブ海に派遣し、スカンディナヴィア・プロイセンによる輸送船の妨害任務を与える。
その上で執行部を説得しきり、主力陸軍をメキシコへ派遣。
同年7月22日にこの「メキシコ革命戦争」という名の共産陣営vsイタリアの代理戦争は幕を開けた。
サパタ率いる革命軍は、イタリア軍も手を出せない内陸に位置する首都メキシコシティをただちに制圧。一方のイタリア軍は伊仏戦争時代から活躍する名将アルマンド・ディアズ元帥の猛攻で次々と敵軍を薙ぎ倒し、そのメキシコシティ解放に向けて突き進んでいく。
開戦から7か月後の1922年2月25日にメキシコ革命軍は降伏。
迅速な対応で同盟国の危機を救ったムッソリーニは党内外から称賛された一方、この期に及んで優柔不断な姿勢を取り続けていたダンヌンツィオに対しては激しい突き上げが行われるようになってしまった。
そして同年4月。
ダンヌンツィオは自ら党首及び首相職を辞することを表明。
これを受けて行われた党首選において圧倒的な得票数でもってムッソリーニが勝利。
イタリア共和国第3代首相として、ベニート・ムッソリーニが就任することとなった。
そしてムッソリーニは、彼を讃える民衆に向けて、宣言する。
かつてこの国は、1つの夢を叶えた。それは独立した、統一された祖国を持つという夢。それは我々の偉大なる先人たちによって、確かに叶えられた。
ここに、私はもう1つの夢を、誇り高きイタリア人の夢を、掲げよう。
それはすなわち、我々イタリアこそが、世界最高の国家であると証明する夢を!
「世界最高の国家」――すでにイタリアは、その位置にかなり近いところにまで到達していた。
だが、それを確実なものとするためには、イギリスの存在はどうしても避けては通れない壁であった。
少なくとも一度は、直接対決でこれを敗北せしめなければ、その栄光を手に入れることは難しいだろう。
ムッソリーニはまさに、それを実現することを宣言したのである。
最後の戦い——イタリアの夢
新たに就任したムッソリーニ首相の指示の下、イタリアはさらなる軍拡を進めていく。軍事費の増大に連立相手のイタリア社会党は警鐘を鳴らすも、先の宣言でより多くの民意を味方につけたムッソリーニにとってもはや彼らの存在は不要となっており、すべて黙殺されてしまった。
1923年3月には世界に先駆けて有人飛行も成功させたイタリア軍事科学省は、速やかにこの新技術を軍事転用していき、戦闘機の量産体制を確立。
そして1924年9月27日。
その「好機」が訪れた。
宿敵イギリス共和国が、アフリカの植民地シエラレオネを巡ってアメリカ自由州と対立。そこに、アメリカ自由州の同盟国であったアメリカ合衆国も加わり、英米間の全面戦争へと発展していた。
イギリスはアイルランドに上陸されるなど劣勢状態にあり、仕掛けるには最適の機会であった。
よって、ムッソリーニは決断する。
イギリスのその経済的基盤の大きな糧ともなっている、イギリス領インド帝国。
その「解放」を要求事項とし、イギリスに対して最後通牒を突きつけたのである。
当然、イギリスはこれを突っぱねるが、それはムッソリーニの予想通り。
ジブラルタルの奪還を餌にスペインを誘い、1925年1月30日、ついにイギリス共和国との「最終決戦」へと突き進むこととなった。
もちろん、いくらイギリスがアメリカとやり合っているからといって、正面からイギリスとぶつかり合っても勝ち目は薄い。ゆえに、今回はあくまでも「イギリス領インド帝国」を標的としており、イギリス本土を叩かないと得られないような要求は一切突きつけていない。
その上で狙うのは、イギリス領インド帝国の「アキレス腱」である「ペグー」への上陸作戦。大量の兵が待機しており上陸が難しい北インド地域でも南インド地域でもなく、唯一のインドシナ戦略地域に属するここは防御兵がほぼいないため上陸が容易となっているのだ。
1925年4月。第一陣として、イタリア軍最強の将軍アルマンド・ディアズ元帥による上陸作戦は無事成功。敵兵は現地で徴収されたわずか2,000のみ。
スペインと約束していたジブラルタルにおいても、イタリア軍のもう一人の猛将フランチェスコ・マラン元帥の猛進撃でこれを陥落。
イタリア軍の新兵器である戦闘機による爆撃が、ジブラルタルを守る敵防衛兵を蹂躙していく。
インド上陸成功後は、イタリア陸軍の総力をかけて侵攻。イギリス軍の援助はすべて輸送船の破壊によって防いでいるため、弱体な現地インド帝国軍の抵抗のみとなり進撃は容易。
10月には敵首都カルカッタ全域を占領し、戦前かなり綿密に準備していた割にはあっけなく勝利をほぼ確定させてしまった。
最終的に1926年1月24日に敵側の戦争支持率がマイナスに突入したことによって降伏を受け入れることとなり、翌25日に講和条約が結ばれる。
イギリスからの完全独立を果たした「インド」は、半年間の移行期間を経てインド人自らの統一独立国家「ベンガル」として再スタートを切ることに。
同時に「市場開放」も行ったイタリアは、この世界第2位の人口を誇る巨大なインド市場を舞台に、積極的な貿易を行い、経済発展の糧としたのである。
アメリカとの戦争でも敗北し、イタリアでの戦争でも敗北したイギリスはその威信を一気に急落させる。
これで、名実ともに「世界1位」となったイタリア。
この栄光の立役者としてムッソリーニは、今や追随する者のいない絶対の存在へと登り詰めていったのである。
かくして、世界最高の国家としての「イタリアの夢」も叶えることとなったムッソリーニ。
ただしもちろん、その先に彼らを待ち受けているのが、果たして本当に栄光の未来なのかどうかは——この物語ではわからない。
最後に、1936年時点での、この国の様子を見ていこう。
1936年のイタリア共和国
まずはGDP。実は上記の1926年時点の画像を見て分かるように、GDPでは実はロシアが抜け出ており、1位にはなれていなかった。
しかしそのロシアが、ゲーム終了直前の1834年に珍しく共産主義革命に見舞われており、最後の最後で沈没。
1935年末時点でこの内乱は鎮圧されたものの、混乱から回復しきることはできず、イタリアはなんとかGDPも1位のまま逃げ切ることに成功した。
国家威信ランキングでも、最終盤に復活してきたイギリスが近づいてきていたが、最終的には全軍を戦車に製法変更したことで一気に軍事投射を高めて圧倒的差をつけて1位をキープ。正真正銘「世界最高」で終わらせることができた。
ところで、今回ゲームルールとしてAIの好戦性などはいじらず標準のままにしていた一方、久々にAI改善MODの「ARoAI」を導入してみたのだが、その結果として上記の通りロシアが一時世界トップクラスのGDPを維持していたり、最終盤にアメリカ合衆国(共産化してアメリカ組合主義国に変態)がトップ層に食らいつくほどにGDPを上げてきたり、生活水準も上位国は非常に高くなっていたりと、やはり全体的に経済面でのAI強化が確かに図られている。
Ver.1.3.6時点で公式での更新はストップすることがアナウンスされているこのARoAIだが、今後も可能な限り導入していくことで楽しくなりそうだ。
経済についても触れていこう。ますはゲーム終了時点での収支について。
100万を超える常備軍を有していることが影響し、軍事費はこれまでのプレイでも随一の金額に。最終盤は常に50万ポンドを超える赤字を垂れ流し続けていた。
所得税は157万ポンドを産出している(税制は比例課税)が、これはパクス・ネーエルランディカ(53万1千ポンド)やオープンベータロシア(79万ポンド)の時と比べても高い。
要因としてはパクス・ネーエルランディカは直轄領が極端に少なかったことと、累進課税を課していたこと(よって逆に利益配当税がパクス・ネーエルランディカのときは105万ポンドあった)、オープンベータロシアは指令経済を採用していたために所得税を本来多く支払う資本家層が壊滅していたこと(代わりにオープンベータロシアは施設の全国有化により政府の利益配当が722万ポンドあった)が原因と言えるだろう。収支についてもそれぞれの国体によって大きくバリエーションが異なってくる。
国有化による利益配当は本当に価値が高く、一応レッセフェールを廃止して鉄道の国有化を行ったものの、それでも最後まで、全施設国有化のために共産化しようか迷い続けてはいた。大国でありながら財政は常に火の車で、かといって国民民兵を採用すれば威信が激減してしまうので・・・といった中で、苦渋の思いで消費税をいくつかつける必要に迫られたほどだ。電話の導入で行政府の総数を削減したり、鉄道国有化の利益を増やすために輸送商品の需要を無理やりにでも捻出したりと、いろんな方策を考えながら進めていったのは割と楽しかった。
100年間の収支推移と金準備推移はこちら。
前述の通り終盤まで赤字経営で苦しみ続けていたが、大国はやはりそれができる強みがある。元々このゲームのコンセプトである「借金経営が基本」というのを存分に楽しめた気がする。国民も国債の利子でそれなりに潤えたであろう。
市場ランキングの最終結果はこちら。
最後の最後でロシアがベンガル(旧東インド)を関税同盟下に入れたことでイギリスを追い抜き2位に。それでもイタリアが圧倒的1位で終わることができた。南米は完全にイタリアの庭となったが、元々関税同盟下にあったアメリカ自由州やスカンディナヴィアが最終的に抜けてしまったのは残念。
最後に、この世界における世界の情勢を確認していこう。
まずはヨーロッパ。
フランスは最後の最後で革命によって共和制に移行し、70年近く続いていたポナパルト王朝は3代で潰えてしまった。また、オーストリアも度重なる革命に苦しめられており、そのどさくさに紛れてハンガリーが独立している。あ、
あとこれもフランス内乱のどさくさに紛れて独立したラインラント地方が、王政を廃止して共和政を開始したベルリン政府と異なるもう1つのプロイセンを形成している。
ホーエンツォレルン家の復活・・・というわけではなく、20世紀のドイツ軍人と同じボイネブルク=レングスフェルトを名乗る民族主義者の男が新たに立ち上げた王国のようだ。
なお、本家プロイセンの方はカール・リープクネヒトが夢を叶えた形となっている。
アフリカはいい感じに勢力均衡しており、とくにフランス・イタリア・イギリスの3国が主要地域を押さえている格好だ。エジプトは分割の憂き目に遭っている。
東アジアは作中何度か触れてきたとおり(山東半島をイタリアが奪ったくらい)で変わりないが、東南アジアはまず目立つのがプロイセンがかなり進出しており、オランダ領だったところはスペインが領有していたりジャワ人が独立していたりする。
また、ティドレが本来の自身の土地をフランスに奪われている代わりに、ニューギニア島への植民を前回の朝鮮編のとき同様に活発に行っていた。
オセアニアは大変なことになっている。ウルル、アオテアロアと、イギリスの混乱に乗じて原住民が次々と独立。
「オーストラリア」と呼称された南オーストラリアとタスマニア島を支配する勢力は無政府主義共同体となっていたりと、本当にカオスである。
南米は比較的平穏で、北米も大きな混乱はないものの、ニューイングランド州がアメリカ自由州として独立したものの領域は狭く主導権はアメリカ合衆国・・・もとい、共産化した「アメリカ組合主義国」に常に奪われ続けていた。
以上がこの世界における1836年。
このあと、ムッソリーニ率いるイタリア共和国がどんな未来を描いていくのか・・・それはまた、別のお話。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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