フリードリヒ・ヴィルヘルム4世により創設された「ドイツ帝国」。
その第2代皇帝に就いたのはフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の姪孫にあたる若きジギスムント。
ホーエンツォレルン家がブランデンブルクの支配者となる直前にこれを統治していた神聖ローマ皇帝と同名を受け継ぐこの若きカイザーは、史実におけるフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の姪孫ヴィルヘルム2世がそうであったように、積極的な対外政策たる「世界政策」を推進していく。
国内の改革派勢力を政権から追放し、王党派の軍部指導者アウグスト・カール・フォン・ゲーベン元帥を始めとした翼賛体制で政権運営に挑んだジギスムント皇帝は、従来の仇敵フランスとの4度目の戦いを迎えるが、これも難なく撃破。
塹壕の時代になってもなお優位に戦争を進められることに自信をつけた皇帝は、さらなる軍拡と、そしてドイツの権威を世界へと知らしめる野望を膨れ上がらせていった。
その最大の敵として見据えるのは、女王ヴィクトリアのもと繁栄を極める大英帝国。
「誰も日陰に追いやりたくはないが、我々もまた陽のあたる場所にいたい」――誰が言ったか、その言葉は別の歴史において20世紀の到来と共に歴史の表舞台から「ドイツ帝国」を葬り去った運命への強い抵抗を示すものとして、カイザー・ジギスムントの脳裏に刻まれていた。
プロイセン「強AI設定プレイ」最終回。
世界最高峰の軍隊で挑む、最終戦争へと突き進んでいこう。
~ゲームルール~
- 「プレイヤーへのAIの態度」を「無情」に
- 「AIの好戦性」を「高い」に
- AI経済改善MOD「Anbeeld’s Revision of AI」を導入
Ver.1.1.2(Earl Grey)
使用MOD
- Japanese Language Advanced Mod
- Cities: Skylines
- Dense Market Details
- Dense Trade Routes Tab
- Improved Building Grid
- More Spreadsheets
- Visual Methods
- Romantic Music
- Universal Names
- Historical Figuaes
- Visual Leaders
- ECCHI
- Visible Pop Needs
- Auto Convert Production Methods After Conquest And Annex
- Japonism
- Declare Interests Button on top
- No red smoke
- Extra Topbar Info
- Anbeeld's Revision of AI
目次
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金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り
独仏最終戦争
さて、「世界戦争」に突き進むために、時間をかけて準備していくこととする。
まず、高い支持度を誇る軍部のボーナスを得て軍事技術を集中的に獲得していく。
目指すは安定して塹壕戦線を突き破るための突破力。
そのために「攻撃力80・防御力80」の最強陸戦兵種「機械化歩兵」を解禁する「車両装甲」の技術、そして「攻撃力50」とこれも恐ろしい攻撃力を追加する特殊部隊製法「化学兵器専門部隊」を解禁する「化学戦」の技術を目指していく。
各兵種の詳しい解説は下記記事を参照のこと。
さらに「超弩級戦艦」や「潜水艦」などの海軍技術も最新式のものを次々と取得し、各地に海軍基地を大増設。
これらの軍備を賄うべく、世界各地のドイツ植民地では石油の大量採掘を行っていく。
このカイザー・ジギスムントの世界政策を支えたのが、かつてこの国の発展を牽引した元首相アルフレート・クルップの息子フリードリ・アルフレート・クルップ。
父と同じく実業家集団のリーダーとして、そして国家に必要な産業を提供し続ける国内最大の財閥クルップ社の最高責任者として、国家への貢献を続けている。
こうして1894年。
歴史上類を見ない凄惨な「世界戦争」が史実において勃発した年から20年も早く。
ドイツ帝国皇帝ジギスムント1世の号令により、帝国は「最終戦争」へと突き進んでいくこととなる。
1894年2月1日。
ドイツ帝国皇帝ジギスムント1世は、200年前にフランス王ルイ14世が不当に奪ったフランシュ=コンテの「返還」を要求。ただちにフランス国境に位置するエルザス=ロートリンゲンに軍を配備し始めた。
慌てたフランス皇帝フェルディナンはアメリカ合衆国に救援を求めこれを承諾されるが、すでにアメリカはメキシコの宗主国ロシアとの戦争中であり、すぐに旧大陸へと軍を派遣する余裕はなかった。
世界最強の国・イギリスはどちら側にもつかず静観。実質的な独仏一騎打ちのまま戦争に突入するかと、思われていた。
しかし、1894年5月10日。
東の大国・清が突如フランス側につくと宣言しドイツに対し宣戦布告。
もぬけの殻であった山東に清軍35万が押し寄せる。
慌てて欧州戦線から兵を戻しにかかるが、間に合わない。兵舎を急増し、徴兵も行い、現地民に死守を厳命。
かくして1894年6月21日。
ドイツ帝国軍72万と仏米蘭清4か国同盟軍290万による今世紀最大の戦いが幕を開ける。
開戦と同時に帝国軍は、敵同盟国オランダに侵攻を開始。
その先鋒を担うのは、ゲーベン元帥から参謀総長の任を引き継いだフリードリヒ・カール元帥。
旧式の軍隊しか持たない弱小のオランダ軍を、最新式の戦車を大量配備した帝国第一軍が引き潰していく。
この攻勢において大きな戦果を挙げたのは、ヘルムート・フォン・モルトケ元帥(かつて活躍したモルトケ元帥の甥で小モルトケとも呼ばれる)の立案によって採用された新兵器のマスタード・ガス。このことで彼は国内の改革派たちから大きな非難を浴びることとなる。
しかし皇帝ジギスムントはモルトケ元帥に対する処罰と毒ガスの使用禁止をすべて跳ね除け、彼の立案による戦争遂行計画「モルトケプラン」をそのまま遂行していくことを決断。
そのプランに基づき、あえて開戦直前に兵を引き上げてフランス軍の攻撃を誘引していたストラスブールでは、目論見通り鉄壁の帝国防衛陣にフランス軍が無謀な攻勢をかけてくる。
44万のフランス侵攻軍に対し、わずか11万の兵で同地を守ることを命じられたのは、帝国最強の「盾」エンゲルベルト・シュティアレン元帥。
あえて戦略的な撤退を挟み込むことによって突出してきたフランス軍を、自陣深くまで侵攻させた上でこれを包囲し殲滅する「縦深防御」の戦術を繰り返し、フランス軍を各個撃破。
最新式の機関銃の存在と共に10倍以上のキルレシオを実現し、フランス兵の屍を積み上げていった。
一方の中国戦線では、無人の条約港・泉州で現地民が決死の防衛。
わずか3,000の兵で清軍の猛攻を耐え続けている。彼らは最終的に敗北し泉州は敵軍の手に落ちるが、3ヶ月もの間これを引きつけ、清軍4,000の兵を戦死させ、1万3千名を負傷させた。
山東ではいくつかの土地を奪われてはしまったものの、7月20日にはテオドール・コフカ中将が到着。現地民を中心に6万超の兵を組織し、清軍25万を撃退する。
そうこうしているうちにオランダの全土が制圧され、1894年12月20日に降伏。
オランダ侵攻に振り向けていた機甲部隊をすべて、ラインラント戦線へと移し、反転攻勢を開始。
塹壕にこもる兵は空から飛行機部隊が爆弾を落とし、毒ガスを投げ込む。出てきたフランス兵を戦車部隊が蹂躙し、数的不利を圧倒。
アルデンヌの森を人の住めぬ地に変える勢いで帝国軍は無慈悲な進撃を続けていく。
帝国軍の勢いは海でも変わらず、イギリス海峡や西地中海に潜む帝国海軍の潜水艦が次々とフランス輸送船団を撃沈。
ズタズタに引き裂かれたフランス交易路は彼の市場に大量の物資不足を生み出すこととなり、前線で戦う兵士たちへの武器供給が不十分なものとなりつつあった。
当然、フランス海軍はこれを撃退すべく、弩級戦艦を持ちだして帝国海軍に勝負を挑むが、アルフレッド・フォン・ティルピッツ提督率いる超弩級戦艦擁する帝国海軍の前に無残に敗れ去る。
陸海の連携により順調に進軍を進め、フランシュ=コンテの丘陵地帯を都市部を次々と占領していくドイツ帝国軍。
一方、連戦連敗を続け、海上封鎖によって市民生活もままならないフランス国民の怒りは自国の皇帝そのものに向けられ、1895年9月21日、労働者組合の指導者アシル・グロを中心とした共和派グループがパリから南仏にかけての広い地域で一斉蜂起。
国土を分断された上にドイツ帝国軍と反乱軍との2正面作戦を強いられることとなったフランス皇帝軍に、もはや抵抗する術など残っていなかった。
1895年12月2日。
フランス皇帝軍の首都ディジョンの対岸をドイツ帝国軍が完全に制圧。
このソーヌ川の渡河さえ成功させれば、帝国軍の勝利はもはや揺るぎのないものとなる。
皇帝軍にとってもこれが正念場であることは理解しており、徴募兵もかき集めた15万の兵でこれを死守。
だが、小モルトケ元帥はこれを20万の兵で蹂躙。
12月27日にはこれに勝利し、渡河に成功。ディジョンの街の鼻先にまで迫った。
その後もフランス皇帝軍の必死の防衛を蹴散らし包囲を続けていく中、皇帝フェルディナンが飛行船でディジョンを去ったことが知れ渡ると皇帝軍は戦意を一気に喪失。
1896年3月14日に残されたディジョン政府は降伏を宣言。
翌3月15日にナンシーで条約が結ばれ、多額の賠償金と共にフランシュ=コンテ、ブルゴーニュをドイツ帝国に引き渡すことを認めた。
その後ディジョン政府はパリの共和派に政権を譲り渡すことも認め、一代限りのフランス第二帝政は瓦解。フランス第三共和政がスタートすることとなった。
これで、大陸の覇権は間違いなくドイツ帝国のものとなった。
残るは、19億ものGDPを抱える世界最強の国家・イギリス。
世界の海を支配するこの国を蹴落とすことで、ドイツはようやく「陽の当たる」国となるだろう。
独英頂上決戦
開戦まで
戦後、ドイツでは植民地にて民族主義者による反乱が相次ぐ。
まずは東南アジア、スラウェシ島にて現地のモルッカ人による反乱が勃発。
これはすぐさま同地に派遣された機甲師団の上陸作戦によって鎮圧される。
こちらもすぐさま鎮圧に向おうとしていたが――そこで、イギリスがこの反乱に対して介入。
元々戦うつもりだったが、この形で争うのはあまりにも益がない。
元より泉州はこれまでほとんど活用することのなかった土地でもあり、失われることはほとんど痛みはない。
よって、今回は反乱軍の要求を呑み、台湾の独立を認めることに。
だが、この恨みをドイツ人は忘れはしない。
1897年2月に国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、通称ナチス)が結成。
先の戦争で活躍した英雄であり「民族主義者」のアルフレッド・フォン・ティルピッツ提督が党首を務め、そのまま1897年選挙で健闘。
参謀総長フリードリヒ・カール元帥率いる保守党との連立政権を形成し、首相に任命された。
すべては、カイザー・ジギスムントの野望を支えるための完全なる軍事態勢である。
そしていよいよ1897年11月13日。
ドイツ皇帝ジギスムント1世は、ついに「世界最強の国」大英帝国に剣を抜くこととなった。
この「最終戦争」に向けたドイツ帝国軍の戦略は、まずは英国との唯一の戦線となるアフリカに守備兵を送り込むこと。
帝国最強の「盾」エンゲルベルト・シュティアレン元帥を英領西アフリカ植民地国境に、同じく防衛戦略の達人であるピーター・ヴィッパーマン大将を英領中央アフリカ植民地国境に派遣する。
しかし英連邦下にあるカナダやニュー・サウス・ウェールズの兵こそが集まるものの、肝心の英本国軍はこれに釣られず。
戦略目標たるロンドン、アイルランド、南北インドすべてで各将軍が待機を実行。英国はきっちりと本土で独軍を迎え撃つつもりのようだ。
そのまま1898年3月27日。
ともにGDP10億を超える世界の頂点2か国による頂上決戦が幕を開けた。
アシカ作戦
開戦と同時に、ドイツの3つの軍港からそれぞれ精鋭部隊を載せたドイツ主力艦隊が出港する。
北ドイツ・ブレーマーハーフェンの港からはステファン・フォン・ディースカウ提督率いる103艦隊がアイルランドに向けて出港。
ニジェール植民地のポートハーコートからは帝国首相でもあるアルフレッド・フォン・ティルピッツ提督率いる66艦隊が西インド・ボンベイに向けて出港。
そして中国植民地・青島からはルートヴィヒ・プランゲ提督の50艦隊が東インド・ベンガルに向けて出港した。
英国3地方への同時上陸を狙った「アシカ作戦」は、アイルランド沖以外では敵艦隊の妨害に遭うことなくただちに上陸戦に挑むことには成功したものの、いずれも鉄壁の水際作戦を敷く英国軍を前にして敗退を強いられた。
この中でも最も防備の薄かった南ベンガルに対して、帝国最高の上陸部隊であるディースカウ提督&小モルトケ軍による突撃を再度敢行。
しかし英防衛軍は戦車・飛行機も持ちだしてこれを防備。
技術水準ではすでに互角。小モルトケの「攻撃戦略専門家」によるボーナスで数値こそ勝っているものの、数の差もありこの上陸戦も失敗してしまった。
1899年3月に3度目の上陸作戦も失敗。
敵防衛軍は16万もの兵を出してきており・・・と、ここではたと気付く。
この上陸作戦失敗時につきものの「敵防衛軍の数が多すぎる」という問題は、そもそも参加大隊数を決めるインフラ量に原因があるということ。
実際、ボンベイのインフラは587ポイントもあり、これだけの防衛兵を用意してくるのも当たり前である。
ならば、インフラの少ない州を狙って上陸作戦を仕掛けることが正しい戦法ではないか――ということで、インド周辺でそれに相応しい土地を探すと・・・見つけた。
英領インドの最東端、「イギリス領ペグー」。
全くの未開発地域であるこの週のインフラ量はわずか38。
4度目の正直。今度こそ、上陸作戦を成功させる。
そして1899年5月16日。
ついに数的優位をもって上陸戦を開始。しかもペグーの地は英麺戦争でイギリスがビルマから奪った「インドシナ戦略地域」であり、指揮官があらかじめ配備されておらず、その点でも優勢となった。
1899年6月11日にこの戦いに勝利。一気に10地方を占拠し、ついにインドの地に橋頭保を確保した! ただちに本土に待機していた各主力軍団を派遣する。
もちろん、イギリス軍も黙ってはいない。
北インド司令部に待機していた将軍たちを急行させ、奪われた領土の奪還を試みる。
戦車、飛行機、毒ガス、ありとあらゆる最新鋭の装備を用いて攻め込んでくる英印現地軍。
しかしモルトケ元帥も同じ最新兵器でこれを防衛。特にティルピッツ首相率いる軍部の高い影響力と支持を元に手に入れた愛国熱の30パーセントボーナスは、敵軍の高い攻勢能力を覆すのに十分すぎる効果を持つこととなった。
さらに注目すべきは、この上陸部隊を迎撃するために派遣されてきている英軍が南インド司令部の兵を数多く引き連れてきていること。
これで南インド司令部は無防備に!
早速、ルートヴィヒ・プランゲ提督に50艦隊を率いさせ、テオドール・コフカ大将率いる10万の兵を南インド地域で最もインフラ量の少ないセイロンに上陸させる。
そして1899年9月14日、これに成功。
セイロン島は一瞬でほぼ全土を制圧され、コフカ大将はそのまま狭隘な海峡を経て南インド本土へと攻め込んでいく。
さらに10月27日には英印西端のシンドにも上陸成功。
無敵の戦車軍団と飛行機・毒ガス部隊とで次々と防衛網を食い破る東方の侵攻軍と合わせ、インドを東西南三方向から一気に攻め立てていくこととなる。
初期の失敗こそあれど、途中の方針転換が功を奏し、英領複数上陸計画「アシカ作戦」は結果的にうまくいく。
そして、帝国海軍はこれと並行し、もう1つの重要な任務をこなしていくこととなる。
無制限潜水艦作戦
帝国海軍の現在420もの艦隊数を誇っており、これは清を抜いて世界一の規模となっている。
当然英国も見事な海軍は揃えており、イタリア海軍は地中海にてこのロイヤルネイビーによっていとも簡単に葬り去られているものの、ドイツ帝国海軍の前では児戯に等しい。
イギリスの海外交易の玄関口であるイギリス海峡にはティルピッツ提督とアロイス・フォン・シュトックホーナー・シュトライン提督――共に「船団襲撃専門家」持ち――を派遣し、潜水艦を使用した民間・軍籍問わない無制限の艦隊襲撃を行わせた。
この結果、開戦から1年4か月後の1899年7月19日段階で英輸送船団は4万3,662隻も沈没させられており、大英帝国の開運ネットワークはもはや6割しか機能していない状況となっている。
この結果、イギリス市場では装甲艦・自動車・小火器・大砲・石油といった各種軍需系の重要な商品が軒並み枯渇。
小火器や大砲は英領インドのハイデラバードやラージプータナーなどで多く製造されているのだが、それらのインド市場への市場アクセスはすでに18%となっており、ほぼ孤立状態に陥っているのである。
このことは本国への物資供給をストップさせると同時に、現地に住む人々の生活をも大いに苦しめることに。
結果、何が起こるかと言えば、フランスの時と状況は同じ。
貧困にあえぐ国民は英本国政府への反抗と独立を求めた運動が始まるのである。
その最初の動きはケープ植民地。
現地の軍部を指導する将軍マーティン・トッテンヘイムによる蜂起が発生し、南アフリカ共和国の独立を掲げて英王室への反旗を翻したのである。
さらにこれに乗じてケープ植民地の東部では原住民であるコサ人が蜂起。
ケープ植民地は東西から攻め込まれる状態となってしまった。
これを受け、アイルランドを守備していたウェストン・ケイブ元帥が南アフリカ戦線へ派遣されたとの情報を確認。
1900年1月25日。
ついに、戦略目標の1つであり、英本土上陸の橋頭保となるアイルランド上陸を成功させた。
元より、この戦争の目標の1つは「アイルランドの解放」である。
上陸に成功したモルトケ元帥はそのまま英陸軍を駆逐したうえでダブリンに入城し、現地のアイルランド貴族たちと合流。
英連合王国からの彼らの「独立」を支持し、蜂起を実現させた。
さらに同じタイミングで、ブリテン島本土でも労働者勢力を中心とした反・ハノーファー王家の勢力が結集し、ステュアート王室の分家であるギャロウェイ伯の末裔を擁立し、大規模な反乱が発生。
ついに、ここまで栄華を極めていたイギリス本土も分裂を果たしてしまったのである。
もはや、英国に勝ち目はない。
すでに英国の海運網は完全に破壊され、0%が並ぶ。
補給も軍需品供給も行われなくなってしまった南アフリカ戦線では原住民との戦いにすら敗北を重ねる始末。
1900年3月にはインドのほぼ全域が占領下に置かれ、かつて20億近くあったイギリスのGDPは今は4億にまで落ち込む状態となっていた。
1900年4月7日。
イギリス海峡でほうぼうの体となった英国海軍を、空母から発艦する飛行機の爆撃と超弩級戦艦の大砲とで一つ残らず海に沈めていく。
わずか1週間で英30艦隊は消滅し、邪魔する者のいなくなった英仏海峡を我が物顔で突き進んだモルトケ元帥の上陸部隊は、もはや誰一人防衛しようとすらしない空き家のロンドンを一晩で制圧した。
これにて、大英帝国はその歴史を終えた。
1900年6月18日。
ロンドンの割譲、インドの2つの藩王国の独立、そして賠償金とを約束させるベルリン条約が締結され、かつての超大国はその地位を失うことを正式に認めることとなった。
ドイツ帝国は見事、世界の頂点に立った。
それは、カイザー・ジギスムントの夢の実現であり、そして史実のこの帝国が決してなしえなかった到達点であった。
エピローグ
戦後、ドイツ帝国は協調外交を開始。
先の大戦で敵国であったフランス第二帝政と英ハノーファー王朝をそれぞれ倒したフランス第3共和政および英ギャロウェイ王朝、さらには中立的な立場を取り続けていた友好国スペインなどとの関係改善を開始。一度はドイツ経済圏から外れたオスマン帝国を再び経済圏内に戻すことを狙って融資も開始するなど、「超大国」ドイツを中心とした新秩序の構築を目指していくこととなる。
一方で、国内では民族主義者が増えてきており、ナチ党に加入しようとする勢力が拡大。長らく改革派勢力の中心であった自由思想家人民党も解散してしまった。
1901年選挙では大勝し、第一党を確保。
ドイツ民族のみを認め、その他の民族はすべて差別されるべきであるとする「民族国家」法を制定。国内のユダヤ人を中心とする苛烈な差別が許容される土壌が出来上がりつつあった。
一方で、新たに創設されたドイツ共産党を率いるのはカール・リープクネヒト。
左右のイデオロギー対立がこの「超大国」を分裂する時は、そう遠くない未来なのかもしれない。
史実では20世紀の最初の20年で消滅してしまったドイツ帝国。
この世界では、その運命を果たして避けることができるのだろうか。
と、言ったところで本シリーズはここで終了。
当初のテーマであった「強AI設定」の醍醐味は十分に堪能し、最後は同レベルの技術同士での激戦を見事制することができた。
すでにゲームの重さも相当なものとなっているため、20世紀に入ったばかりではあるが、ここでこのプレイは終了したいと思う。
最後に、1901年時点での各種データの状況確認を。
まずはGDPは14億で堂々たる1位。イギリスは最終的に4億にまで落ち込むこととなってしまった。
一方でフランスがじわりじわりと力を付けてきており、AIの強さと彼の国のアフリカ植民地の広大さを考えると、数十年後にはドイツに追い付いている可能性がある。
ドイツへの恨みは人一倍強いであろうこのフランス第3共和政。独仏戦争――ひいては「世界大戦」は、十分に起こえりえそうな気がする。
人口は採取的に1億人を突破し、清・(インドを飲み込んだ)イギリスに次ぐ3位。
山東半島とニジェール植民地はもちろん、最終的にブランデンブルクの人口が710万・ハノーファーの人口が690万と驚異的な伸びを見せたのも大きい。なお、「大規模移住」イベントはハノーファーで南ドイツ人のそれが一回起きた程度。
要因は広大な植民地にあるだろうか。「多文化主義」一強では決してなくなっているのかもしれない。
識字率は95%超となり、世界1位に。「読書キャンペーン」の実績も達成した。かなり早い段階から公共教育のレベルを最大値に上げられていたのが大きい。
生活水準でイタリアに惜しくも負けて2位。とはいえ、このあたりは今後抜くことはできそう。財政的に苦しく、税率を上から2番目を維持し続けていたのが伸びに影響した。それでもここまで生活水準挙げられるのは凄いけど。
なお、普段は小国ばかりが上位に来る印象だが、今回はイタリア、フランス、オーストリア、ロシアと列強国が軒並み上位を占めているのは少し意外だった。
このあたりも、経済強化AIの影響があるのだろうか?
財政はこんな感じ。ロンドン併合したら赤字が莫大になったので確認したら行政府が100個近く置かれていたため半分くらい撤去している。
所得税も利益配当税もなかなか大きな数字を誇っているのだが、それを食いつぶすのに余りある軍事費が印象的。
例として前回のアチェ共和国=インドネシア共和国の経済収支推移を載せておく。こちらのドイツより20年後に実現した最終形態で比較したときにやはり軍事費の差が大きいことが良く分かる。公務員給与がインドネシアで莫大なのは、海洋交易に頼らざるを得ないインドネシアが港を大量に作ったのが原因だろう。
このゲームにおける軍事はやっぱり悪なんだね。
人口状況についても確認。
これまでのプレイと比べても「技師」の人数及び政治力が高い? 首都ブランデンブルクに95個の縫製工場と75個の家具工場、53個のガラス工房が作られ、それだけで生活水準30前後の技師が12万以上雇用されていたりするのが原因か。
徹底した民族主義、宗教政策(キリスト教のみ許容)の結果、南北ドイツ人およびプロテスタント&カトリックでほぼ100%を占める政治力に。
差別をなくす法律と比べ確かに帝国本土での労働力問題は生じたが、広大な植民地を手に入れることである程度人が集まってくるのと、農業や利益率の低い工場を中心に植民地側で賄うことができるので問題はさほどなかった。
むしろ体制派ボーナスや権力の存在から、差別的法律は維持する方がメリットが大きいとすら言えるかもしれない。
もちろん、人口問題があまりにもボトルネック過ぎる小国は別だが。
最終的な国家ランキングは下記の通り。
とくに海軍(437艦隊)から得られる威信だけで2位フランスにほぼ迫るだけの威信量を稼いでおり圧倒的。
その維持コストももちろん大きいけれど・・・。
最後の20年間の各種データの変化も見ていこう。
利益配当税が減っているのは果たして・・・?
軍事商品の驚異の4倍により支出の増加に収支の増加が追いつかず最終的には赤字を垂れ流す状態に。インフラ改善のための鉄道ラッシュによる助成増も痛手であった。
人口比率推移。
最後にフランスの2州を併合したことでフランス人の数が大きく増える結果に。カトリックもそれで増えたが、ロンドンも最後に併合したのでプロテスタントの数もそれ以上に増えた。
政治力で見ると資本家の失墜が大きい。利益配当税の減少と関連していると思われるが根本的な理由は不明。
さて、今回の「強AIプレイ」の総括だが、最初の方こそその効果が見えづらく意味があるのか?と疑っていたが、第4回あたりから如実に英仏の動きが活発になり、強大化していった。
今回はそもそも強いドイツを使用していたため最終的には敵ではなかったが、この設定で小国から成り上がろうとしたときにはなかなか歯ごたえがあるかもしれない。
また、陸戦プレイの練習、ひいては第一次世界大戦の再現も狙ったが、やはり本ゲーム、現バージョンでは戦争は決して面白いものとは言えない。
最後の上陸戦への工夫や海上封鎖の効率を発見できたのは面白かったが、陸戦自体はランダムが絡む要素も多く結局は単調な力押しが中心になってしまうので・・・そりゃまあ、戦争が始まる前に勝敗を決める戦略ゲームというのがこのゲームの本質なので当たり前なのだが。
ということで現在、並行してインドの小国によるプレイを行っている。ひたすら内政に特化したプレイであり当然強AI設定は継続しているので上記の「歯ごたえ」も感じられるかもしれない。
レポートにするかどうかは未定だが、こちらも楽しみにやっていこうと思う。
それでは今回も最後までご覧になっていただきありがとうございました。
ぜひ、また別の記事も読んでいただけると幸いだ。
それでは。
過去のシリーズはこちらから
金の国 教皇領非戦経済:「人頭課税」「戦争による拡張なし」縛り