「思い出したまえ、貴公、英国の貴族を。彼らは自分の権利から一歩もしりぞきません。だから他人の権利も尊重するのです。彼らは彼らに対する義務の履行を要求します。だから彼ら自身も自分の義務を履行するのです。貴族階級が英国に自由をあたえました。そしてその自由をささえているのです*1」
Victoria3において、あらゆるプレイヤーから嫌われ、怨嗟の対象となっている貴族を中心とした「地主」勢力。
事実、19世紀の産業革命期において、常に国家の成長の妨げとなってきたのは彼ら既得権益層であり、多くの国で改革派と保守的な地主・貴族層との対立が演じられてきた。
この時代の「対抗勢力」は間違いなく彼らであり、彼らは打倒すべき古き時代の遺物であった。
しかし、そんな彼らがまた、近代に至るまでの長い歴史の基盤を支えてきていたのも事実である。
時代と共に排斥されていく彼らを救いたい。その富の可能性を追求したい。
今回の企画はそんな思いをもとに、以下のルールでプレイしていくこととする。
~ゲームルール~
- 地主勢力を政権内に維持し続ける。
- 「土地ベース課税」「農奴制」の変更は行わない。
- 知識人/労働者/実業家集団を政権内に入れない。
シンプルだがこのゲームの常識を根底から覆すような縛りを課して、それでも世界一の経済大国となることができるのか、試してみたいと思う。
使用するプレイ国家は「ロシア帝国」。
初期状態で列強3位とはいえ、遅れた技術や制度で国家承認の踏み台にされがちな残念国家ではあるが、プレイヤーが入ればその豊富な人口と軍事力、恵まれた資源などから比較的余裕をもって覇権を取れる国家である。
だが、今回は大地主経済である。
産業の発展はない。農奴解放もない。豊富な地下資源も実業家の養分となるだけのため、必要最低限のみ使用するに留めるつもりだ。
つまり、ロシアのロシアたる強みを全く活かすことができない。茫漠な大地に広がる小作農たちはほぼ手つかずで終わることになりそうだ。
果たして、企画は成功するのか。
長き伝統を誇る北の大地に、貴族たちの楽園を築くことはできるのか――。
「普通」のロシアプレイはこちらから
Ver.1.1.2(Earl Grey)
使用MOD
- Japanese Language Advanced Mod
- Dense Market Details
- Dense Trade Routes Tab
- Improved Building Grid
- More Spreadsheets
- Visual Methods
- Romantic Music
- Universal Names
- Historical Figuaes
- Visual Leaders
- ECCHI
- Visible Pop Needs
- Auto Convert Production Methods After Conquest And Annex
- Japonism
目次
第2回以降はこちらから
過去のシリーズはこちらから
初期戦略
政治方針
1836年当時のロシア帝国の君主は、ロマノフ朝第11代皇帝(ツァーリ)、ニコライ1世。
1825年に長兄で前皇帝のアレクサンドル1世の死を受けて即位。女帝エカチェリーナ2世の孫として彼女から自由主義的な思想の影響を受けていた兄と違い、彼女の死後に生まれたニコライ1世は、厳格な父パーヴェル1世の影響を受けて保守的で専制的な君主として知られている。
即位直後には自由主義的な将校たちによるクーデター(「デカブリストの乱」)が発生するも、速やかに鎮圧。さらにこれを予見していたアレクサンドル・ベンケンドルフ伯爵を重用し、彼の創設した「皇帝官房第三部」と呼ばれる秘密警察を用いて国内の自由主義者たちを弾圧していった。
1830年にはポーランド立憲王国で起きた自治権拡大運動を鎮圧し、これを併合してロシアの直轄領とするなど、反自由主義的君主の先頭に立つような存在であった。
政権内部は当然の如く地主階級が圧倒的な影響を保っており、その影響力は実に51.8%。全人口の1.7%に過ぎない貴族階級が、この国の統治の過半数を握っている状態である。
この地主階級の指導者はセルゲイ・ウヴァーロフ。エカチェリーナ2世の寵臣でもあった彼は1833年から教育大臣に任命されているものの、上流階級出身ではない人々の教育の機会を制限し大学や高校に対する政府のコントロールを強めるなど、反動保守的な政治家の一人であった。
また、今回はスタート直後に政府改革を行い、軍部を政府内に入れることにする。
その理由は軍部の指導者であるアレクサンドル・ベンケンドルフ伯爵が「悪党」の特性を持っており、この特性をもつ指導者を擁する利益集団は、政権内に入れることでその支持を+2させる一方、政権外にいる場合は-2されてしまうという効果を持つ。それが重要である理由は後述する。
そしてスタート時点から知識人階級に加えられている「抑圧」を外し、代わりに農村民階級に「強化」をつける。序盤通したい「農本主義」や「国境封鎖」のためには彼らの力が必要となる。
最後に重要な政治的決断を実行する。
すなわち、首都の移転である。画面下部の「政治」レンズ⇒「州アクション」から選ぶことのできるこのアクションは、普段あまりやることはないだろう。
ペナルティは結構重く、遷都後の5年間、国全体の行政力・権力・影響力が10%減少するというもの。ゆえに、国が発展してからの方が影響は大きいため、やるなら最序盤にやるべきアクションである。
そして今回これを行う理由は、首都がもつ「共通POP政治力+25%」の効果。初期状態の首都サンクトペテルブルクがあるイングリア州、および古き首都モスクワ州については、初期状態でもそれなりに産業が発達しており、実業家や知識人の影響力を無視できない。
一方、ウクライナ平原に位置するルハンシクなどは、貴族・農村民・正教会の力が比較的強いという理想的な土地。ここに首都を移すことで、大地主経済の主役たちたる彼らの力をより強めていくこととしよう。
なお、最も理想的な土地はキエフ(人口448万)なのだが、このキエフはウクライナ文化のみの母国ステートであり、ロシア文化のみを主要文化とするロシアの首都を移転することはできない。
一方、ルハンシクはロシアとウクライナの両方の文化の母国ステートとなっている*2。
それでいて農業処理量にボーナスのつく「ウクライナの黒土」特性を持っているため、大農業帝国ロシアの首都としてはここが非常に相応しいというわけである。
新首都サンクトペテルブルクでも、かつての首都モスクワでもなく、まるで遥か昔のキエフ大公国時代に戻るかのようなこの突然の移転に、国民も政府に近い者たちも皆揃って驚きの声を上げたという。
一方、ロシアの動きを常に警戒しているイギリスやオスマン帝国にとっては、これがロシアのバルト海交易中心の平和的志向から、黒海へとより軸足を移す攻撃的な「南下政策」への強い意志の表れとして、更なる警戒を呼ぶことにつながったという。
政治についてはこんなところか。
続いて経済についての方針を確認していく。
経済方針
まずは定番の戦略、軍縮である。
ロシア帝国は初期状態で陸軍285大隊、海軍70艦隊を有しており、さらに広大な領土に多数の戦略地域を保有しているがゆえに将軍も全部で7名、提督も4名と、貴重な行政リソースも消費してしまっている。この整理が、たとえ今回の大地主経済戦略でなくとも重要になってくるだろう。
まずは戦略的価値は比較的薄そうな「東シベリア司令部」と「ロシア司令部」に配備されている計15艦隊をすべて一斉に破棄し、そこに所属しているピョートル・リコード提督とミハイル・ラザレフ提督を解任する。
同様に陸軍も「西シベリア司令部」および「ポーランド司令部」の計28大隊を解散。その司令官であったイヴァン・パスケーヴィチ少将とパヴェル・グラッペ准将とを解任する。これで合計11,300ポンド/週の削減に成功した。
陸軍はもしかしたらもう少し削減できるかもしれないが、海軍はやり過ぎると関心の数を減らしてしまう(初期の戦列艦であれば10艦隊につき1関心)ので注意が必要だ。
そしてこのとき軍部出身の将軍・提督も3名いて、うち少将が1名ということで合計5ポイント分の支持度マイナス補正がついてしまっている。
軍部の支持度が-5ポイント以下になってしまうと低支持ペナルティの「資材浪費」が発生してしまう。
せっかく軍事コストを下げたのに、軍事コストを上げるペナルティがついてしまっては意味がない。
これを避けるための、政治方針の際に行った「軍部の政権入り」だったわけである。
続いて港の製法も確認しておこう。ロシア帝国は初期状態で16個の港が存在するが、そのうちアラスカにある1つを除いてはすべて「貨物港」製法となっている。
そこから産出される輸送船団数は合計3,040隻。ただ、しばらくはそんなに使うつもりはない。
よって、オホーツク、アルハンゲリスク、クリミア、ラトビアの計7つの港をアラスカと同じ「停泊地」製法に変える。
これで快速帆船の消費が少なくなり、合計1,600ポンド/週の節約となる。
次に非常に重要な交易について。
今回のプレイでは地主を強化する関係上、工業や鉱業は一切育てず、ひたすら農業を発展させていくこととなる。
つまり家具や工具などの必需品は基本輸入で賄い、農作物を大量に輸出してこれを生産する農園に利益をもたらすという考え方である。
とはいえ、農作物はとくに初期においては工業製品に比べて需要が生まれにくい。スタート時点でロシア市場では穀物が893ユニットも余ってしまっている。
一方でたとえば世界最大の市場であるイギリス市場を覗いてみると、果物が不足気味であることが分かる。
そこで、ロシア国内に存在する54個のライ麦畑と60個の小麦畑すべてをの二次製法をリンゴ園や柑橘園といった果物を生産する製法に変更する。
これでロシア市場に大量の果物が流れ込み、価格が暴落。
その瞬間、イギリス市場がこの果物を大量に求め始める。その他の国も含めて大量に輸出することによって、果物に対する過剰需要状態を創出することができるようになる。
こうして需要を創出することに成功したら、あとはこれを生産する施設をどんどん建てていけばいい。
とくに新首都となったルハンシクで大量に小麦畑を作っていくことで、政治力ボーナスを得た貴族や農家たちが力をつけていくことができるようになる。
将来的にはより稼げるアヘンやタバコといった嗜好品を中心に栽培していくのが良さそうだが、序盤はまずはこの農家POPを育てることが重要なため、上記のような戦略で進めていく。
なお、産業を育てる場所は文化・宗教的に差別されていないロシア・ウクライナ・白ロシア系住民のいるところにすること。ロシア西端の地域やコーカサス地方だと被差別民族が農家を担ったりして政治的影響力をもたらしてくれないので意味がない。非編入州も同様である。
また、この怒涛の小麦畑作成によって小麦や砂糖が大量に余りがちになる。とくに小麦は世界的にも余り安く売りにくいため、このままでは価格の暴落によって施設の利益が上げづらくなる。
そのため、そんな小麦畑の貴族・農家たちの生活を守るため、小麦は無関税で輸出する政策を取る。
まさに、19世紀前半のイギリスにおける「穀物法」そのものである。そしてそれに関連するイベントもたくさん発生するため、それはのちほど触れていくこととする。
その他の家具や衣類といった必需品系の工業製品はどんどん輸入する。これらを国内で作るつもりは一切ない。
そして高級家具や磁器といった高級工業製品、工具や硬材といった主に産業用の製品については輸入しつつも価格の高騰は放置する(輸入関税+30%をつけて関税で儲けることを優先する)。
前者の理由は上流階級の生活水準を抑えることで、相対的に農村民POPの影響力を上げるためであり、後者の理由は工場の操業費用が高くなって給与が低くなり、そこで働く資本家や工業系労働者が貧しくなることは望ましいことだからである。
このあたりも、通常のプレイングとはかなり異なった感覚が求められていきそうだ。
そして、その、「上流階級を抑える」ためにも、豊富な権力で消費税をどんどんつけていこう。消費税率については土地ベース課税も人頭課税も比例課税もすべて一律なので今回のプレイでは相対的に重要度が増す。
一方で、どうしても全体的に低水準になりがちな生活水準をなんとか抑えるため(そして下層階級の農民POPの生活水準を上げて政治参加を促すため)、通常の税率自体は最低値にする。
どうせ土地ベース課税では大した税収は見込めない(しかも課税キャパシティも全体的に低い)。移民で人を増やすこともできない今回のプレイでは死亡率を下げることも重要なので、メリットの方が大きいのである。
また、これも通常だとまずしないと思う、公務員給与の削減を徹底的に行う。
建設局や港、行政府で勝手に増えていく事務員や公務員は憎き知識人層の栄養分となるため、給与を絞り込んで間接的に抑圧していく。
消費税をかけたうえで余った権力については布告を出していこう。
首都ハルキウのあるルハンシクに農業処理量を20%向上させ、農地の生産性を大きく上げる「農業の奨励」、教育機会を25%増やし識字率を上げ政治参加を促しやすくなる「社会流動性の促進」、州の建設効率を10%上げ序盤稼ぎづらい建設力の足しとする「道路整備」の布告をそれぞれ出していく。
これらの布告はそのとき開発したい土地に合わせて臨機応変に変えていこう。
なお建設については序盤は建設コストの安い農地中心のため建設局も「木造施設」のままとし、数だけ揃えつつ最低限の出費で抑えることとする。
これで経済基盤は整った。
最後は技術・外交についてである。
技術・外交方針
まず技術についていうと、序盤数十年で重要と思われる技術は以下の通り。
- 社会系時代Ⅰ「証券取引所」・・貿易中心国家の基本基盤。早期に獲得し、より多くの取引量を確保していきたい。
- 社会系時代Ⅰ「大衆伝達」社会系時代Ⅱ「民族主義」・・いずれも権力+10%。ロシアは基礎値が初期状態で850近くあるため、10%向上させることで100ポイント分に近い数値を得られるため効果は大きい。農業の奨励布告は生産性の向上に多き寄与するため、権力はあればあるだけ良い。
- 社会系時代Ⅱ「近代下水道」・・全体的に人の多いロシアでも、布告や規模の経済を有効活用するうえで産業の集中運用は欠かせない。インフラは序盤からボトルネックになりうる。人口の多いロシアでは人口由来のインフラ向上は効果が大きいのもGOOD。
- 社会系時代Ⅱ「中央公文書館」・・課税キャパシティ不足を緩和・人口が多く1個1個が重い制度維持費や膨大な数の貿易ルートを維持するための行政力確保を担う。建設力は低水準でいくため新たな行政府建造は序盤では難しい。
- 社会系時代Ⅱ「精神医学」・・行政力確保のため。人口の多いロシアではより大きな効果をもたらす。
- 生産系時代Ⅱ「集約農業」・・農業の生産性向上に直接的に寄与する。化学プラントは自国で建造しないため、不足する肥料は大量に余らせている他国から膨大な輸入関税と共に手に入れよう。
- 生産系時代Ⅱ「ベーキングパウダー」・・食料品工場は自国で多く建てないため食料品は不足しがちだが、これでアンロックされる製法を使えば穀物と砂糖を消費した上で食料品を増やせるのでありがたい。工場の数が少ないので効果は限定的だが。
- 生産系時代Ⅱ「鉄道」・・やはりインフラ不足には重要。シベリア鉄道も建てられる。シベリアの無意味な鉄道は輸送産出優先にすると色々使い所が出てくる。
産業革命を起こす気はないので生産系技術よりも社会系技術を優先しがち。いずれにせよ、通常プレイに比べると技術の進展を焦る必要はあまりないので、基本的には他国伝播頼りで進めていこう。
外交については植民地は定番のカザフに。資源はともかく人口は多い。
逆に人口がナーフされた北海道・サハリンへの入植は行わない。北海道の資源は通常プレイでは魅力的だが今回のプレイでは不必要。日本に貼りつけていた関心はアメリカに出も投げておこう。
また、カザフ植民を終えたあとは未来のゴムを狙ってスラウェシ島にでも植民させよう。
そして、初手でペルシアに対して傀儡国化の要求を突きつける。
これは、彼の土地に眠る資源、とくにアヘンの重要性ゆえにである。
もちろん、このロシアの野望を快く思わない国も存在する・・・。
第3次ロシア・ペルシャ戦争
ロマノフ朝ロシア帝国と、18世紀末に成立したガージャール朝ペルシア帝国との戦争は、すでにこれまで大きなものとしては2度、行われている。
1度目は1804年、アゼルバイジャンとグルジア(ジョージア)の領土を巡って当時の皇帝アレクサンドル1世とファフト・アリー・シャーが争った。
これは1813年に締結されたゴレスターン条約によって終結し、当地はすべてロシア帝国のものとなった。
続いては1826年。ファフト・アリー・シャーがイギリスの後ろ盾を得て先の戦争で奪われた土地の奪還を目指して宣戦布告。しかし新たに皇帝となっていたニコライ1世率いるロシア帝国はまたしてもガージャール朝を退け、1828年のトルコマンチャーイ条約によって巨額の賠償金とロシア人の治外法権を認めること、そして新たにアルメニアのロシア領有が定められた。
それから18年。
再びロシア皇帝ニコライ1世は、今度はペルシアそのものを求めてガージャール朝に対して圧力をかけることとなった。
当然、ロシアの南下を恐れるイギリスはこれをよしとはしない。
本国は非難声明を出すに留め直接介入は行わなかったものの、インドにいる東インド会社軍を動かすことを決定。
1836年4月22日。ついに第3次ロシア・ペルシャ戦争が開幕することとなった。
だが、この東インド会社軍、遠方ということもあり補給がまともにできておらず、11万もの軍勢を連れてきているものの使い物にならず。
初戦はタブリーズ東方、カスピ海沿岸都市アルダビール郊外の山中にて、ロシア軍の中央アジア方面軍司令ニコライ・ムラヴィヨフ=カールスキー少将(49歳)率いる7,000の部隊が、東インド会社軍サー・ヘンリー・ゴドウィン大将(54歳)率いる6,000の部隊と接敵。
だが士気を落としている自らの直属部隊は戦闘に連れて行けず、ペルシアの非正規部隊を仕方なく率いての防戦。
自らの直属部隊ではないため、ゴドウィン大将の持つせっかくの「防衛戦略家」の特性も発揮できず、かなりの劣勢に立たされているようだ。
5月28日には無事勝利。敵軍に2倍以上の損害を与えながら、アルダビールを含む13地方を占領した。
敗北したゴドウィン大将はそのまま西へ逃れ、この地域の首府であるタブリーズへと退却する。
これをドニエプル中央軍のアレクサンドル・チョニショフ元帥(50歳)が手勢を引き連れて追撃。
6月2日。タブリーズ郊外の山中にて両軍が激突する。
だが、これはゴドウィン大将の罠でもあった。
勇み足すぎたチョルニショフ元帥は、わずか4,000の部隊しか引き連れていないタイミングで、ゴドウィン大将率いる9,000のペルシア兵に取り囲まれてしまった。
そのまま死に物狂いで決死の攻撃を仕掛けるペルシア兵たち。ゴドウィン大将も彼らを奮励し重なる屍を気にせず突撃を命じていく。
これは完全にチョルニショフ元帥の失態であった。
しかし、そこはさすがの百戦錬磨のチョルニショフ元帥。
落ち着いて対処を進め、40日にわたる激戦の末に2倍以上の数の敵をついに打ち破った。
これでタブリーズ一帯を手中に収めたチョルニショフ元帥はさらに南下。ガージャール朝首都テヘランへと向かう途上にあるガズウィーン近郊で3度目の戦いが繰り広げられる。
ペルシア軍も黙ってただ自国の領土が侵されるのを見ているだけではない。
占領されたガズウィーン北方、カスピ海沿いのチャールースの町で、ペルシア君主モハンマド・シャー(28歳)が自ら2,000の兵を率いて強襲を仕掛ける。
しかし、これはこの地にしっかりと防御陣形を築き任されていたムラヴィヨフ少将によって問題なく跳ね返される。
もはやペルシア側に反撃の力は残っていない。
そう確信したチョルニショフ元帥はいよいよ敵首都テヘランへの侵攻を全軍に命じる。
その第一手となるのが、テヘランを見下ろす重要な戦略的要衝となるダマーヴァンド山の制圧作戦である。
もう何度目になるか分からないゴドウィン大将との戦い。
入念に準備してきたチョルニショフ元帥の軍勢を前にして、もはやペルシア軍は成すすべもなかった。
この戦いの勝利をもって、テヘランもただちに占領下に置かれ、あとはもう、逃げ惑うペルシア軍を各方面で打ち倒していくだけとなった。
年が明ける頃にはペルシアの大半を制圧完了。
2月3日にはペルシアも降伏し、戦う理由を失ったイギリスも講和の締結に同意(直前にウィリアム王が崩御し、混乱していたイギリスにその余裕がないのも事実だった)。
テヘラン近郊の町で結ばれたタージリッシュ条約によって、先のトルコマンチャーイ条約同様莫大な(総額58万3,200ポンド)賠償金に加え、ペルシアがロシアの属国となることを認める内容となった。
これでペルシアの広大な土地はロシアのものに。一旦は傀儡国とするものの、もちろん将来的には併合し直接統治を行う。
この地で採れる豊富なアヘンは、この先の「大地主経済」における重要な糧となっていくことだろう。
そして、皇帝ニコライ1世の領土欲はなおも留まることを知らない。
中央アジア・コーカサスの征服
1837年6月。植民地化を進めていたカザフ平原にて、大規模な先住民反乱が勃発。
チョルニショフ元帥は先のペルシア戦争で活躍したドニエプル中央軍および中央アジア方面軍を率いて早速迎撃に向かう。
が、カザフ遊牧民の抵抗はなかなかに激しく、チョルニショフ元帥の軍も苦戦を強いられる。
とはいえ、数においてはこちらが圧倒的に優勢。
繰り返し突撃を試みる中で少しずつ先住民側の士気も失われていき、各地で戦線が崩壊。
翌年の12月には降伏へと追い込んだ。
さらに続いて中央アジアに居座るヒヴァ・ハン国、ブハラ・ハン国、コーカンド・ハン国のウズベク・キルギス諸国を次々と屈服させる。
これらは5年後にはすべて併合され、この地にはトルキスタン総督府とステップ総督府とが置かれ、ロシアの統治下となったのである。
さらに1845年の2月から4月にかけて、コーカサス地方のチェルケス、およびコーカサス・イマーム国の併合を試みる。
これらの小国は元々オスマン帝国が「守護」の態度を取っており、介入が危険視されていたが、そのオスマンがエジプトとの3度目の戦争に突入しており、その多忙の隙を狙った動きである。
当然、その後ろ盾を失ったチェルケスたちは抵抗することもできず、屈服し、ロシアの一部となることに同意した。
コーカサス・イマーム国もこれに続き、カフカース地方は綺麗な国境線が描かれることとなった。
ロシア帝国はその経済の基盤となる基本的な領土拡張に成功。
続いて、その国力を増大させるための内政へと軸足を置いていくこととなる。
農業帝国への道
基盤となる諸法の制定
まずは、経済方針の際に少し言及していた、「穀物法」イベント。穀物の「輸出優先」関税を付け続けていると次々と発生していく。
どちらを選んでも貴族階級の政治力を上昇させるという、通常ならばバッドイベント。但し今回のプレイではむしろグッドイベントである。
さらに、ロシアらしいイベントが。旧首都サンクトペテルブルクにて、知識人たちによる陰謀の企てを発見したということで、官房第三部による調査と襲撃を行う。
史実でも彼ら「青い大天使」の働きによってフョードル・ドストエフスキーなどもシベリア送りにされていたりする。
そんな中、中央政界では新たな動きが。
ウクライナ人の英雄的詩人イェウヘーン・フレビンカ(農村民集団の指導者)を政権内に入れたうえで、「国境閉鎖」を審議開始。住民のステート間移動を一切認めないこの法律によって、農業に注力し国家全体の生活水準が低調になるであろうロシアから、貴重な人口を流出させないための措置である。
この法律制定に向けた動きに対し、ポーランド地方に住むユダヤ人たちが強烈に反対し暴動を起こすイベントも発生。
もちろん、これは弾圧。大した数もいないユダヤ人たちが急進的になったところで実害はない。施行成功率を上げよう。
そうこうしているうちに1843年7月に国境閉鎖法が成立。これでロシアに住む国民は誰であろうと、外へと逃れることが許されなくなった。
続いて農本主義の審議を開始。今回の大地主経済の要となる、超重要法律である。
しかし伝統主義者セルゲイ・ウヴァーロフ率いる地主集団はこれに反対。
権力を使った強化も行いながら、意識的に農村民たちの影響力拡大に腐心してきたが、ここでなんとか決めにかかるしかない。成功率11.7%スタート、論争率41.9%、後退率46.3%とかなり苦しい戦いだが、状況がこれより好転するのは難しい。やるしかない。
だが、元々ルハンシクへの遷都を決め、国家を農業重視へと突き進めることを選んだニコライ皇帝自身が、貴族たちを説得させるために自ら呼びかけることに!(スクリーンショットを撮り忘れていたため、画像は国境閉鎖法に発生したときのもの)
「この法律が国家の、ひいては貴公らの繁栄につながるのだ!」
この大きな援けも借り、法律自体は3年の審議を経て成立。
農場建設における資本を貴族が投資してくれるようになったことで、一気に収支が改善されていった。
さらに本プレイで重要視したい軍部、正教会の影響力向上のため「職業軍人(軍部の政治力+25%)」「慈善病院(正教会の政治力+10%)」の法律を次々と制定。
先のペルシア戦争での活躍の末、正教会勢力の指導者にもなっていたムラヴィヨフ少将が、自ら民衆の前に立って慈善病院法成立を促す演説も行われた。
これらの法制定の動きもあり、「農業帝国」ロシアの基盤を支える4勢力それぞれが徐々に力を持ち始め、そして国家を支持する様々な恩恵をもたらしてくれ始めている。
さて、これらの法律の制定により、いよいよ「農業帝国」の形が見え始めてきた。
「農業帝国」の基礎
1846年に一度、方針転換をしている部分がある。ちょうど、初代官房第三部長官であったアレクサンドル・ベンケンドルフ伯爵が亡くなられたタイミングであった。
これまで、農業生産の中心かつ輸出の中心であった果実だが、その輸出量はなおも好調で関税収入も6,390ポンド/週と国庫への貢献を果たしていたのだが、いかんせんその単価自体が30ポンドと安く、必要な輸送船団の維持費を考えると実は赤字経営でもあった。
1846年1月1日時点の上位8市場の各農業商品需要状況を見てみると、10年前と異なり果物は余り気味になっており、一方でワインの需要が増してきていることが分かる。
そこで、この1846年時点で、小麦畑の二次製法をすべて「ブドウ畑」へと変更。ロシア産ワインの注力生産を開始する。
この方針転換は功を奏し、1856年1月1日時点ではワインの収支が7,838ポンドの黒字に。
これは関税収入の計算元となる商品の基本単価がワインの方が果物よりもずっと高いことに加え、最大のお得意様である清、次いでオーストリアがそれぞれ地続きでの交易となり輸送船団を必要としないことも大きかった。
また、輸入関税が30%と非常に高い重商主義政策の下、各商品の輸入でも関税収入は大きく膨らみ、1856年時点でそれは11万1,000ポンド/週という水準にまで成長する。これは、教皇庁プレイの時では1886年時点でようやく達成した水準である。
この関税収入も踏まえた最初の20年間の経済推移はこちら。
生活水準は全く持って伸び悩んでいるが、GDPは比較的順調に成長。国家ランキングでは初期の3位から5位に転落しているが、GDPは世界4位を維持。なお、1人あたりGDPは死んでいる。
人口は中央アジア・ペルシア地域の併合のたびに増えているが、移民による増加はないため低調。それでも年間50万人ずつ増やしている。
人頭ベース課税・低税率のあおりを受け、所得税の増加ペースはかなりゆっくり。農場の開発によって百姓による自給農家の数が減ったことで、自給農家から徴収する地代の収入は1846年時点で一度減るが、その後各国の併合により百姓の数がまた一気に増えたことで1856年には少し回復している。
そしてやはりインパクトが大きいのが関税。貿易重視という意味では前回の教皇庁と同じだが、所得税や人頭税の寄与する割合が減ったことで、貿易による関税が国家を支える要石となっている。
とはいえ、この時点ではまだまだアヘンの貿易もまだ軌道には乗っておらず、あくまでもこの最初の20年でようやくその基盤が整ったといったところ。
「大地主経済」の本当の力が発揮されるのはここからである。
最後にちょっと違ったデータもまとめてみた。各職業別の、10年ごとの人口及び政治力の数字・割合の推移表だ。
貴族は純粋にその数を増やしてきてはいるが、後半にかけて消費税による抑圧もあり相対的に地位を落としつつある。
一方で農家は人口の増加ペース以上に激しい速度でその政治力を高めつつあり、狙い通りとなっている。
一方で資本家・商店主・事務員・労働者といった敵対的勢力については、彼らの財源となる産業をほとんど手を付けないという方針を取るだけで、権力による抑圧などなくとも随分とその力を押さえつけることができる(なお、農場で働く労働者は労働者だが農村民を支持する割合が大きいため、上記の通り政治力を増してきてもそれすなわちイコール労働組合の強化にはつながらない)。
また、主要各民族の人口・影響力推移も見ていこう。「国民至上」の法律を制定しているため、国家の主要文化「ロシア」の「東スラヴ語」という文化特性を共有しているロシア・ウクライナ・白ロシア(ベラルーシ)以外はすべて差別対象となっている。
主要3民族の人口割合が減っているのは大量の土地併合によりペルシア人やウズベク人の数が莫大に増えたから。
主要3民族の中では、ウクライナ人の政治的影響力が飛躍的に高まっているのが良く分かる。これは首都を彼らの土地に移し、彼らの土地で大量の農場を建てて産業の振興を図ったからでもある。
抑圧的な政策のもと、貴族の楽園=農業帝国の形成に向けて突き進むロシア皇帝ニコライ1世。
その先には果たして、真の安寧が待ち構えているのか。
それとも・・・
第2回へ続く。
*1:イワン・ツルゲーネフ『父と子』、新潮文庫、工藤精一郎訳、78ページ。
*2:現代においてもロシア語話者が多いドンパス地方の最大の都市であり、2014年以降のロシアのウクライナ侵略によってルガンスク人民共和国の設立と2022年のロシアへの併合が行われた。