第256代教皇アレクサンデル9世ことガエターノ・インブリアーニは、1851年に若くして教皇の座に就いてからはや25年以上の歳月を重ね、いよいよ晩年に差し掛かりつつあった。
開明的な前教皇クレメンス15世(ルイージ・ランブルスキーニ)の後を継ぎ、自らの支持基盤である実業家集団の力を借りながら、彼は教皇庁を政治的のみならず経済的にも全カトリック世界の頂点に立つ存在にまで押し上げ、世界の列強たちと肩を並べさせるに至った。
引き続き彼はその方針を突き詰め、教皇庁をさらなる高みへと誘うこととなる。
だが一方、長らく平穏に満ちていた世界には、再び混乱の時代が訪れようとしていた・・・。
~ゲームルール~
Ver.1.1.1(Earl Grey)
使用MOD
- Japanese Language Advanced Mod
- Universal Names
- Historical Figures
- Dense Trade Routes Tab
- Umemployment and Peasant Data
- Improved Building Grid
- More Spreadsheets
- Visual Methods
- Romantic Music
- Visual Leaders
- Bug Fix 1.1
- ECCHI
- Visible Pop Needs
目次
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さらなる繁栄の10年
さて、前回までで経済的な基盤はほぼ確立し、もはや金は使い切れないほどにまで膨らんでいる。
この金を利用して、教皇庁は更なる発展を目指すこととなる。
まずは、税の引き下げである。
税を引き下げることで政府の正当性の上昇や急進派の減少などのメリットもあるが、それ以上に国民の全体的な生活水準を引き上げる効果が重要となる。
理屈は単純で、彼ら国民の支出における税金分が減ることで、給与自体が増えていかなくとも日々の純利益が上昇し、より高い生活水準へと移行しやすくなる。
生活水準はそのまま同じ市場の別の州から人を引き寄せる磁力となる。現在教皇庁の成長の最大にしてほぼ唯一のボトルネックは人口となっているため、その解決策において金を使ってでも生活水準を上げることは必要不可欠な策となるのだ。
一方、生活水準が高まるにつれ需要(日々の買い物に使う資金)も増していき、そうなるとそれまでは満足できた給与でも不満を持ち始めることとなり、生産性の低い施設には次第に人が集まらなくなっていく。
が、そういう施設は躊躇いなく撤去。そんな無駄な施設を残しておくくらいなら、限られた労働力を生産性の高い家具工場や織物工場に回すべきである。
結果、収益性の低い資源系はひたすら輸入に頼り、国内では単価の高い工業製品を製造し輸出するという、典型的な加工貿易の形式が完成する。
結局のところ、侵略もせず領土も拡張しない、人口に頼れない国家の場合は、これが最強の形なのかもしれない。
と、いうことで、1876年から始めて10年が経過した1886年時点での収支状況はこんな感じ。
関税収入は11万5,000ポンドに到達。所得税収額の3分の2に達している。軟材(木材)・鋼鉄・石炭の3大資源輸入で7万超の関税を稼ぎ出している。
圧倒的経済力でもってニジェール川、ナイル川の源流を探る探検にも成功。アメリカ西部開拓まで実現し、威信を大量に獲得。
これらの成果をもとに、1886年時点で教皇庁は列強入りを実現。
陸軍0、直轄領3州、人口は世界14位の1,256万人というステータスながら、世界に名だたる大国の1つとして君臨することとなった。
有り余る資金でスエズをエジプトから購入し、運河の建設も開始。
絹を大量輸入している清に加え、セレベス、そしてニューギニアに(ゴムのために)新たに創設した植民地との接続をより円滑にしていくことを目指すこととする。
世界最大の経済大国に向けてひた走る教皇庁。
すべては、順風満帆のように思えた。
しかし、そう甘くはない。
史実においても19世紀は動乱の時代であった。
その波は、このゲームにおいても、史実より40年ほど遅れてではあるが――1880年代中盤からヨーロッパ全土を襲うこととなる。
革命の時代である。
諸国民の春
ハプスブルク家の皇帝によって治められていたこの地で、急進主義者ガーハルト・フェルダーロイターを中心とした共和派勢力による帝政打倒の革命が巻き起こっていた。
ハプスブルク家側にはロシア帝国、両シチリア王国といった君主国が支援するも、戦況は劣勢。
1885年11月には共和派勢力が勝利し、1884年7月に始まったこの「七月革命」は成功裏に終わった。
直後、元オーストリア領であったロンバルディアの地に新たに成立したオデスカルキ家のサルデーニャ・ピエモンテ王国にて内乱が発生。
この反乱側(ダルカイス家)にはホーエンツォレルン家のドイツ帝国が、そしてオデスカルキ家側には成立したばかりのオーストリア共和国が支援を表明し、独墺戦争が繰り広げられることとなる。
この内乱は1886年5月には終結し、分裂したロンバルディアは統一され、実質的なオーストリア共和国の傀儡政権であるオデスカルキ家のサルデーニャ・ピエモンテ王国が成立した。
なお、ピエモンテ州にはちゃんとサヴォイア家によるサルデーニャ・ピエモンテ王国も存在している。こちらはフランスが支援しており、北イタリアにおける仏墺二大国による代理戦争の舞台が用意されることとなった。
そしてそのフランスにおいても、政変が巻き起こる。
1887年2月。
労働者と共和主義者の軍部とが中心となってフランスで「二月革命」が勃発。
この革命の火は瞬く間にフランス全土に広がり、知識人階級と小ブルジョワ層に支持された国王ルイ・ドルレアンは、自らの支持基盤がかろうじて勢力を保持することができたブルターニュ半島に逃れるも、その命運は風前の灯火であった。
さらに同じタイミングで、ポーランド人によるドイツ・オーストリアへの同時反乱が発生。自由主義と共にナショナリズムもまた吹き荒れる1887年は「革命の年」となった。
さらに1888年2月。
今度はドイツで内乱が発生。
しかも、今度は帝政打倒の共和革命ではない。
このドイツ急進派を率いるのは、何とオーストリアを追われたハプスブルク家のオットー・フォン・ハプスブルク。
オーストリア七月革命で処刑された「オーストリア最後の皇帝」フランツ・ヨーゼフの遺児が西ドイツに亡命し、そこで再起を図ったというわけか。ホーエンツォレルン家としては何ともはた迷惑な話であるが・・・。
そんな風にして1884年から1888年にかけて、欧州で巻き起こった自由主義・民族主義の嵐の中で、教皇庁もまた、例外ではなかった。
動揺と妥協
遡ること1885年1月14日。
34年に及ぶ歴代最長の在位記録を誇った教皇アレクサンデル9世(ガエターノ・インブリアーニ)が崩御。
新たに第257代教皇に選出されたのはやはり実業家集団の支持を受けるチェシディオ・ナゼッリ。
傲慢ではあるが政略家で、思想的にも穏健派に属していた彼は、すでにオーストリアで政変が巻き起こり始めていた動乱の時代の入り口において、バランスよく各国と渡り合うだけの外交手腕も持ち合わせていた。
だが、その彼を支援するはずの実業家集団は、急進主義者クリストフォロ・ジェルマネッティの指導の下、自由主義を強く希求するようになっていく。
選挙制度の導入、言論の自由などを強く主張するこの急進主義者たちに対し、新教皇チェシディオ・ナゼッリ(インノケンティウス14世を名乗る)はあくまでも保守派を支持し、彼ら急進派に対する弾圧を強めていくこととなる。
しかし1888年2月。フランスの革命も共和派の勝利で終結し、ドイツでも内乱が巻き起こりつつあったそのとき、政権を構成する小ブルジョワ集団もまた、この自由主義・急進的思想に染まりつつあった。
結果、政権を構成する3勢力のうち2勢力が急進主義者に染まることとなった。
ローマ教皇庁も「社会民主主義者」であり、あれだけ手塩にかけて育ててきた利益集団たちは皆、教皇に対して不満を持つ状態となってしまった。
このままでは政権運営に支障が出かねない。
教皇インノケンティウス14世は彼ら急進勢力たちに対し、妥協を試みることとなった。
すなわち、これまでの枢機卿団による寡頭政治を終わらせ、選挙制度を導入する、という妥協である。
但し、彼らが強く望むような幅広い選挙権ではない。その投票権を土地や資本を持つものに限定するという、非常に限定的な選挙権である。何しろここは「金の国」。持たざるものに、権利などない。
1888年7月29日。審議開始からわずか半年で土地所有者投票が成立。
そして教皇領で最初の政党が生まれた。
急進主義者たちは「極左」党を結成。ローマ教皇庁は社会民主主義者のグリバルディ枢機卿が指導するも、政党政治による政治の世俗化に危機感をもった保守勢力が結集し、「カトリック保守派」党を結成した。
結果、イデオロギーの対立がより先鋭化し、正当性は地に堕ち、「非正規政府」に。
元々の「寡頭制」が、「政府のイデオロギーペナルティ」を10%減少させるボーナスを持っていたのに対し、土地所有者投票と富裕者投票という、2つの強い制限のかかった選挙制度はこのペナルティが+20%と非常に高いのが特徴である。
だが、そんないわゆる「政権への不満」は、選挙の結果で黙らせればいい。
1889年1月29日。最初の選挙が行われ、極左党とカトリック保守派党の対決はごく僅差で争われた結果、ギリギリ極左党が過半数を握って勝利する結果となった。
いずれも政権内部の勢力しか政党を作らず、投票権もほぼ彼らだけで独占されているような「つくられた」選挙感は満載だったが、それでも選挙は選挙。
いかなる結果であろうと、この「民意」に文句は言わせない。政権の正当性も一気に57まで上昇させることに成功した(土地所有者投票は、全得票数のうち政権に参加している政党の得票率×「40」の正当性を獲得できる。今回は存在するすべての政党が政権内に入っていたため、40ポイント丸々獲得できたわけだ。なお、土地所有者投票よりは一段リベラルな「富裕者投票」ではその係数は「65」、制限選挙では「85」、普通選挙では「110」となる)。
なお、同じく急進主義者が指導者となっている知識人層と労働組合も極左政党への参加を希望しているが、彼らには政権入りを許さず、権力を使って徹底的に弾圧し続けている。まさに形骸化した選挙・・・!
何はともあれ、この一旦の妥協によって実業家や小ブルジョワ集団の機嫌も取りなおすことができ、政権は再び安定を手に入れることができた。
急進主義者たちによる崩壊がヨーロッパ各国で巻き起こる中、教皇庁はその危機を脱することができたというわけである。
一方その頃、ドイツ内戦はハプスブルク家が勝利し、オーストリアが存在する状態でハプスブルク朝ドイツ帝国が成立するという謎な事態に。
さらに、二月革命を成功させたフランス第二共和政では、当初の首班だったはずのフェルナン・マレがいなくなっており、代わりに軍部指導者であったパスカル・コルネが首相に。
さらに、革命時は強調していたはずの軍部と労働者が今はもう対立している。
これはすなわちあれか・・・史実における二月革命の六月蜂起のように、革命側の内部対立の先鋭化・・・きっとマレはコルネら軍部勢力によって処刑されたのだろう。恐ろしい。
さらに1年後の1890年3月には再び内乱が発生。コルネ率いる軍部主導政権に対し労働者集団が蜂起。
コルネはパリのみしか掌握できておらず、ロシアも彼らの支援を宣言したものの、5月には抵抗を諦め降伏。
この「三月革命」によって、最終的にフランスは労働者を中心とした共和政政権が出来上がることとなる。
1894年7月には、これまで平穏を保ち列強1位の座を死守し続けていたイギリスでもついに革命が勃発。
半年間の内乱を経て、ハプスブルク朝ドイツ帝国も支援に回った共和主義側が勝利。
栄光の「ヴィクトリアの時代」もここで終わりを告げることとなったのである。
1884年から10年に渡り繰り広げられてきた革命の波もようやく落ち着きつつある中。
1896年、ゲーム開始から60年が経過したタイミングでの、教皇庁の様子を見ていきたいと思う。
教皇庁、1896年状況
ゲーム開始から60年。
順調に成長を続けていったローマ教皇庁は、GDP2億を突破。1人あたりGDPでは2位フランスに大差をつけての1位となっている。
列強ランキングでは6位。GDPはフランスとはまだ2倍以上の差がついてはいるが、少しずつそこに近づきつつある。
家具・高級家具、そしてニューギニア植民地で採取したゴムや燃油などで世界1位の生産量を誇るようになっている。
10年前からさらに成長したローマの都市レベルは91。
410個の取引所では40万人の商店主が働き、家具工場は80個建造されて世界で最も使われる家具・高級家具を生産し続けている。
その商店主たちが支持する小ブルジョワ集団がその影響力を高めつつあり、強化している実業家は相対的に少しずつその力を落としつつある。
その指導者であるルッジェーロ・ヴァルバッソーリ枢機卿が、「野心的」かつ「政略の達人」であること、そして選挙制度を手に入れたことで制定可能となった「選挙制の官僚」法律によって、その影響力へのボーナスを大きく手に入れられるようになったことが響いているようだ。
なお、豊富な資金を背景に課税レベルを最低のものにしているため、生活水準も高水準に。
2位以下に圧倒的な差をつけて、世界で最も平均的に豊かな国となっている。
この高い生活水準を背景に、「国教」「人種差別」という抑圧的な体制にも関わらず、直轄領3州はその人口を一気に膨れ上がらせていく。首都ローマのあるラツィオ州は1,000万人を超えるようになった。
教皇領全体の人口も2,147万人。世界10位の規模に。
ついにイタリア人は全体の5割程度に。結構差別される住民も平気で移民してきてもいる。
この人口増はやはり関税同盟の拡大によるところが大きい。主にカトリック圏を中心に拡大していったが、後半ではアヘンのためにエジプトやペルシア、硬材のためにイギリスから独立したカナダなども経済的従属国にしていっている。
この結果、教皇市場が世界最大の市場に君臨。
1896年時点での収支状況はこんな感じに(比較のため、以下は税率を「通常」に戻した際の数字)
関税収入は一時期21万5,000ポンド/週(年間1,032万ポンド)を稼ぎ出していたときもあった。税率最低時の所得税収が22万9,000ポンド/週程度のため、そこに匹敵するだけの収入ということで、とくに税率を下げるプレイのときは関税収入の大きさが財政を守る鍵となる。
なお、そのピーク時の貿易状況は以下の通り。自国所有ルートだけで47本。
5万を超える輸送船団がこの貿易を維持するために使用されていた。
と、いうわけで、世界の市場を支配しつつある「金の国」教皇庁。
いよいよ時代は20世紀に突入し、教皇領は現実の歴史ではありえなかった道を突き進んでいく。
その先にある未来とは。
次回、「金の国」最終回。
果たして教皇領は、世界で最も豊かな国家となれるのか。
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