かつて、ノルトマルク(北方辺境伯領)と呼ばれていた地は、カール大帝および東フランク王ハインリヒ1世とその後継者オットー1世らによって平定され、ドイツ人による支配が確立していたものの、10世紀末頃からスラヴ人による反乱が多発し、いつの日かこの地は彼ら異教徒の手によって完全に奪われてしまっていた。
これを解放し、再びドイツ人とカトリックによる支配を回復するのは、史実では1134年のアルブレヒト熊公の代まで待たねばならなかった。
しかしこの物語においては、そのアルブレヒト熊公より半世紀早く、ルナール家のオトゲル隻脚伯の手によって、ドイツ人とカトリックによる支配圏「ブランデンブルク辺境伯」が設置されることとなる。
オトゲルはその後、扁桃炎の悪化によってわずか44歳で没することになるが、その後を継いだゲロ慈悲伯の手によって、その領域はさらに拡大していくこととなる。
そして、時を同じくして、カトリック世界では異教徒に奪われ続けていた聖地イェルサレムの奪還を目指して十字軍が発令。
ゲロ慈悲伯もこれに賛同し、弟のメクレンブルク伯ルートヴィヒに率いさせた兵をイェルサレムに派遣。ルートヴィヒは見事この大役をこなし功績を挙げ、遂には獲得したイェルサレムの地の支配権を、ゲロの妹であるディトケが獲得するに至ったのである。
今や、ゲロ慈悲伯の権威は頂点に達した。彼はさらなる東方遠征を実現すべく、ポンメルン(ポメラニア)王国を創設し、ドイツ騎士団も設立した。
しかしそんな偉大なるゲロ慈悲王は、1107年9月、何者かによって暗殺された。
あらゆる人に好かれ、およそ誰からも憎まれることのなかったはずの名君の突然の死。
ルナール家はこの混乱を、乗り越えることはできるのか。
第3代ブランデンブルク辺境伯兼第2代ポンメルン王オトゲルの、物語が始まる。
Ver.1.10.2(Quill)
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目次
第二話はこちらから
ザクセン継承戦争(1107-1111)
偉大なる慈悲王ゲロの死の報せを、その嫡男であるオトゲルは外国の地で知らされることとなった。
それは首都ブランデンブルクから西に300㎞離れた位置にある、ザクセン公領内の町ヴァルペ。
彼がなぜこの場所にいるのかということについては、やや複雑な経緯がある。
彼は元々、ブランデンブルク辺境伯とザクセン公との同盟強化のため、ザクセン公マグヌスの五女アテラとの婚姻を結んでいた。
その上で3年前の1104年11月にこのザクセン公マグヌスが死去。帝国内最大の勢力を誇る巨星がついに堕ちたわけだが、彼には史実通り男子がおらず、その広大な領土は上の3人の姉によって分割された。
長女イーダには中央のザクセン公領。将来的にはその夫オーストリア公レオポルト3世*1との間のヴァルデック家*2の子がこれを継承する予定。
次女のヴルフヒルデには東部のオストファーレン公領が継承され、彼女の夫はオトゲルの叔父ヴェレティア公ルートヴィヒであるため、その間の子マルクヴァルトを通して将来的にこの地はルナール家が手にすることになるだろう。
三女のエイリーカは西側のヴェストファーレン公位を継承。ここも彼女の旦那であるルートヴィヒ(ルイ)が属するイヴレーア家が継承していくことが予想され、かつて東方辺境伯領に名を冠していたほどの名門ビルング家は断絶の憂き目に遭っていたのである。
そうしてザクセン公領が上3人の姉たちによって分割された中で、残る2人の妹たちはそれぞれ姉たちの公領内にある一部の伯領を継承していた。
オトゲルの妻である五女アテラも、長女イーダが治める中央のザクセン公領内にあるヴァルペ伯領を継承していたのだが、1年前に次男ゲロを産むと同時に死亡。
彼女の持っていたヴァルペ伯領は、わずか3歳の嫡男マグヌスが継承することになったのである。
当然、幼少のマグヌスを一人置いておくわけにもいかなかったため、その父オトゲルはマグヌスの摂政としてヴァルペに留まっていた。
そこに届いた、父ゲロ王の突然の死の報せ。オトゲルは慌てて、とりあえずヴァルぺ属司教のメインハルドにマグヌスのことは任せ、自分は急ぎ領国に戻った。
とかく、国内の安定化が最重要である。
その中で最も重視したのが、叔父ルートヴィヒとの関係。国内最大領域であるヴェレティア公領を統治するだけでなく、先の十字軍においては辺境伯軍の総指揮官として活躍し、キリスト教世界の英雄となっていた。そして将来はその子がオストファーレン公領を継承し、ルナール家の拡大が約束されている血統。一族の主導権を要求してきてもおかしくない相手である。
折しも、オトゲルがブランデンブルクに到着するとほぼ同時に、ルートヴィヒの方から城にやってきてくれていた。すぐさまオトゲルは彼との面談を設定する。
「叔父上、わざわざお越し頂きありがとうございます」
「いえ、陛下も大変ですね。外国からこっち、急いでのご帰宅でしたでしょう。お留守の際はいつでも私が城を守るゆえ、ご安心いただければ幸いです」
ルートヴィヒのその言葉は一体「どちらの」意味で言ってるのか測りかねながら、オトゲルは慎重に言葉を選んでいく。くそ、俺はチェスが苦手なんだ。だが少なくとも彼が表面上かもしれないが自分に敬意を払ってくれているのは助かる。選択肢を間違わなければ味方になってくれるだろう。
「それは大変心強いお言葉です、叔父上。私も兼ねてより父の後継者として準備してきたことは確かですが、こんなにも早く、とは思っていなかった為に、一人でことを為すにはあまりにも限界があります。正直なところを申し上げれば、私にとって最も頼りになる存在は叔父上、貴方なのです。どうか引き続き我が王宮の元帥として、あるいはそれのみならず最大のアドバイザーとして、御力を貸して頂ければと思います」
「分かりました。勿論、お引き受けしましょう」ルートヴィヒは柔和な笑みを浮かべながら頷く。よし、最初の選択肢は間違ってなかったぞ。
「私からも一点、お願いがあります」ルートヴィヒが続けて紡いだ言葉に、オトゲルの笑顔も少し引き攣りそうになる。なんだなんだ? 何を要求するつもりだ? 所領か? 摂政の地位か?
「弟のヴォルガスト伯のことですが・・・彼を、私の臣下に加えて欲しいのです」
身構えていたオトゲルは、思いもよらぬ叔父の言葉に、少し混乱してしまった。
「ヴォルガスト伯・・・エシコ叔父上のことですね。確かにエシコ叔父上の所領の多くは先日ルートヴィヒ叔父上が創設されたヴェレティア公領の一部ですので、無理はない処置となりますが・・・」
「可能ですか?」
ルートヴィヒがまっすぐにオトゲルを見据える。その真意は分からないが、オトゲルにとっても不利益が大きいものではない。それよりもそれでこの恐るべき叔父上の機嫌を取れるのであれば、安いものである。
「勿論です。分かりました。ヴォルガスト伯を貴方の臣下としましょう。家令に命じ、処理させます」
「ありがとうございます」
その他、細かな話し合いを経て、ようやく解散となったが、最後にルートヴィヒはオトゲルに向かって尋ねた。
「そういえば兄上・・・ゲロ王暗殺の首謀者については、何か分かりましたか?」
「いえ、私もとにかくこちらに戻ってきたばかりなのでそこまで回っておらず。とりあえず父上の代から密偵長を務めているアーノルドに引き続き捜査を行わせているところですが・・・」
「そうですか、分かりました。こちらでも何か分かればすぐお知らせ致します。・・・偉大なる兄を亡き者にするなど、断固として許せぬ行為ですからね」
傾き始めた日の影に隠れ、ルートヴィヒの表情はイマイチはっきりとは分からなかったが、生前の父とルートヴィヒとが非常に親しかったとは聞いている。その怒りのほどは理解できた。
「私の方でも、真実が判明し次第、ご連絡させていただきます」
やはり影になって分からなかったが、おそらくルートヴィヒは微笑んでいたように思われた。
その後もオトゲルは国内の安定のために尽力した。ポンメルン大司教のムスチヴォイはコネだけでその地位についている中身は愚かな男ではあるが、忠義には厚く比較的こちらの言うことを何でも聞いてくれる。
宰相でおばのレギンリントの婿でもあるカスティーリャ人フェルナンド・ヒメノは有能だが野心が強く、これを懐柔する為にベルリン伯領を明け渡してもやった。
そうやって何とか1年半ほど時間をかけながら国内安定化に努め、ようやく落ち着いてきたかな、と思っていた、その時。
事件は、起きた。
1109年3月23日。
その日は朝から空がどんよりと曇り、オトゲルは微かな頭痛を感じ始めていた。
嫌な予感がする、と彼はムスチヴォイにこぼすが、お疲れなんですよ、とムスチヴォイはあまり本気にしていない様子で軽く返してくる。
まあ、そうなのかもしれない、と思ったオトゲルは、まだ日も沈まないうちに寝室に入り、早めの休息を取ろうかと考えていた。
そんな彼の下に、急使がやってくる。そして彼は恐るべきことを口にした。
「閣下・・・ヴェレティア公の御子息であられますマルクヴァルト様が、殺されてしまいました。その首謀者は・・・ザクセン女公イーダとのことです!」
それはあまりにも衝撃的な出来事であった。
ヴェレティア公・・・叔父のルートヴィヒの嫡男マルクヴァルトが、夜の街中で何者かに集団で襲われ、護衛の奮闘虚しくその命を散らすこととなったのだ。
襲撃者の一部を生捕にしたことで、すぐさまその拷問をヴェレティア公自ら行い、一連の事件の首謀者がザクセン女公イーダであることが判明したということだ。
すでにルートヴィヒは妻ヴルフヒルデのいるリューネブルクへと向かったという。イーダの狙いがマルクヴァルトが継承予定だったオストファーレン公領にあるのだとしたら、その弟たちの身も危うい。
そしてそれは当然、オトゲルも同様であった。すぐさま支度を整え、夜のうちにブランデンブルクを出立し、嫡男マグヌスの待つヴァルペへと向かった。
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「とんでもないことになりましたな、陛下」
ヴァルペに到着したオトゲルにそう声を掛けたのは、ヴァルペ伯軍の総指揮官を務めるリィマー・フォン・ラーヴェンスベルク将軍。オトゲルに匹敵する軍略の才を持ち、オトゲルも認める存在であった。
「すでに叔父上の軍も動き出している。私の軍もデルヴァン将軍に指示し、召集を開始している。準備ができ次第こちらに向かってくるだろう」
オトゲルはいまだ情況の整理をしきれてはいなかったが、こと戦争となれば迷うところは少ない。面倒な政治よりよほどわかりやすい。
「我々の働きにも期待ください。陛下の軍ほどには精強では御座いませんが、忠義の心においては負けておりません」
「ああ、勿論頼りにしている。だが、野戦においては私の軍が中心になって動く。お前たちはマグヌスのことを守ることを最優先にして欲しい」
オトゲルの言葉にリィマー将軍は深く頷く。と、同時に、慌ただし気な様子で一人の兵士が入り込んでくる。
「陛下、ザクセン女公より遣いが・・・!」
「何だ? 何と言っている? 命乞いか?」
「いえ、そ、それが・・・」
兵士が震える手で差し出した手紙を受け取り、オトゲルはその文面に目を滑らす。
それはマグヌス宛に始まっており、内容は・・・
「即時ヴァルペを引き払うべし、さすれば命までは取らぬ」
読み上げながら、オトゲルは自身の体温が熱くなるのを感じていた。その形相に周囲の兵士たち、屈強なリィマー将軍ですら恐れ慄き、何も言えなくなってしまう。
そのままオトゲルは、怒りのままに目の前の書状を引き裂こうと力を込めた。
が、その前に背後から、鋭い声が浴びせられた。
「陛下、落ち着ついてください。これは分かりやすい挑発です。寧ろこれで、奴らが我々の一族に仇なす意図があることが明白になりました。その書状はそのまま残し、公領内のその他諸侯を味方につけるための工作に利用すべきです」
声の主は一人の老人であった。アーノルド・フォン・エップシュタイン。先代の父王の頃から仕える忠臣であり、騎士として、医師として、そして密偵長として、ルナール家に陽にも影にも多大な奉仕をこなしている男だ。
「・・・うむ、アーノルド。お前の言うとおりだ」
短気な性格で一度怒り出すと手がつけられなくなるところもあるオトゲルだが、幼少期から世話になり、その後も臆せず諫言を厭わないアーノルドの言葉だけは、オトゲルも黙って言うことを聞く。
冷静さを取り戻したオトゲルはすぐにマグヌス付の宰相デドに命じる。「ザクセン公領内の領主たちに、このイーダの暴政について訴えかけろ! 我々ヴァルペ伯と共に蜂起することを呼びかけ、賛同を得るのだ!」
合わせてブランデンブルクにもデルヴァン将軍宛ての早馬を送り、すぐにでも兵を出立させ直ちにヴァルペにまで来るよう命じる。時間との戦いだ。
翌日、1109年3月24日。
まだ朝靄も明けきらない早朝に、霧の向こうからザクセン公の紋章を掲げた数千の軍勢が、まっすぐとヴァルペに向かって近づいてくるのが、塔の上から確認できた。
オトゲルはリィマー将軍に籠城の指示を出しつつ、自らはマグヌスと近習を連れてすぐさま城を脱出。目指すは叔父の妻であるオストファーレン女公の居城リューネブルク。そこでマグヌスを預けたうえで、デルヴァン率いるポンメルン王国軍との合流を果たす予定であった。
そして3月25日。
オトゲルは予定通りリューネブルクの街でデルヴァン将軍率いる王国軍と合流した。
「ご無事でしたか、陛下」
「ああ、だが問題はここからだ。どれだけザクセン女公の下で反乱者が出てくるかにかかっている。それに、イーダの夫であるオーストリア公もきっと軍を出してくるに違いないから、彼らが合流するよりも先に勝負を決しておきたい。スピード勝負だ。
デルヴァン、軍は俺が率いる。お前は俺のサポートに回ってくれ」
「承知」
3月26日。
ザクセン公領内に侵入したオトゲル率いるポンメルン王軍。斥候に情報を探らせると、どうやら工作はうまく行ったようで、ザクセン公領内の各地で諸侯が反乱の兵を挙げ、主君ザクセン公に対する反旗を翻している。
ヴァルペ城を包囲していたザクセン公軍も、この事態にたまらず包囲を解き、そのまま公領内を逃げ回っている状態。
これは好機だ。
厄介なオーストリア公軍がやってくる前に、野戦でその主力を削る。
4月10日。
オトゲルはついにブレーメンの地で、ザクセン公軍を捉えた。
ザクセン公軍は女公イーダが自ら軍を率いていた。オトゲルも自らポンメルン王国軍を率いており、双方の主戦力がこのブレーメンの平原地帯で真正面からぶつかった。
戦場は一気に混沌とした状態となった。
「陛下、お気をつけ下さい。何やら近づいてくる一団がおります」
戦場の端の小高い丘の上で情況を見渡していたオトゲルは、傍らのアーノルドから忠告を受ける。
見れば確かに、主戦場から離れ、真っ直ぐとこちらに向かってくる少数の敵兵。その中央で馬に跨っているのは屈強な男であった。
「放て、陛下に近づけさせるな!」
アーノルドの号令で次々と矢が放たれていくが、その男は何ら怯む様子を見せずに猛スピードで接近してくる。剣を抜いて迎撃に出た兵士たちも、その手に持った巨大な長槍の一振りで一気に吹き飛ばされていく。
「陛下、下がっていて下さい!」
騎士デド・フォン・ホルシュタインがオトゲルの前に出て男と対峙する。「平原の伯爵の法」の称号を持つポンメルンの誉高き騎士であったが、彼の一撃をその男はいとも簡単に受け止め、弾き返すと同時にその体を刺し貫いた。
「くっ・・・この私が相手だ、下郎!」
今度はオトゲルの護衛役であるハルスガテが剣を抜き主君の前に出る。「恐れ知らずの悪党」と謳われるポンメルン最高の武勇の持ち主であったが、しかし相手が悪かった。何度かその長槍の攻撃をかわすことはできたが、やがてその胸元を大きく削り取られた。
アーノルドも剣を抜き構える。オトゲルも剣を抜く。彼自身、白兵戦に自信はあったが、この怪物を前に果たして勝てるのか・・・
不安と共に男を睨みつけていたオトゲルの視界の端に、目にも留まらぬ速さで男に近づく黒い影を見つけた。
「ぐおっ・・・!」
それまで常に余裕そうな表情を見せ続けていたその男は、初めてその顔を歪ませ、そして吹き出た血と共に膝をついた。黒い影は止まることなく続いてその手の中にある銀の輝きを振るい、それは真っ直ぐと男の首元に吸い寄せられていき、空に赤い噴水を撒き散らした。
「Eghlid, tefkid?」
聞き慣れぬ異国の言葉でオトゲルを見据える影の男。
彼の名はアミン。先の十字軍にて、ルートヴィヒが現地で徴用したベルベル人の戦士であり、非常に優れた男だからということでオトゲルに提供してくれた人材だ。
体躯は人並みながら、その俊敏さは誰にも負けず、気づけば懐に入り込み、その手の中にある小ぶりの短刀を翻し敵を切り伏せる。その残影だけが強い印象を与えるがゆえ、いつの日か彼は「銀の手」と呼ばれるようになっていった。
男とともに迫ってきていた敵兵は皆、その他の兵士たちによって倒されており、何とか窮地を脱したオトゲル。ハルスガテら重傷を負った騎士たちの治療をアーノルドに指示しつつ、戦場に注意を戻すと、そこでもすでに大勢は決しており、ポンメルン王国軍がザクセン公軍を圧倒し敗走させていた。
これで終わりではない。オトゲルはすぐさま軍を率いて南下し、逃げるザクセン公軍を追いかける。
二度と立ち上がれないように追い詰め、壊滅させてやる。
だが、グライヒェンシュタインまで移動したところで、派遣していた斥候から知らせが入る。
「ザクセン公軍、マンスフェルトにてオーストリア公軍と合流。総勢4千名弱の兵となり、ブランケンブルクでこちらを待ち構えているようです」
間に合わなかったか。
こうなると、オトゲルの軍単独ではどうしようもなくなる。オトゲルもリィマー将軍や諸侯たちと合流し、双方はしばし膠着状態に陥った。
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1109年10月10日。
互いに一進一退の小規模な攻防が続く中、長引く戦乱を終わらせるための講和会議がミンデンの教会で開かれることとなった。
講和を呼びかけたのはザクセン女公イーダの夫、オーストリア公レオポルト3世である。妻の始めた戦争に援軍を寄越したものの、彼自身はこの戦争にそこまで乗り気ではなく、彼の従兄弟でありオトゲルの義弟*3「ローマ王」テオドリヒを通してオトゲル側に講和締結の打診を続けていたのである。
そしてそれは実現する。和平の仲介役として、イーダの妹でヴェストファーレン公領を継承していたエイリーカと、その夫のルートヴィヒ(ルイ)・フォン・イヴレーアも同席することとなった。
ルートヴィヒの甥ギヨーム(ヴィルヘルム)は上ブルグント公でもあり、この講和会議はザクセン公領を巡るポンメルン王国、オーストリア公(および神聖ローマ皇帝の血族)、上ブルグント公の血族という帝国内の有力諸侯たちによる非常に政治的な協議の場へと変貌。当事者であるはずのザクセン女公イーダの発言権はほぼ無いに等しいものとなっていた。
ゆえに彼女は夫の背後で黙って俯いているだけだが、その表情は何も納得していないという様子が明らかであった。
オトゲルは彼女の真意ーーなぜ今回、あのような凶行に走ったのか、と言うことーーを直接問い糺したくはあった。妻のアテラが存命の頃、父マグヌスがいよいよ男子なく亡くなってしまうことが確定的になった頃から、イーダの人が変わってしまったということは聞いてはいた。
だが、彼女の一存だけでこれほどの混乱を引き起こすとも考えづらい。
やはりこの目の前の食えない男、オーストリア公レオポルト3世が裏で糸を引いていると考えるのが自然だ。
そんなレオポルト3世が提示してきた和平案に、オトゲルは目を通す。すでに宰相フェルナンドが内容を精査確認済みのものではあるが、それは、イーダの即時退位と、全諸侯の称号の補償および公爵による称号剥奪を認める法律の廃止、そしてイーダに代わる新公爵として、イーダとレオポルト3世との間の子レオポルトを据えるという内容が記載してあった。
あわよくばオストファーレンやヴァルペを手中に収めようとしたものの、それがうまくいかなかったとしてもザクセン公領は確実に自家の所有とする・・・レオポルト3世の思惑通りにことを運ぶための和平案である。
とは言え、これを無下にすることもできない。今はまだ総力においては反乱軍側に有利だが、この和平案を蹴って強行姿勢――法に反しレオポルトらヴァルデック家をザクセン公位から排除しようとすれば、その背後にいる皇帝まで動き出す可能性はある。
諸侯同盟の盟主ポンメルン王としては、この和平案を受け入れるほかなかった。
問題は、叔父上の意向である。
オトゲルの背後、部屋の入り口のあたりが少し騒がしくなる。叔父上がやってきたようだ。
「皆様方、遅くなり申し訳ございません。また、妻のヴルフヒルデが不在となることもご容赦頂きたい。息子の死以来、体調が思わしく無い状況が続いているがゆえ」
ヴェレティア公ルートヴィヒはそう言って、オトゲルの傍らに一歩引いた状態で立つ。その視線は相手方の先頭に立つオーストリア公レオポルトと仲介役のルートヴィヒ・フォン・イヴレーアに向けられており、オーストリア公の背後に控えるイーダに対しては目もくれていなかった。
その真意を測りかねつつ、オトゲルはヴェレティア公に和平内容の書かれた紙を渡す。ヴェレティア公はしばらくそれを眺めたのち、一言。
「陛下はこの内容はすでに確認されておられるということで良いですか?」
オトゲルは黙って頷く。
「それでは、私に異論はございません。陛下のご意向に添いましょう」
それだけ言って彼は紙をオトゲルに返却した。
ヴェレティア公のその回答に、その場にいた誰もが驚きの表情を見せ、背後では何名かが囁き合う声が聞こえた。オーストリア公の背後のイーダですら、目を大きく見開き驚愕した様子を見せていた。
「い、いいのですか?」
思わず確認してしまうオトゲル。ヴェレティア公は笑顔で応える。
「ええ、もちろんです。過去に囚われ復讐の連鎖に身を任せることは簡単ですが、我々政治の中心に立ちそれに責任を果たさねばならぬ男たちの義務は、未来に向けての環境を作ることにあります。私の家族については家長としての私が責任を持ち、政治家としては建設的な結論を出すことに異議はありません」
大勢は決した。
諸侯連合側にもこの和平内容に異論を持つものもいないわけではなかっただろうが、実質的なポンメルン王国の最大勢力かつ最大の当事者であるヴェレティア公のこの発言によって、結論は確定されることとなった。
あとは双方の宰相同士による細かな表現の修正を残すのみとなり、最終的に10月11日、ザクセン女公イーダ・オーストリア公側とポンメルン王・ザクセン諸侯側との間で「ミンデンの和約」が結ばれた。
帝国内最大級の諸勢力が関わるこの「ザクセン継承戦争」は、下手をすれば数年単位でその規模を拡大させかねないものであった。しかし双方の妥協と融和によりわずか半年で決着がつくこととなる。
その立役者として誰もがヴェレティア公の寛容さを挙げており、いつしか人々は彼のことを「寛容公」と呼ぶようになった。
すべては平穏のままに落ち着いていった、ように思われていた。
しかし、2年後の1111年11月30日。
マクデブルクで行われた狩りから帰ってきたオトゲルは、密偵長アーノルドからその報せを受け取った。
「陛下、元ザクセン女公イーダの件ですが・・・昨夜、命を落としました」
何、とオトゲルは聞き返す。ただ単に死んだと言うような単純な話ではなさそうだ。
「昨夜ディープフォルツの宮廷で祝宴が開かれておりましたが、その席上、酒の入ったゴブレットを口に含んだイーダが突如苦しみ始め、その場に倒れたとのことです」
「毒、か・・・」
「ええ、おそらくは。そして、これは、未確定情報ですが・・・」
アーノルドの表情が険しくなる。
「密偵の報告によると、祝宴の開かれた宮廷の中で見知った顔があったと。見間違いでなければそれは、ヴェレティア公の館で見た顔だったとのことです」
まあ、そうだろうな。オトゲルは唸る。
皇帝一族を背景に持つオーストリア公夫人のイーダを、危険を冒してまで暗殺しようとする人物はそう多くはない。
数日後、オトゲルはヴェレティア公の館を訪れた。しばらく雑談に花を咲かせたのち、満を持して話を振ってみた。
「そう言えば叔父上、ザクセン公母が亡くなられた話は聞きましたか?」
「ええ」
眉ひとつ動かすことなくヴェレティア公は答える。そのまま口元に微笑を浮かべながら、続ける。
「正義は果たされました。流されるべき血が流れたのです」
オトゲルはそれ以上、その会話を続けるつもりはなかった。しかし、彼もまたーーいや彼こそが最もーールナール家の家訓「狐の如く狡猾たれ」を体現している人間なのだ、とオトゲルは確信していた。
いずれにせよ、オトゲル王最初の難題であった「ザクセン継承戦争」も終わり、彼もようやく人心地がつけるようになった。
戦後の2年間で国内の安定化も一段落ついたこともあり、彼は母の勧めもあり過去の父・祖父たちと同様に、巡礼を行うことに決めた。
その目的地はーー聖地、イェルサレムである。
不安と依存(1112-1118)
聖地イェルサレム。キリストの墓の上に建てられた聖墳墓教会を始め、キリスト教の聖地となったこの場所は、長く異教徒の支配下にあったものの、1101年に発令された十字軍によりこれを解放。
その中でルナール家のルートヴィヒの活躍が目覚ましかったことから、成立したイェルサレム王国の初代女王にはルートヴィヒの姉ディトケが据えられることとなった。
キリスト教徒の勢力下に入ったことで、これまでよりもずっと巡礼の難易度が下がったこの聖地イェルサレム。父も自らの足では行ったことがないというこの場所に、オトゲルは赴くことを決断した。
だがこの旅は、彼にとって大きな精神的挫折を味わう結果にも繋がった。
アルプスを越え、イストリア半島の辺りで船に乗り、洋上をまっすぐとイェルサレムへと向かっていくオトゲル。
しかしその船上で、彼は重い病気に罹る。
なんとか耐え抜き、イェルサレムに到着した後すぐに病院に入り治療を受け回復したものの、叔父上たちの話を聞き自らも十字軍騎士のつもりで意気揚々と上陸しようとしていた中で、とんだ恥をかくこととなった。
ようやく回復し、予定通りイェルサレム女王である叔母のディトケとも対面するが、その目は冷ややかであるように感じられ、オトゲルは自分が歓迎されていないと思うようになっていった。
その後、オトゲルはディトケの嫡男であり自身の従兄弟にあたるイェルサレム王子ケルステンに案内され、聖地を巡ることとなる。
聖地は美しく、壮大ではあったが、オトゲルはむしろこれを紹介するケルステンの美しさ、機微、そしてあまりにも聡明なその話ぶりに気を取られていた。
未来のイェルサレム王であるケルステンはビザンツ皇女ピュリスを婚約者にもしており、あらゆる面において自分よりも遥かに優れているという思いがオトゲルを支配するようになっていた。
そして輝かしき聖地の遺跡たちを目にするごとに、この偉大なる聖地を取り返した父ゲロや叔父ルートヴィヒの偉業を実感させられることになり、そのことがより一層、彼の自尊心を傷つけつつあったのである。
俺は本当にこの偉大なる一族を束ねるポンメルン王として相応しいのか?
叔父のヴェレティア公は敬意を持って接してくれてはいるが、それは彼が「寛容公」だからであり、本当はあの叔母のイェルサレム女王のように自分を蔑み、憎んでいるのではないか?
不安ばかりが頭の中を駆け巡るこの2年間の大巡礼は、彼の中に何一つ前向きな成果を残すことはできなかった。
そうして心身共に疲れ果てブランデンブルクに戻ってきたオトゲルに、留守を任せていたアーノルドが恐る恐るやってきて、神妙な面持ちで報告を始めた。
「陛下、兼ねてより調査を進めておりました、父ゲロ慈悲王の暗殺首謀者についてですが・・・」
「わかったのか?」
オトゲルは椅子から上体を起こし、その続きを待った。あれだけの偉業を成し遂げ、世の誰からも愛されていたはずの父を、一体どこの誰が、どんな理由で殺すことができたというのか。
暫しの逡巡の後、アーノルドは重い口を開いた。
「ゲロ王を暗殺した、その首謀者は・・・陛下の叔父上、ヴォルガスト伯エシコ閣下です」
その言葉を聞いたとき、あまりの衝撃にオトゲルはその場に倒れてしまいそうになった。
叔父上が? なぜ?
偉大なる父王はよりにもよって肉親に殺されたというのか?
混乱の中で浮かんできたのは、ヴェレティア公の顔であった。
このことをルートヴィヒ叔父上は知っているのだろうか・・・もし、彼がこのことを知ったら、果たしてどうするのだろうか。
「何かの・・・何かの間違いではないか」
「私もそう信じたいところでした。が、残念ながらあらゆる証拠がヴォルガスト伯の犯行を証明しております。
陛下、これは紛れもない事実です」
オトゲルはすぐには返答せず、しばらく口元を押さえながら黙り込んだ。
やがて、永遠とも思える時が流れた末、決断を下した。
「兵を出せ。ヴォルガスト伯を捕えよ」
1113年11月5日。
デルヴァン将軍率いる四千の兵がヴォルガスト伯領に侵入。エシコが座するヴォルガスト城を包囲する。
事前に彼の主君であるヴェレティア公には許可をとっての行動であった。先行してヴィスマール城へと向かったオトゲルは、自らの口でヴェレティア公に事実を伝えるが、ヴェレティア公は「そうか・・・」とだけ呟いたのち、軍事行動の許可をオトゲルに与え自らはすぐさま部屋を出て行ってしまった。
包囲されたヴォルガスト伯は予想に反して一切の抵抗を見せずに降伏し、そのまま彼は軟禁状態となった。
あとは、彼に対する処置をどうすべきか。
父の死をもたらした大罪人に対し、赦せない思いはもちろん強くあった。できうるならば、その手で自ら処刑してしまいたい。そうでなくとも地下牢に収容し、苦しみの中で深い悔恨を味あわせたい。
そもそも、なぜそのような凶行に彼は及んだのか。それを問い糺したい思いはあったが、しかし一方で、その答えを聞きたくはないという思いも強くあった。
一体、どんな理由があれば、主君でもある肉親を手にかけられるのか。
そして、あの名君ゲロ王がそうやって殺されうるのだとしたら、俺はもっと簡単に・・・
そうやって自らがなすべきことを迷い、煩悶している間に、滞在していたヴェルレの町にヴェレティア公がやってきた。
「陛下。私も数日間悩み、苦しみましたが、その上でお願いしたいことがあり、参上致しました」
オトゲルの前に現れたヴェレティア公は、珍しく少しばかりの疲労が見えるような表情をしていた。
「何でしょう、叔父上。叔父上の提案であれば、私は何だって受け入れるつもりでは御座います」
それは思わず漏れたオトゲルの本音であった。彼にはもはや、重大な決断を果たす自信がなかった。叔父上ならば、この父と同じく偉大なるヴェレティア公であれば、どう考える?
「ありがとうございます。それで、私からのお願いなのですが・・・弟を、ヴォルガスト伯を解放してほしいということです。彼の身柄を解き、再び私の臣下としてほしいと」
さすがに予期していなかった答えに、オトゲルは驚愕し彼の目を見据える。だがその目は真剣で、オトゲルのことを強く見返していた。
「もちろん、ただとは言いません。その釈放のための身代金はお支払いさせて頂きますし、彼の動向は私が責任を持って監視させていただきます。しかし・・・これは領主として、施政者としては不適切かもしれませんが・・・やはり、どんな罪を犯したとしても、肉親は肉親。特にエシコは、今の私に残された唯一の男兄弟ですので、最後には情が出てしまうのです」
やはり、叔父上は「寛容公」なのか。
彼の言葉に、オトゲルは先ほどまで感じていたヴォルガスト伯に対する怒りもすべて霧散し、湧き上がりつつあった不安も全てなくなる思いを感じていた。
「分かりました。叔父上の言う通りにしましょう。ヴォルガスト伯の罪を赦すわけではありませんが、その身柄は解放し、以後の対応は叔父上にお任せします」
「ありがとうございます、陛下」
頷くヴェレティア公の顔を見ながら、彼が最後に述べていた言葉をオトゲルは心の中で繰り返していた。
肉親は肉親・・・そう、自分もまた、きっと大丈夫だ。
その後も、オトゲルは叔父のヴェレティア公と行動を共にし、常に彼の意見を容れるようになっていく。
例えば先代・先々代が積極的に進めていた東方遠征を再開。ポンメルン地域に残されていたコウォブジェク伯領を奪い取ったほか、ポンメルンの東方にさらに広がるプルーサ大族長領、すなわち「プロイセン」地域への侵攻も進める。
さらに、ザクセン継承戦争での「勝利者」の1人であったオーストリア公レオポルト3世とその息子・ザクセン公レオポルトに対する「復讐」も実現する。
1116年春。
ザクセン公家の家臣であったオルデンブルク伯ラトケ(第一話で登場したエギルマール1世の嫡男)が密かにルナール家の支援を受けて蜂起。ザクセン公位を要求する。
ザクセン公レオポルトは当然激しく抵抗するものの、8月30日にそのレオポルトが「不可解な死」を迎える。
公位はその弟のトーマスが継承するも、もはやオルデンブルク伯の攻撃に耐えられるほどの状態ではなく、間も無くその勢力は瓦解。
1117年4月4日にトーマスは降伏し、1104年の英君マグヌスの死後以来混乱が続いていたザクセン公領はオルデンブルク家が継承することが決まった。
これら全ての外征・外交・陰謀において、オトゲルは常にヴェレティア公の助言を受け、その意向に基づいて政策を決定しつつあった。
ときにアーノルドもこれを諫言し、注意を促す場面もあったものの、そのアーノルドが1117年3月6日に亡くなると、オトゲルの叔父への依存はさらに高まっていった。
そしてより決定的とも言える出来事が、1118年4月2日に巻き起こる。
それは、父ゲロ王殺害の首謀者でもあった叔父のヴォルガスト伯エシコの死である。
報告によると、狩りの最中に「重大な事故」を起こし危篤に陥っていたが、間も無く亡くなってしまったという。
それは悲惨な事故による不運な出来事として片付けられた。
しかし、オトゲルはその話を信じなかった。その結末には、別の意味があるのではないか、と疑心暗鬼に陥っていた。
肉親は肉親・・・ヴェレティア公がかつて語った言葉を、オトゲルは思い出していた。もし彼がその肉親ですら手をかけることを本当は厭わないのであれば?
数日後、オトゲルはヴェレティア公からの手紙を受け、彼の居城メクレンブルク城へと赴く。
年長者とはいえ主君が家臣に呼びつけられてその城へと赴くという形は違和感以外の何ものでもなかったものの、もはやそれをオトゲルに表立って諫言する者もおらず、運命の歯車は少しずつその狂いを見せ始めていた。
ボヘミア戦争(1118-1121)
1118年5月27日。
ヴェレティア公領首都メクレンブルクの居城にて、今や実質的なポンメルン王国の最有力者たるヴェレティア公ルートヴィヒと、その甥でポンメルン王たるオトゲルとが対面していた。
ヴェレティア公は表向きの敬意は見せていたものの、オトゲルの方もそんな彼に遠慮するような卑屈な様子を見せ続けており、誰が見てもどちらに主導権があるかは明白であった。
「先だってのヴォルガスト伯の事故は大変残念なことでした」
ヴェレティア公の言葉に、オトゲルは静かに頷く。ヴェレティア公の表情は本当に残念そうであり、その言葉に嘘偽りはないようにも思えた一方、そのようにしか思えないことにまた、オトゲルは恐怖を覚えていた。
「陛下、その遺領のことですが・・・その権利はもちろん全て陛下にあることは存じておりますが、もし可能であれば、ヴォルガスト伯領だけは私のヴェレティア公領にそのまま残して頂ければと思っております」
「え、ええ。もちろんです。あの地は元よりヴェレティア公領の慣習的領土内です。ぜひそのまま保持して頂ければと思います」
「ありがとうございます。陛下はいつも私のことを気にかけて下さり、大変嬉しく思います」
ヴェレティア公の柔和な笑みにオトゲルも引き攣ったような表情を浮かべつつ頷く。
「今や、私の男兄弟も私だけとなり、心細さを感じます。エシコは子を作りませんでしたからね。私と陛下とはそこまで年も離れておりませんし、私の尊敬する兄の子でもある陛下のことは、実の兄弟のように思っております。是非これからも、固い結びつきのもとで共にこの王国を強大化していきましょう」
それは、叔父上が兄、俺が弟、と言う関係としてか? とオトゲルは口に出すことはできない疑念を膨らませる。もはや彼は疑心暗鬼の塊となり、ヴェレティア公の一挙手一投足に過敏に反応しつつあった。
「兄弟と言えば・・・我が姉ディトケの動向も気になります」
ヴェレティア公の表情が曇る。その感情表現もどこまでが本当でどこまでが演技なのか、オトゲルは掴みきれない幻を前にしている思いであった。
「新たにルナール=ヤッファ家という分家の創設を一方的に宣言したのち、大王ゲロの功績の真の後継者は自分たちの家系であると喧伝し、今や王朝の指導者然とした振る舞いをしていると聞きます」
「先だっての陛下に対する陰謀についても、どうやらこのディトケが裏で糸を引いていたとも噂されておりますし・・・我々ポンメルン王国としては頭の痛い問題ですね」
ヴェレティア公の言葉通り、兼ねてより存在していたオトゲルの暗殺を狙う陰謀――これはアーノルドの存命中の活躍により未然に阻止されていたが――が、どうやらイェルサレム女王ディトケによるものであるとの証拠が集まりつつあった。
それを知ったときはもちろん衝撃ではあったが、ヴェレティア公によるものという恐怖も常にあったことから、逆にどこか安心すらしていた部分もあった。
「とは言え、相手はあくまでもイェルサレム王。下手に動くこともできず、直接的な『対処』は難しいでしょう。そこで、陛下」
と、ヴェレティア公は上体を起こし、まっすぐとオトゲルを見据える。いよいよ本題か。
「我々はこのイェルサレム女王を超える格を手に入れる必要があります」
「イェルサレム女王を超える格?」
「ええ・・・そうなれば勿論、狙うべき地位は1つしかないでしょう」
王を超える格、すなわちそれは・・・。
「皇帝・・・」
口にするのも憚られる。しかしオトゲルもそのことについて考えたことがないわけではなかった。父・祖父に対して自分が何もなし得ていないことへの劣等感を覆すためには、何かそれなりの「成果」を残す必要があると常々思っていた。
「しかし、皇帝選挙においてはどうしたって既存の帝位経験家系が優勢になります。我々のような新興家系がそう易々と入り込めるものではないでしょう」
「仰る通りです。しかし先日のザクセン騒動を経て、現皇帝のバーベンベルク宗家とオーストリア公の分家ヴァルデック家との関係はぎくしゃくしており、前々代皇帝のハインリヒ4世の遺児べラールを支持する勢力も出てきていることから、次回の皇帝選挙の行方は混沌としております。そこに付け入る隙は存分にあります」
「そして」とヴェレティア公は続ける。「我々の一族が新興であるがゆえに影響力を持てないのであれば、持てるだけの影響力を広げれば良いのです。
陛下、兄上が陛下の姉上たるヴィエンケ殿下に現ボヘミア王ヴラディスラフの弟ソビェスラフを婿入りさせ、その間の子メインハルドがルナール家の一員となっていることはご存知でしょう?」
「彼は正当なボヘミア王請求権を持ちます。ルナール家の躍進のための、大きなチャンスがそこにはあります」
ボヘミア王の王位簒奪戦争。これまでルナール家は一族の復讐や異教徒への聖戦、あるいは「防衛戦争」であったザクセン継承戦争などは行ってきたものの、同胞への表立っての攻撃的戦争は行ってきてこなかった。しかし今、目の前のヴェレティア公はそれを為すべきだと告げるのだ。
「皇帝陛下もすでにお年を召しており、時間はそう多くは残されておりません」
オトゲルが躊躇いを見せたことに気がついたのか、ヴェレティア公はさらに前のめりになり、オトゲルに迫る。
「陛下、今こそ我々が動くべき時です」
当然、オトゲルにこれを拒否することなどできるはずもなかった。
1118年7月。ポンメルン王オトゲルは、甥のメインハルドの王位請求権を主張し、ボヘミア王ヴラディスラフに宣戦布告。
帝国法において臣民同士の私戦は禁じられていたが、事前にオトゲルはより高い税金を納めることを交換条件に、その特例を認めてもらう契約を皇帝アダルベルトと結んでいた。
ボヘミア王も単独で五千弱の大規模戦力を有してはいるが、ポンメルン王側もロタリンギア女王メヒティルト(総兵力5,028)、プロヴァンス公ジャウフレト3世(総兵力3,799)、ノルウェー王子ヴェストフォル伯マグヌス(総兵力1,667)など一門の子女の婚約を通して結んだ同盟相手からの援軍、さらにはヴェレティア公の妻オストファーレン女公ヴルフヒルデ(総兵力1,576)およびオトゲルの嫡男ヴァルぺ伯マグヌス2世(総兵力449)といった総力戦体制で挑む。
この物量を相手に、ボヘミア王も正面対決を避け国内から逃走。その間にポンメルン連合側は次々と諸城を包囲。占領を進めていく。
「余裕ですな」
ポンメルン王国軍の一翼を担うヴェレティア公ルートヴィヒの直属軍。十字軍でも活躍し「聖ニコラウス騎士団」とも「狂戦士団」とも称される1,500名弱の精鋭集団は、ボヘミア各地で展開される攻城戦には参加せず、その周縁部にて遊撃隊として待機していた。
その総指揮官ルートヴィヒの側近の1人である騎士エギルマル・フォン・ゴルターンは、やや残念そうに主君に話しかけていた。
「我々の出番はあまりなさそうですな。折角、異教徒とは異なり手応えのありそうな相手だったというのに」
「油断するな。相手はポーランドとの戦争や皇帝のイタリア遠征においても活躍した名将ヴラディスラフだ。勝てない戦いはせず、必ず我々の裏を突く戦略を考えるはずだ。常に警戒を怠らず、すぐ動ける準備をしておけ」
ルートヴィヒの言葉に呼応するかのように、その男がやってきた。
「閣下。狼の尻尾を掴みました。奴らはヴィルトベルクの地で、遅れてやってきていたヴェストファル伯軍を捕まえ、これを撃破したとのことです。ヴェストファル伯は北方のプラウエンに敗走したようですが、ヴラディスラフもこれを追って北上しているようです」
ルートヴィヒ側近の密偵長「長髪のラッツェンベルク」ことヘイデケ・フォン・ラッツェンベルク。これまでもルートヴィヒの数多くの陰謀を一手に担ってきた「狐の頭目」である。
「やはり、奴らが狙うのは地の利を活かした奇襲による各個撃破か。大軍を相手にしたときの常套手段だな。我々も大軍とは言え、所詮は各諸侯の寄せ集めに過ぎず、その意思は統一されているわけではない。奴らに主導権を握られると厄介だ」
ルートヴィヒの言葉に、ラッツェンベルクもゴルターンも頷く。
「我々もプラウエンに行くぞ。ヴェストファル伯を囮にして、ヴラディスラフ軍を背後から叩く。包囲戦に参加している連合諸侯にも早馬を飛ばし伝えよ。プラウエンにて決戦を行う、と」
10月。
ザクセンとボヘミアの境に位置するエルツ山地沿いの旧領地帯プラウエン。
ここで、敗走していたヴェストファル伯の軍隊はついにボヘミア王軍に捕えられ、その猛攻にさらされていた。
しかしその背後から、突如現れたのが「聖ニコラウス騎士団」。
異教徒たちに狂戦士とも称されたその恐ろしい戦いぶりに、数的有利のはずのボヘミア軍も恐れ、慄き、戦線は押されていく。
さらにそこに、上ロレーヌ公ディートリヒを先頭に連合軍の諸侯が雪崩のように押し寄せてくる。形勢は一気に逆転し、ボヘミア王の起死回生の各個撃破策は失敗に終わってしまったのだ。
しかし、ルートヴィヒにとっても誤算だったのが、合流時までは意思統一させられていた連合軍が、戦勝が確実視され敵の撤退が始まる頃には再び利己的になりバラバラになり始めたこと。
その結果として多くの兵を逃し、整然とした撤退を見せたボヘミア軍の姿は捉えられないままどこかに消えてしまった。
ルートヴィヒはすぐさまラッツェンベルクに命じ、間諜を多く派遣して捜索に当たらせるが、北方からボヘミア国内に入ったところまでしかその足跡は掴めず、ボヘミア国内では臣民の国王への忠誠心ゆえか、なかなかその尻尾を掴むことはできずにいた。
状況が動き出すのは年明けの1月。
ボヘミア王子レストラフが支配するリトムニェジツェを包囲中だったオトゲル王直属軍が、接近するボヘミア王の軍勢を発見し、ルートヴィヒ含む連合軍各位に早馬を飛ばした。
ルートヴィヒもすぐさま救援に向かうが、それが到着するよりも前に、このリトムニェジツェにて戦いが始まる。
数的には不利。騎兵の数はこちらの方が多いが、この雪の中ではほとんど役に立たない。リトムニェジツェの包囲を諦め、さっさと撤退戦に移行した方が損害はずっと少なかっただろう。
だが、オトゲルはそれを認めなかった。彼はここで引くわけにはいかない、と思っていた。もはや彼に意地もプライドも多くはなかったが、それでもここで引けば王としての威厳も完全に失われ、叔父上に全てを持っていかれてしまうとも理解していた。
ゆえに彼は全軍に馬を降りるよう指示し、盾を構えさせ、徹底的に防御する体制を命じた。敵は重装歩兵を中心に迫ってきており、少数の弓兵で遠距離から攻撃を仕掛けるも、ものともせずオトゲルの軍に迫っていた。
耐えよ! 耐え抜け!
オトゲルは最前線に近い位置で兵たちを鼓舞し、恐れ慄く兵たちを背後から支えた。いよいよ兵同士がぶつかり、剣と盾とがぶつかり合う金属音が辺り一面に鳴り響く。暫くの間、徹底した防御陣を敷くオトゲルの軍勢はボヘミア軍の猛攻を凌いでいたが、ボヘミア軍の先頭に精鋭の騎士たちが出てくると、オトゲル軍前線の兵たちは次々と盾を奪われ、兜を割られ、薙ぎ倒されていった。
前線の騎士たちが十分な戦果を挙げていることの報告を受け、ボヘミア王ヴラディスラフは満足気であった。敵の総大将オトゲルを生け捕りにでも出来れば、圧倒的劣勢であるこの戦いにも活路が見出される。彼にとってもこの戦いは最後のチャンスであった。
しかし次々と届けられる報告を聞いていくうちに、彼の中にふと不安がよぎる。
「待て、敵兵はどれくらいの数と言った?」
「は。二千数百名ほどであると」
「それはおかしい。籠城しているリトムニェジツェ城からの報告では三千名以上はいたと聞いていたが」
「この状況を見て農民兵たちが逃げ出しているということではないでしょうか?」
勿論、そういう可能性もあるが・・・ヴラディスラフの胸中に黒い不安の塊が湧き出てくる。
その次の瞬間、
「て、敵襲! 敵襲ー! 部隊後方より、その数、数百・・・千に近い数と思われます!」
オトゲルは開戦と同時に、「銀の手」アミン率いる精鋭兵部隊990人を、鎧を脱がせ獣の毛皮を着せた上で大量に雪を付着させカモフラージュし、厳寒のラベ川を渡らせる無茶もさせながら、隠密に敵の背後に回らせる策を取っていた。
結果として成功した少数精鋭の奇襲。手練れの騎士たちが前衛に回っていたこともあり、ヴラディスラフを守る後方の兵たちは手薄な状況であった。
「おのれ! 撃退せよ! 王に触れさせるな!」
ヴラディスラフの側近たちが鬼気迫る勢いで叫びながら、奇襲部隊の迎撃を命じる。多勢に無勢、奇襲部隊も最初は何人も切り伏せることに成功したものの、次第に囲まれ、その血で足下の雪を染め始めていく。
それでも、爪痕を残す必要がある。主君オトゲルのために。騎士アミンは仲間たちの死体を踏みつけながらも敵陣の中に深く潜り込み、ついにその目の前に大将ヴラディスラフを捉えた。
「ーーくっ!」
その「銀の手」が、ヴラディスラフの首筋を正確に捉えようと軌道を描く。が、ヴラディスラフも慣れたもので、なんとか回避の姿勢を取り、致命傷を与えることはできなかった。
それでも、大地に倒れるヴラディスラフ。動揺する敵陣営。その時、軍団の前方でもどよめきが走る。
大将の危機に先頭の騎士たちも後退した結果、オトゲルたちの反撃が始まったのだ。
負傷したヴラディスラフを抱え、副官が全軍に撤退を命じる。ヴラディスラフは苦悶を浮かべつつ何か言おうとするが、同じタイミングで遠方よりポンメルン王国軍の援軍接近の報告が入る。
勝敗は決した。
ボヘミア軍は懸命の撤退戦を開始し、オトゲルはこれを追撃し、少しでも多くの敵兵を屠ろうと指示を出す。
すべての敵兵が追いやられて行った後の戦場で、オトゲルは瀕死の重傷を負うアミンの姿とその足元の仲間たちの死体を目にする。
支払った犠牲は余りにも大きかった。
しかし、その結果として得た勝利はこの戦争そのものの趨勢を決することになった。
間も無くプラハ城も陥落し、ボヘミア王子レストラフの妻や子も捕らえられたことで、追い詰められたヴラジスラフは1120年6月5日に降伏。
ボヘミアの王位はオトゲルの甥にあたるメインハルドのものとなり、やがて来るであろう皇帝選挙に向けての重要な一票をその手中に収めることとなった。
これで準備は整った。
そして、それを待っていたかのように、1121年夏。
28歳で即位し、36年間にわたり皇帝の地位を守り続けた男、アダルベルトは64歳で崩御した。
それは、ルナール家にとっては新たな時代の始まりを意味する瞬間であり、
オトゲルにとっては、その人生の終幕を導く瞬間であった。
暖炉の前で眠ろう(1121-1128)
帝国都市フランクフルト・アム・マイン。カール大帝の時代から王室・帝室に愛され続けてきたこの都市で、皇帝アダルベルトの死に伴う次期皇帝選挙が行われようとしていた*4。
集まった選帝侯は七名。
三代前の皇帝ハインリヒ4世の嫡子で西フランケン大公のベラール。
そのベラールの弟で東フランケン大公のコンラート。
バーベンベルク家の分家ヴァルデック家の家長でオーストリア公のレオポルト3世。
バーベンベルク家とも関係の深いザルツブルク大司教フベルト。
ルナール家の新ボヘミア王メインハルド。
ザクセン公ラトケ。
そしてポンメルン王オトゲル。
これらの「選帝侯」たちが集まり、今まさに投票が行われようとしていた。
本来であれば、生前にローマ王として父皇帝と共同統治を行っていた皇太子テオドリヒがそのまま次期皇帝として内定しているはずであった。
しかしアダルベルトの生前から続く、バーベンベルク家とその分家ヴァルデック家との対立が影響し、実際の皇帝選挙の行方は元皇帝嫡子ベラールと現皇帝嫡子テオドリヒのどちらに軍配が上がるのか、定かではなくなっていた。
キャスティング・ボートを握っていたのはオトゲル。ゆえに彼はその投票権を餌に皇帝アダルベルトにボヘミア王位簒奪戦争の許可を要求するなど、好き勝手な振る舞いを行っていたが、結果、ボヘミア王がルナール家の者に挿げ替えられたことで事態は急変。
新たに有力候補者となったオトゲルに対し、このままでは自身の投票先であったテオドリヒが帝位継承することは絶望的と判断したザクセン公がオトゲルに投票先を鞍替え。
最終的に行われた投票においてはオトゲルとベラールとが同数で1位の座を獲得し、決選投票でザルツブルク大司教を味方につけたオトゲルが見事皇帝の座を射止めたのである。
ドイツ東方の辺境1伯領から始まった無名の一族ルナール家は、3代でその権威を大幅に拡張し、ついには「皇帝」の座をその手中に収めることとなった。
だが、この「身の程知らず」に従順に従えるほど、当時の諸侯たち・ドイツ貴族たちは生易しくはなかった。
大人しく「選帝侯」の地位に留まっていればよかったものの・・・彼さえいなければ次期皇帝候補筆頭であったはずのベラールはとくに怒りを滾らせ、オトゲルの皇帝即位のわずか1年後に皇帝に対する帝位請求反乱を巻き起こした。
だが、この報告を聞いたヴェレティア公ルートヴィヒは至って冷静であった。
「狙い通りです。反乱を誘発し、これを叩き潰すことによって、力で、我々の正当性を認めさせればよいのです。かつて、帝位を簒奪してきた歴史上の英傑たちもまた、同様に力でもってこれを実現させてきました」
ヴェレティア公がそう言っている以上、オトゲルには何も不安などなかった。すぐさま自らの新たな同盟国であるポーランド王やビザンツ皇帝の支援を受けつつ、反乱の粉砕へと邁進する。
帝国領内で激しい戦闘が巻き起こり続け、さすがに疲弊していくオトゲル。
しかしそんなオトゲルのもとに、ヴェレティア公が潜り込ませていたスパイによって掴み取ったベラールの殺人未遂の秘密が届けられた。
それはルクセンブルク家の娘アーデルハイトに対する殺人未遂の罪。
これまでその慈悲深さ、敬虔さから諸侯の支持を得て帝位候補筆頭の地位にまで登り詰めていたベラールは、その胸中に眠る秘めたる罪を暴き出されることを恐れ、オトゲルの恐喝に屈することに。
最終的に彼はその代償として、西フランケン大公の地位をオトゲルに献上することを決断し、反乱戦争からの離脱を宣言した。
主柱が失われた反乱軍にもはや抵抗する力は残っておらず、最後まで抵抗していたバイエルン「独眼公」ウダルシャルクも1124年10月に降伏。
ベラールの西フランケン大公位およびウダルシャルクのバイエルン公位をそれぞれオトゲルの子どもたちに分配し、さらに同じく反乱に与していたシュタイアーマルク公の公位も自ら継承するなど、ヴェレティア公の言う通りこの反乱を権力の基盤固めへと利用していった。
しかし、束の間の平和を享受していたオトゲルに対し、更なる試練が訪れる。
1124年11月。ベラールたちの反乱を鎮圧してからわずか1か月後、今度は上ブルグント公ヴィルヘルム2世とイタリア諸侯による「独立戦争」が巻き起こる。
この反乱の後ろ盾にはローマ教皇もおり、彼は力により無理やり神聖ローマ皇帝の地位を得ようとするオトゲルを掣肘するが如く、彼に対する「破門」をも決定した。
帝国全土から疎まれ、神の代理人からも面と向かって非難されるこの事態に、さすがのオトゲルも挫折しそうな思いを抱えていた。彼は教皇の赦しを請うためだけに、イタリアの地へと赴くべきかと本気で考え始めていた。
そのことをヴェレティア公に相談すると、彼は笑顔でこう言った。
「ほう、いい考えですね。イタリア行きには賛成です。但し勿論、剣と槍とを持って、ね」
そしてオトゲルはイタリアへ渡った。
かつてトスカーナ辺境女伯マティルダを始めとした反皇帝派の巣窟であったシエナも、ヴェレティア公率いる「聖ニコラウス騎士団」を中心とした大規模な帝国軍によって蹂躙され、虐殺と略奪が巻き起こされた。
勃発から2年を費やしたこのイタリア独立戦争も、1126年9月にはいよいよイタリア反乱諸侯の領土のほぼ全域を制圧し、降伏も時間の問題となった。
そこに、さらなる凶報がオトゲルを襲った。
元ボヘミア王ヴラディスラフの孫ヤロスラフによる大反乱の勃発。
そして、同盟国ビザンツからの支援要請。
ボヘミア王位をルナール家の者から奪われるのはもちろん避けなければならない一方、ビザンツ帝国も先のベラールたちによる反乱の際に大いに助けてもらった借りがある。
そもそも皇帝ともあろうものが、同盟国の支援要請を蹴るなどという恥ずべき行いに走ってしまえば、それこそ守るべき正当性がかけらもなくなってしまう。
もうすでに、5年近く戦場に身を置き続けていたオトゲル。
もはや、その心は荒み切っており、正常な決断を下せる状況にもなかった。
そんなときはもちろん、彼は偉大なる叔父ルートヴィヒへとお伺いを立てる。
そして今回もまた、彼は見事な解決策を提示してくれた。
「分かりました、皇帝陛下。それではこうしましょう。私が私の軍を率いてボヘミアの一族を助けに向います。陛下はご自身の兵を率いてビザンツへと赴いてください。陛下がより高い階位の同盟国を助け、臣下たる私がより低い階位の同盟国を助けに向かうことが適切なのは間違いないですからね。
何、ご心配なさらずとも、陛下。陛下は私同様、その武威においては世界に轟く素晴らしきものが御座います。6年前のリトムニェジツェの戦い、あれは見事でした。私があのとき陛下と同じ立場であれば、あのような勝利は決して望めなかったでしょう。
それにアナトリアには勇壮なるビザンツ帝国軍もおりますゆえ、力を合わせれば愚劣なる反乱軍など敵ではございません。ここで帝国に恩を売り、やがて東西の教会を統一するというかつて誰も成し遂げられなかった偉大なる実績を陛下御自身の御手自ら果たすべきなのです」
彼の言葉は絶対であった。そして、それはいつだって正しい。
私は神の言葉に導かれるようにして大洋を渡り、そしてアナトリアの地に足を踏み入れた。
我が同盟国の地を汚す蛮族どもめ!
この大地における最高位の軍神、「戦王」オトゲルが、その鉄槌を下してみせよう!
1127年3月11日。
気づけば、オトゲルは大地にその顔を押し付けられ、そして全身を無数の手で押さえつけられ身動きの出来ない状態にされていた。
理解できない言葉で何かが叫ばれており、頬に当たる冷たい土の感触と共に非常に不快な思いだけが彼の頭の中を支配していた。
彼は怒っていた。世界の頂点に立つべき皇帝である自分自身に対するこのような仕打ちに対して。
そして、このような運命が待ち構えていることを、もっと早く理解すべきだった自分に対して。
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オトゲルは、彼を閉じ込めていた地下牢にやってきた反乱軍指導者シランに対し、通訳を介して自身の解放を要求する。自分を解放し、ドイツへと帰らせてくれれば、莫大な身代金を支払うことを約束するし、戦争から離脱するのはもちろん、あらゆる願いを叶えることも約束する、と。
しかし通訳から伝えられた言葉を耳にしたシランは一瞬驚いた表情を見せたものの、すぐにオトゲルに向き直り、そして薄い笑みを口元に広げた。
彼女が何事かを発し、それを受けて通訳がオトゲルに向けて告げた言葉は次のようであった。
「不必要です。すでに、それ以上の金額をもらっておりますので」
誰から? という疑問をオトゲルは飲み込んだ。口にする前に、天啓のようにその答えが彼の頭の中に閃いたからであった。
俺は・・・嵌められたのか。いつから? 最初から?
彼はまだ諦めてはいなかった。すべてを悟った今、むしろ彼は自らの選択にすべての責任と意志とを注ぎ込むだけの動機に満ち溢れていた。
彼はまるで生まれて初めて、自分で自分の運命を切り拓こうとする意志を持ち始めたのかもしれない。
だが、それはあまりにも遅かった。
彼は愚かな万能感に支配されたその身体でもって無謀な脱獄劇を繰り広げようとし、いとも簡単に失敗し、自らの身を傷つけた。
その傷はやがて化膿し、彼の身体を蝕み続けていった。
誰も助けてくれない。常に誰かに見られているような気がしていたが、それはもしかしたらあの恐るべき女公なのかもしれない。
戦争は終わったのだろうか。我が帝国は、どうなっているのだろうか。我が息子マグヌスは、俺の代わりに帝国の統治を任されているのだろうか。それとも、あの憎き狐が・・・!
何日、何か月、何年経ったのだろうか。
もはや時の感覚を失いかけていたオトゲルの心からはすでに怒りの感情は消えていた。
薄れかける意識の底で、彼は昔の出来事を1つ、思い出していた。
それはとある冬の日。ブランデンブルクの古城、暖炉で爆ぜる火の暖かさを感じながら、とても懐かしい声が耳に入ってくるその瞬間を思い出していた。
地下室に降りるとき、私の足取りは止まった。声が聞こえるような気がする。ああ、あそこだ!
焚き火のそばで母ハサラが、彼女の孫、フレデルナを抱いて、話に夢中になっている。
私も聞き耳を立てながら、その一節に耳を傾ける。
ハサラは、彼女の善く生きた人生からいくつかの物語を語っているが、古い物語も、新しい物語も、その両方とも、フレデルナにとっては真実味を帯びた物語であり、彼女は口をあんぐりと開けてとても興奮しているようだった。
私は彼女たちに声をかけた。
この陽気な輪に加わってもいいかな?
第四話に続く。
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