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【CK3】「きつね」の一族の物語 第一話 隻脚伯オトゲルの復讐と聖戦(1066年~1085年)

 

ドイツ東部「シュプレーヴァルト」。低地ソルブ語で「沼地」を意味するこの地域は、現代の国境においてはポーランドに接する辺境であり、シュプレー川によって育まれた氾濫原と泥炭地は特有の景観を生み出し、ユネスコの生物圏保護区に指定されるほどの自然豊かな土地である。

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その首都・グーベンは11世紀半ばにおいては貿易と職人の定住地として、ライプツィヒからポーゼン、ゲルリッツからフランクフルト(オーデル)に至る街道の交差点に位置する市場町であった。

カトリックによる東方遠征もまだ道半ばであり、このシュプレーヴァルトを含むラウジッツ辺境伯領全域がまだまだ異民族による未開の宗教に彩られており、のちにブランデンブルクと呼ばれることになる北方の土地にも、この異教を奉じる蛮族たちが蔓延っていた。

そんな、帝国の辺境の中の辺境に位置するこのシュプレーヴァルトを、1066年時点で治めていたのが「ルナール家」。

フランス語で「きつね」を意味するその言葉を家名に据えたその家は、フランス人の出自不明の男ルイを始祖とし、まだ生まれたばかりの無名の一族であった。

フランス王家の落胤とも、古きフランク王国の血の末裔とも噂される曰く付きのその男は、自らの家の家訓として「狐の如く狡猾なれ」という言葉を残し、そして紋章にもきつねの図像をあしらっていた。

そのこともあり、ルイの周囲には常に暗い陰が付き纏っていたが、死神が最初にその手をかけたのは彼自身ではなく彼の息子であった。

その5年後に、今度はルイ自身が「原因不明の死」を遂げる。

わずか5歳で家督を継いだのは、ヴィルヘルムの双子の兄でかろうじてその命を繋ぐことができたオトゲルという少年。

弟を生まれた瞬間に亡くし、父もおそらくは同じ悪魔の手によって奪い去られることとなった彼は、幼き心に深い復讐心を抱き、やがて来るその瞬間に備えている。

 

オトゲルは果たして復讐を遂げることはできるのか。

そして、その先にあるこの「きつね」の一族の運命とは?

 

 

Ver.1.10.1(Quill)

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目次

 

第二話以降はこちらから

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復讐(1068-1069)

「閣下、お望みのもののご用意ができましたよ」

1068年の春。グーベン郊外の森の中の小さな城で、シュプレーヴァルト伯オトゲルは、グーベン司教ゲトケから一枚の羊皮紙を受け取った。

「なかなかに苦労しましたよ。何しろあなたのお父上は異邦人ーーいや、この辺境の地ではザクセン人でさえも異邦人ではありますが、お父上はさらに遠きフランスの血筋ですからな。しかし逆にそれが功を奏したとも言えます。やや苦しいですが、東フランク最後の王ルートヴィヒの側近であったお父上のご先祖様が、ルートヴィヒ王からシュプレーヴァルト及びゾンマーフェルトの領地を分け与えマジャル人から防衛するよう命じた文章を捏造しました。もしよろしければ、ラウジッツ辺境伯領そのものを分け与えられたことにもできますが?」

「いや、そこまではしなくて良い。辺境伯との関係を悪くはしたくないしな。私の目的はあくまでも弟と父の復讐のためであり、それこそが一族の悲願であり、母との約束なのだから」

オトゲルは古いインクで古代の文字を模倣して書かれたその羊皮紙を眺めつつ、そこに浮かび上がるゾンマーフェルトの文字を睨みつけていた。

それは彼の復讐の相手。26年前、ゾンマーフェルト伯ヤーコプはシュプレーヴァルトの地を狙い、父の乗った馬車を刺客に襲撃させている。父の命は護衛によって守られたが、この襲撃によって生まれたばかりであったオトゲルの双子の弟ヴィルヘルムの命は永遠に失われた。

5年後には父も殺された。こちらの仕手人は発覚していないが、おそらくは同じゾンマーフェルト伯の手によるものだろう。以降、母エリザベートは女手一つで彼を育て、その間、一族の怨念をしっかりと彼に植え付けていった。

その母も6年前に死んだ。最後まで、あの悲劇を引きずり続けた末の死であった。

だからこれは、もはやオトゲル一人の使命ではない。これは一族による復讐劇なのだ。オトゲルは一族の意思の代弁者として、確実にあの男の息の根を止めねばならない。

かくして、1068年5月9日。捏造されたゾンマーフェルト伯領の請求権に基づいて、オトゲルはゾンマーフェルト伯に対し宣戦布告を行った。

宣戦布告と同時に、オトゲルは自ら582名の軍勢を率い、森の中のゾンマーフェルト城へと進軍する。

ゾンマーフェルト軍は多くても300名ちょっとしかいないと聞く。暗い森の中は静かで、鳥や獣の鳴き声しか聞こえない。

「敵は我が軍の威容に恐れをなして城に引きこもっているに違いありません」オトゲルの傍らで馬を並べる元帥のマウチスワフはクックッと笑いを浮かべるが、オトゲルは馬上で周囲を見渡しながら、緊張感と共に警戒を強めていた。

間も無くゾンマーフェルトの城が見えてくる頃だが、ここはその中でも最も道が狭いところだ。自分が相手の指揮官であれば、ここで仕掛けてくるーー。

と、思った次の瞬間、左の草むらから、弦が引き絞られる音が聞こえた。

「来るぞ!」

オトゲルは叫び、咄嗟に身を捻り馬から転げ落ちた。ついさっきまで彼がいた空間を矢が貫いていく。絶叫する兵士たちの声。次々と矢は放たれていき、オトゲルの周囲の兵士たちが倒れていく。

「行け! 囲め! 怯むな!」

オトゲルの咆哮に兵士たちは奮い立ち、森の中に潜んだゾンマーフェルト伯軍の兵士たちを次々と屠っていく。また別の空間から矢が放たれ、剣を持った兵士たちが飛び出てくるが、警戒体制に入ったシュプレーヴァルト伯軍の兵士たちは勇敢にこれに立ち向かっていく。

戦いは最初、地の利を生かしたゾンマーフェルト伯軍有利に進んで行った。敵軍の指揮官は、この地域の森をよく知るスラヴ人のルチヤンという男であった。

しかしシュプレーヴァルト伯軍の兵士たちはよく訓練されており、さらにオトゲルは奇襲を仕掛けてくる敵兵に怯むことなく勇敢に前に出て、兵士たちを鼓舞していた。否応なくシュプレーヴァルトの兵たちの士気は高まり、数でも勝る彼らは次第にゾンマーフェルト伯軍を押していく。

しかし、オトゲルはやはり勇敢過ぎた。敵兵の放った矢がついに彼の左脚に深く突き刺さり、彼はその場に膝をついた。

すぐさま兵士たちがオトゲルを取り囲み、敵の攻撃から主君を守ろうとする。だが、指揮官の負傷はシュプレーヴァルト伯軍にとって危険な兆候であった。

 

そこに、新たな馬の蹄の音が集団で近づいてくる。

援軍だ。オトゲルの一人息子のゲロとその娘とが婚約し同盟を結んだゲルリッツ伯の軍がやってきたのだ。

勝敗は完全に決した。3倍以上の兵により包囲され蹂躙されたゾンマーフェルト伯軍は壊滅し、ルチヤンは生き残った兵をまとめて撤退した。

シュプレーヴァルト伯軍も追撃を出したいところではあったが、主君オトゲルの手当が先であった。

だが大怪我にも関わらず雑な応急処置のみで済まし引き続き敵との乱戦に挑んでいたオトゲルの傷口はひどく化膿しており、最終的にはその左脚の切断をせざるを得なくなっていた。

かくしてオトゲルは最初の戦いに見事勝利しつつもその代償として左脚を失った。だがその隻脚がまた、彼の武勇を知らしめる結果にもなったという。

 

さて、初戦に勝利したシュプレーヴァルト・ゲルリッツ連合軍はそのままゾンマーフェルト城を包囲。

後にわずかな兵をまとめルチヤンが再戦を挑んでくるも、より圧倒的な数的優位を得ていた連合軍を前に今度こそ壊滅し、ルチヤン自身も捕えられる結果となった。

そして1069年2月7日。

ついに、ゾンマーフェルト城が陥落。

残念ながら仇敵ヤーコプは家族を引き連れて直前で城を脱出しており、取り逃してしまったものの、残された彼の家臣たちはオトゲルへの臣従を誓う。

主君ラウジッツ辺境伯デド1世もこのオトゲルによるゾンマーフェルト征服を黙認し、オトゲルはシュプレーヴァルトのみならずゾンマーフェルトの領主としても認められることとなった。

その命を奪うことまではできなかったものの、その領土と名誉は奪い取った。オトゲルは弟、父、そして彼らの死により最後まで苦しんだ母の復讐を果たすことに成功したのである。

 

こうしてようやくオトゲルは「自分の人生」を歩み始めることができるようになる。

復讐の物語は終わり、いよいよ「きつねの一族」ルナール家オトゲルの物語が始まる。

 

 

聖戦(1075-1077)

1075年9月5日。

一人息子のゲロが16歳を迎え、成人する。

やや気まぐれなところもあるが公正かつ思いやりのある子であり、口下手な父と違い誰からも好かれるタイプでもあった。

さらにラウジッツ辺境伯の家令を務めるヴィッテンベルク伯ティモの教育を受けたことにより、主に財務周りの素質を強く持つ青年へと育つこととなった。

その分、父のような軍事面の才能は乏しかったようだが、それで良い、とオトゲルは思っていた。

復讐は終わった。息子ゲロの代には、ぜひとも平和な時代を過ごしてくれれば良い、と。

 

だが、心穏やかな瞬間を過ごしていたオトゲルも、その夜寝室で一人になると急に不安と動悸が収まらなくなり始める。

未だ、終わってはいない。仇敵ヤーコプはまだ生きており、この世界のどこかにいる。遠き北欧に逃れたところまでは知っているが、その後の行方は杳としてしれず。サンティアゴ・デ・コンポステーラに逃れたとも、ブリタニアに逃れたとも噂されている。何度か密偵と暗殺者を放つも、手がかりもなく無為に終わった。

なかなか暗殺もできない。

 

不安は年を重ねるごとに増してくる。愛しき妻エルサンとの間に多くの子どもたちが生まれ、家族が増える度に、その喪失がもたらす絶望を想起して胸の苦しみはより一段と深くなる。こうしてここ最近は夜中に悲鳴と共に起き出すことも多くなるのだ。

 

「何も気に病む必要はありません。すでに相手は長き放浪の身。領主になったとの噂もなく、あなたや家族たちを害する力もあるはずがありません。お気になさらずに」

 

妻はそうやってオトゲルを安心させようとするが、彼を苛む悪夢はなかなか消えてはくれない。

フランス人の妻、聡明なるエルサンはオトゲルにとっては「魂の伴侶」でもある。

 

そんなある日、妻は彼にある提案をする。

「愛しき貴方、巡礼に出てはいかがかしら。貴方を苦しめる悪夢も、もしかしたら貴方のその執念深さに端を発しているのかもしれません。それは主の教えに反することなのですから、主は貴方にその罰をお与えになっているのかもしれません」

カトリック信仰において「罪深い」とされる「執念深い」性格のせいで、信仰値はマイナスに突入している状態である。

 

なるほど、確かにその通りかもしれない、とオトゲルは考えた。

もっと寛容な心を、自分はもう一度信仰と共に思い出さなければならないのかもしれない。

そう思い立ったオトゲルは早速9月13日、巡礼の旅に出ることを決めた。

その目的地はケルン。大司教座の置かれた、ドイツ最大の宗教都市だ。

11月4日、ケルンへと向かう旅の途中、ニッダの町に立ち寄ったところで、怪しい男が叫んでいるのを目にした。

「審判の日は近い! 悔い改めよ! 悔い改めるのだ、さもなくば永遠に地獄へと堕とされるであろう!」道行く人々に声高に叫び、それを聞く民衆は皆一様に不安気な表情を見せている。

不安は人の心を苛む。そしてそれを永遠に苦しめる。そのことを身をもって知っているオトゲルは、すぐさま供回りに命じその男を引き摺り下ろした。

民衆から不安を取り除くことこそが、主の教えに最も適うものである。脅迫者ではなく、救済者でなければならない。

 

それこそ、自ら不安を生み出し続けるこの心こそ、最も罪深いものであるということを、オトゲルははっきりと理解した。

12月4日にケルンに到着し、その大聖堂を訪れたオトゲルは、神に祈り、告白し、そしてその心は幾分か軽くなったように感じた。

今こそ、彼は本当に彼の人生を生きるべき時だ。仇敵は去り、奪えなかったその命にいつまでも執着するのはもうやめだ。

それよりは、彼は神に与えられた新たな使命を果たさねばならないと感じていた。

 

 

数年前より、北方のリューティチ族がラウジッツ辺境伯領にも侵入し、掠奪を働いているとの話を耳にしている。

かつてこの地にあったノルトマルク(北方辺境伯領)などもすべて彼らスラヴ人によって侵略され、我が物顔をされている。

その上で、正しき主の教えに従う人びとからその財産や命を奪おうとする蛮行を、許してはおけない。

1076年の春に巡礼から戻ってきたオトゲルは、神の前に立ち心に芽生えたその篤い信仰心の下、北方の蛮族への「聖戦」を決意することとなる。

リューティチ族の族長は、前族長のカスパーの一人娘であったコルネル。わずか17歳で女性だが、その巧みな弁舌でカスパーに忠誠を誓っていた勇猛果敢な闘士たちを引き続き従わせ、驚異的な軍事力を誇るようになっていた。

 

1076年5月20日。

宣戦布告と同時にノルトマルクの地から血気盛んなスラヴ兵1,376名が押し寄せてくる。これを率いるのは名将オトカル。「不世出の戦略家」と謳われ、これまでも掠奪を迎撃しようとしたラウジッツ辺境伯軍を何度も撃退している強敵だ。

数的不利にあるオトゲルは最初、これを首都グーベンで迎え撃とうとした。城の前には川もあり、誘い込んで叩くには最適なポイントではあった。

しかし地勢を察知したオトカルはその進路を南方に向け、ブレーンの街へと略奪のため、近づいていく。

これ以上、同胞の街が荒らされるのを黙ってみているわけにはいかない。オトゲルもすぐさまブレーンに向けて進軍を開始。

しかし、ルーベンの森の中を抜けたオトゲルの軍が見たのは、平原一杯に広がるオトカル軍の姿であった。

平原はオトカルの得意とする地形でもあった。


自軍に有利な地形に誘い込むつもりが、逆に誘い込まれる形となってしまったオトゲル軍。
空はルーティチ族の弓兵たちが放つ矢で埋め尽くされ、陸ではオトゲル軍の2倍以上の数の槍兵が陣を張っている。そして蛮族と侮っていた彼らの統率力の高さを前にして、オトゲルの兵たちは次々と敗れ、ある者は斃れ、ある者は戦場から逃散していった。

しかし、オトゲルは怯まない。「決して後退しない!」という信念を持つ彼は、隻脚でありながらも勇敢に兵たちの前に出て彼らを鼓舞する。主君のその姿に兵士たちは最後の踏ん張りを見せ、ギリギリまで敵兵たちをその場に留め置き続けた。

そしてそんな彼らが作り上げた時間によって、オトゲル軍の壊滅よりも先に、彼らの同盟国であるゲルリッツ伯軍がやってきたのである。

ゲルリッツ伯軍を指揮するのは、ゲルリッツ伯の長子ヴェンツェル・フォン・ダークスブルク。オトゲル嫡子ゲロの婚約者ハサラの兄でもある。

このヴェンツェル率いるゲルリッツ伯軍が加勢したことにより形勢は一気に逆転。

とくに平原を駆け巡るゲルリッツ伯軍の軽装騎兵部隊によって、敵の弓兵部隊は瞬く間に包囲・殲滅させられ、無力化されていくこととなった。

陽が沈む頃まで続けられたこの「ブレーンの激戦」は、蓋を開けてみればシュプレーヴァルト・ゲルリッツ連合軍の圧勝という形で終結する。

かつてゾンマーフェルト伯軍の指揮官でもあったスラヴ人ルチヤンは、今やオトゲル軍最良の騎士として、敵将軍を含む30名もの兵士たちを単身で屠る目覚ましい戦果を遂げた。

これが初陣となったオトゲルの嫡子ゲロもまた、この戦いで多くの武功を得、その名声を博すこととなった。

 

敗走するスラヴ兵たち。これをシュプレーヴァルト・ゲルリッツ連合軍は追撃し、彼らの拠点であるブレンナの街へと突入する。

娘エレネを嫁がせたポーランドのポズナニ伯の軍勢もようやく加わり、総勢3,000名弱もの兵で、わずか800名程度にまで縮少したリューティチ族の軍勢を殲滅していく。

かくして9月12日。この「ブレンナの決戦」はカトリック連合軍の圧勝に終わった。

そして1077年1月12日。包囲されていたブレンナの街はついに陥落し、コルネルの後見人役であった叔父カミルや祖母で部族の「大母」であったダグマルなどの重要人物たちを次々と捕縛。

コルネルももはや降伏するほかなく、「リューティチ戦争」はわずか半年で幕を閉じることとなったのである。

かつてノルトマルク(北方辺境伯領)と呼ばれたこの地はすっかりとスラヴ化が進んでいたが、オトゲルはそのスラヴ人領主らを一掃し、オトゲルに忠実な家臣たちにこれを分配。ラウジッツ辺境伯以上に広大で豊かな「シュプレーヴァルト伯領」が誕生することとなった。

 

「異教徒たちを駆逐し、失われたノルトマルクを解放した」

オトゲルの名声は瞬く間にラウジッツ辺境伯領内、のみならず帝国内外にも広まった。

特に主への信仰に対する「献身的なしもべ」として、その名は教皇倪下の耳にも届いたという。

教皇ルキウス2世猊下からは、遠く離れたシュヴァーベンの公位すら打診されるほどであった。しかしこれは聖職叙任権を巡り皇帝と対立する教皇による切り崩し策の一環でもあり、変にこれに巻き込まれ皇帝に目をつけられては溜まらない。オトゲルは教皇猊下の申し出を丁寧に断ることにした。

 

その喜びの中で、ついに嫡男ゲロとその婚約者であるゲルリッツ伯娘ハサラとの結婚式が開かれる。

ささやかな式ではあったが、オトゲルはまさに人生最良の瞬間を味わう思いであった。

かつて復讐心に心を支配されていたときの苦しみが遠い過去のことのようである。

このまま、一族の繁栄を目指し、平和に過ごしていくのも悪くないーーそう、思っていたオトゲルはある日、突然の呼吸困難に陥った。

 

まだ、「足りない」のだろうか。

かつての罪をまだ主は赦してはおらず、さらなる信仰の証明が求められているということなのだろうか?

 

苦しみの中で煩悶するオトゲルのもとに、その報せが届けられた。

それは主君ラウジッツ辺境伯コンラートに対し、その臣下であったはずの叔父ブレーン伯ゲロ2世が反乱を起こしたという報せであった。

 

 

反乱(1078)

ラウジッツ辺境伯領は、かつてはオストマルク(東部辺境伯領)と呼ばれ、ノルトマルクなどと共に分割されたゲロ辺境伯領の後継地域の1つであった。一時はポーランド公により征服された時代もあったが、当時の皇帝コンラートがこれを奪還し、現在もスラヴ人勢力とポーランド王国に対する最前線として機能する重要な辺境伯領であった。

11世紀半ばにこれを統治していたのがヴェッティン家のデド1世。嗜虐的な性格で強権的な主君ではあったものの、オトゲルの軍事的な才能を認めてはおり、彼を元帥や狩猟頭に任命した他、かつてのゾンマーフェルト伯に対する征服戦争についても黙認するなど、オトゲルに対するそれなりの信頼を寄せてくれていた。

しかし、そのデド1世が1074年に亡くなり、嫡男のコンラートが新たな辺境伯となると、その「気まぐれ」な性格は周囲の家臣を振り回し始めた。

極め付けが1078年の春に彼が試みた、叔父のブレーン伯ゲロ2世に対する「称号剥奪事件」。

ブレーン伯の何が辺境伯の気に触ったのかは不明だが、突如としてそれは宣言され、しかも彼は愚かにも、そのままアールガウ伯主催の狩猟へと旅立ち、ユーダーボークの居城を離れてしまったのである。

当然、ブレーン伯がこれを許すわけがない。

彼は兄のヴィッテンベルク伯ティモと手を組び、甥伯爵への反乱を起こす。

そして、ブレーン伯は今やラウジッツ辺境伯領内最大の領土を有するオトゲルに対しても、参戦の依頼を投げかけてきたのである。

 

 

「ブレーン伯の依頼に応えるおつもりですか、父上」

シュプレーヴァルト伯領・グーベン城の居間にて、火のついていない暖炉を前にしながら厳しい瞳でその手紙を眺めていたオトゲルに、嫡男のゲロが声をかける。

「ああ、そのつもりだ。ブレーン伯の言い分も最もだからな。前代のデド閣下は厳しくも聡明で信頼に足る方であったが、今代のコンラート閣下は確かに問題が多過ぎる。先だっての狩りの際には、私を見かけるなり、わざわざ蛮族の言葉で挨拶をしてきたのだ。あまりにも酷い」

思い出したかのようにオトゲルの表情が歪み、手紙を握る手に力が入る。

「仰る通りです、父上。しかし・・・」

と、ゲロは遠慮がちに呟く。

「気にすることはない。言ってみよ」

「ありがとうございます、父上。私はやはり、どれだけ愚かであるとしても、主君に対し剣を向けることは法に悖る行為であり、ひいては我々の家臣に対する統治にも悪影響を及ぼしかねないと考えます。せめて、中立という立場を取ることはできないのでしょうか?」

「公正さを重視するお前らしい意見だな」

オトゲルは息子を見上げ、小さく笑みを浮かべる。

「しかし政治というのは、表向きの公正さは大切であったとしても、根本のところではそれだけではいけない部分も多い。我らがルナール家の家訓を覚えているか?」

「狐の如く狡猾なれ」

「そう、その通りだ。我が父ルイがなぜそのような家訓を遺したのか、その意図は計り知れない。私が物心つく頃には父はもうおらず、母もその意図までは知らなかった。しかし、いざ自分がこうして国と多くの家臣と家族を持つに至り、ようやく理解できるようになってきた。父はフランス人としてこのドイツの辺境の地にやってきて、おそらくはそれこそ『きつね』のように思われていたことだろう。狡賢く常に我々の家畜を狙う害獣に違いない、とね。まだ父が何かを為すよりも前に」

オトゲルはゲロから視線を外し、再び手紙に向き合ったが、その視線は紙面の文字というよりもその先にある何かを見据えているように、ゲロには感じられた。

「コンラート閣下はある意味正直なお方だったのかもしれない。彼はその他の多くの常識ある貴族たちならばひた隠すであろう異邦人に対する侮蔑さを明確に表した。それで私も気がついたのだ。結局のところ、私たちはこの地では常に異邦人。たとえ、今回の反乱でブレーン伯の側につき、彼らを助けたとしても、彼らに真に信頼されることはないだろう」

「では、どうすれば・・・」

「それは、強くあることだ。誰からも侮られず、蔑ろにされないだけの力が必要だ。それは虚飾ではいけない。コンラート閣下はそれを理解しえなかったがゆえに、失敗した。私はそうではない。力をもって仇敵を打倒し、その力でもってデド閣下にも認められた。そして今回、ブレーン伯も我々を味方につけようとしている。それを利用しようじゃないか。だからこそ、中立ではいけない。この機を活かし、我々の力を見せつけなければならない」

オトゲルは手紙を机上に置いた。窓から差し込んだ西陽がオトゲルの体を包み、机上にその影が踊る。それはまるで狐のように見える影であった。

「・・・父上は、この戦争の後に何を意図されているのですか?」

父は息子に向き直った。その口元には不敵な笑みが浮かべられていた。

「もちろん、独立だよ。もはや辺境伯領内に我々に並び立つ存在がいないことを認めさせ、我々は異邦人としてではなく、一個の独立した勢力として帝国内にその名を知らしめてみせる。それこそが、我らが一族に対する運命への大いなる復讐となるだろう」

オトゲルは立ち上がった。片脚であることを全く感じさせないほどの力強さで。

ゲロもまた、そんな父の騎士の1人として、覚悟を決めることとなった。

 

 

ブレーン伯へ参戦の承諾を知らせる手紙を送ると同時に、オトゲルは多くのスラヴ兵を含んだ1,500名超を自ら率い、ラウジッツ辺境伯居城ユーターボークへと進軍した。その進軍速度は凄まじく、反乱軍内の主導権を握るべく同じようにユーターボークへと向かっていたブレーン伯やヴィッテンベルク伯が同地に辿り着いた頃には、すでにオトゲルの軍が整然とした様子で城の包囲を完成させていた。

報せを聞いて狩りから慌てて舞い戻ってきていたコンラートも、城を囲むこの総勢2,705名の大軍隊を前にしては引き返すほかなく、救援の望みもなくなってしまったユーターボーク城は開戦からわずか5ヶ月、1078年10月5日に陥落。

生まれたばかりのコンラートの一人息子デド、姪のオダ、さらには人質として置かれていたマイセン公の嫡男ゴットシャルクなどを捕縛。

ゴットシャルクの身はすぐさまマイセン公へと返還され、マイセン公オットーはその謝礼として97ゴールドもの大金をオトゲルに支払った。

それら全てを、オトゲルが主導権を握ったままこなしていたのである。

 

嫡男が囚われの身になりながらも、コンラートは諦めることなく辺境伯領内を逃げ回り抗戦の構えを見せた。

皇帝に遣いを出し、反乱者たちの不法を訴え、助力を請おうと画策もしていたが、折悪く皇帝も皇帝でトスカーナ辺境女伯マチルダによる反乱に見舞われてあり、その余裕はなく突き返されていた。

1078年12月23日。万策尽きたコンラートは敗北を認め、叔父たちの要求に従い支配のための法律を緩和すると共に、自らも退位して1歳の息子デドを辺境伯位を譲る事を決めた。

しかしこの「デド2世」はすでに「軟弱」な体質でもあり、もはやこの伯権がただのお飾りであることは誰の目から見ても明らかであった。

結果として、この戦争で最も得したのはシュプレーヴァルト伯オトゲルであった。彼はこの辺境伯領内最大の実力者であることを明らかなものとし、これを受けて彼は「皇帝」に謁見することを許されたのである。

 

 

謁見(1079)

11世紀半ば。帝権はかの有名な「カノッサの屈辱」の当事者ハインリヒ4世が握っていた。

彼は聖職叙任権を巡り時の教皇やその支持者たちと対立を続けていたが、そんな中、1076年に「悲惨な事故」で「無能力者」となってしまう。

狩りの途中で巻き起こった事故だというが、そこに反皇帝派の意図が入り込んでいたかどうかは定かではない。

 

統治能力を失ったハインリヒ4世の「摂政」を務めたのは、彼の友人であったオーストリア辺境伯エルンスト

史実ではザクセン戦争で命を落とす彼も、この世界ではハインリヒに代わる皇帝代理としてその権力を欲しいままにし、聖俗の支持も集めて「次期皇帝」はほぼ内定している状態であった。

そんな中、巻き起こったトスカーナ辺境女伯マチルダによる大反乱。

北イタリアから南フランスにかけての諸侯が教皇ルキウス2世を支持し、帝国からの独立を求めて蜂起。総兵数では皇帝を上回るその反乱軍の出現によって、帝国は一気に不安定化していくこととなる。

 

 

オトゲルが皇帝を訪れたのはそんな混乱の渦中にある1079年の春であった。

前年末に危篤状態に陥った皇帝ハインリヒ4世は冬を超えることができず崩御。代わって皇帝となったのが、長くその摂政を務めていたオーストリア辺境「誠実伯」エルンスト。バーベンベルク朝初代皇帝として即位していた。

苦境に立たされる皇帝をその傍で支え続けた忠臣として評されるエルンスト。もちろん、それが彼の「本質」であるかは別として。


そんなエルンスト皇帝が座す帝都ウィーンに到着したオトゲルは、すぐさま膝をついて新皇帝を称賛する美辞を並べ立てた。皇帝の話す高地ドイツ語も堪能な宰相ジェシー・ヘニングによって準備された文言である。

皇帝はオトゲルのことを決して好ましい男とは思っていなかった。むしろ、辺境の地に住むどこの馬の骨とも知れぬ田舎者であるとさえ、思っていた。

しかしそれでも、その東方辺境領を保持し、異教徒を殲滅させた実績は無視できるものではなく、南方でイタリア勢力と今まさに激突している中、このザクセン人たちが万が一自分達に反旗を翻すようなことがあっては、ようやく手に入れたこの帝権が早くも揺らぐことになりかねない、と現実的な判断を下す必要に迫られてもいた。

「それで、貴公の要求を述べよ、シュプレーヴァルト伯」

「僭越ながら申し上げます、陛下。請願させて頂きたいことは2点御座います。1点目は、すでに私が異教徒を駆逐し、回復したノルトマルクの地、その支配権を、正式に認めていただきたいということ」

オトゲルは皇帝の表情を窺うが、その顔色に変化はない。この要求はもはや公然の事実であるものを公式化するだけの話であるため、皇帝にも抵抗はないだろう。オトゲルは続ける。

「そして2つ目は、そのノルトマルクの地にかつて存在した辺境伯位を回復し、その地位に私を就けて頂きたいということです」

オトゲルのその言葉に、皇帝もさすがに気色ばんだ。確かに、ノルトマルクにはかつて辺境伯領が存在し、現在も名目的にはシュターデ伯がその地位についてはいるものの、彼らはその奪還には何も後見せず、結果としてこのオトゲルがスラヴ人たちを駆逐してみせた。

かと言って、それまで一切名も知られてこなかったような地方貴族を、皇帝直属の実質的な独立勢力と言っても良い辺境伯の地位にまで押し上げるなど・・・

しかし、簡単に拒絶することもまた、できはしなかった。

オトゲルは密かにザクセン公と交渉し、同盟締結の道を探っているとも聞く。彼らが同盟を結べば帝国の東方に強大な勢力が生まれてしまう。これを敵に回すか、味方につけるかは、今後の帝国の、そして何よりもバーベンベルク家の運命を左右することになりかねないだろう。

「・・・分かった」

絞りだすようにして、皇帝エルンストは言葉を紡ぎ出す。

「但し、条件を付けよう。ノルトマルクのみならず、その北方、バルト海沿いの旧ビルング辺境伯領をも解放すること。そこまで達成して初めて、正式に貴公を辺境伯として認めることとする」

オトゲルは内心でほくそ笑んだ。想定通りの回答だ。

「承知いたしました。神に誓って、バルト海まですべての異教徒を駆逐して見せます。確認ですが、陛下。回復したその旧ビルング辺境伯領もまた、我が支配下に置いて問題ない、ということでよろしいでしょうか」

エルンストは無言でうなずく他、なかった。

 

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ノルトマルクの支配圏を公式に認められ、かつ旧ビルング辺境伯領の回復をもって、独自の辺境伯の創設を認められることとなったオトゲル。

早速自らの所領に戻った彼は、まずは来るべき「大聖戦」に向けて、その居城をリューティチ族から奪ったブレンナ改めブランデンブルクへと移動させる。

開発度もこれまでの首都シュプレーヴァルト伯領および周辺の諸伯領と比べても高く、新たな首都として十分に相応しい。

 

さらに、兼ねてより自身の息子の教育役を依頼したり「次期皇帝選挙」において投票したりと関係改善のためのあらゆる手段を尽くし続けていた隣国のザクセン公マグヌスに対し、いよいよ同盟締結の依頼を申し出る。

オトゲルの次男ルートヴィヒとマグヌスの次女ヴルフヒルデとの婚約が決まり、その総兵力4,096名を同盟に引き入れる「ザクセン同盟」締結の瞬間となった。

グランドウェディングを約束したことでギリギリの承諾を得ることができた。


これで怖いものはない。

いよいよ、北方旧ビルング辺境伯領を支配する異教徒ヴェレティ族に対する「大聖戦」を開始する。



大聖戦(1081-1083)

ヴェレティ族は少なくとも6世紀頃にはこのエルベ川とオーデル川に挟まれた地域を支配していた部族連合であった。それは単一の氏族による支配というよりは、少数の有力部族を中心とした緩やかな君主制部族連合であったが、オトゲルによるリューティチ族の打倒とノルトマルクの支配によって危機感を覚えた彼らは、ウィズラビット氏族の棟梁クルートォイを中心にまとまりを見せ始め、間もなく訪れるであろう大規模な宗教戦争への備えを固めつつあった。

圧倒的な統率力を誇るクルートォイ率いるウィズラビット氏族は、バラバラだったヴェレティ族をまとめ上げ、周囲の別部族やカトリック教徒たちへの襲撃で財産を蓄え、来るべきときに備えていた。


1081年10月9日。すべての準備を整えたオトゲルはついに「大聖戦」の開始を宣言。

早速襲来する2,667名のスラヴ兵たちを、ベツォウの森で迎え撃つ。

同盟国の援けも借り、総兵力ではこちらが上ではあるものの、敵は得意の森林地帯での戦いにより、その質においてはこちらを上回っている状態。

しかし敵の主力である屈強な重歩兵隊に対し、こちらはその2倍の数の軽装歩兵を連れてきており、彼らによる森の中での縦横無尽なゲリラ戦を展開することで、これを無力化。

最終的には何とか勝利できたものの、その犠牲者の数は敵の2倍にまで積み上がるなど、なかなかの辛勝ではあった。

特に敵の騎士たちの屈強さはカトリックのそれとは比べ物にならず、こちらの兵の多くが彼らによって屠られてしまった。


この勝利を無駄にしないためにも、敗走した敵兵を追って掃討戦を展開しようと試みる。こちらには軽騎兵もおり、平原での戦いであればかなりの兵を包囲殲滅できるはずだ。

だが、ザクセン人はまだ取り入れられていない蹄鉄の技術を持つ彼らは、その巧みな操馬術によってするりとこの追撃を逃れ、森の中へと逃げ込んでいく。

仕方なく敵本拠地のヴェリグラドを包囲していると、その間にどこからともなく現れたクルートォイの軍勢が突如ブランデンブルクを襲撃し、包囲したとの報せ。

攻城兵器を並べ、次々と城壁を破壊していく敵包囲軍。

このままでは救援は間に合わない! 城に残る妻が! 子が!

そこに颯爽と駆けつける、ザクセン公軍4,000超!

これを率いるのはオルデンブルク伯エギルマール1世。現代に残るオルデンブルク家の始祖にして、現代のイギリス・ノルウェー・デンマークの王家の祖先にあたる人物でもある。

彼らの接近により一度ブランデンブルクの包囲を解き撤退したクルートォイ。

その隙にその本拠地ヴェリグラドを陥落させ、彼の嫡子たるヴォイテフも捕虜とする。

いよいよ、追い詰められていくクルートォイ。

そして1082年10月11日。

再び隙を突いてブランデンブルク包囲を開始したこのクルートォイ軍に対し、いよいよ最終決戦を挑んでいく!

カトリック連合軍合計6,825名、ヴェレティ族連合合計3,063名。総勢1万弱の兵士たちが激突したこの「ブランデンブルクの戦い」は、最終的にカトリック連合が勝利を遂げる。

戦いで負傷したルチヤンが、のちのその傷が原因で死去してしまうほどの激戦ではあったが、この勝利によって趨勢は決した。

1083年1月6日。ついにヴェレティ族族長クルートォイは降伏を認め、オトゲルはバルト海にまで達する広大な「北方辺境伯領」を手中に収めることとなった。

もはやルナール家は「どこの馬の骨とも知らぬ田舎貴族」ではない。

それは、まぎれもなく帝国の守護者たるに相応しい偉大なる血族であることが証明されたのである。

 

この事実をもって、皇帝エルンストも約束通りオトゲルに辺境伯位を与えることを宣言。

1083年7月。オトゲルは「ブランデンブルク辺境伯」を名乗ることとなった。

それは史実におけるアルブレヒト熊公による創設から70年も早い偉業であった。


一族の復讐のみならず、その家名を大いなるものとするための偉業を成し遂げたオトゲル。

しかし、まだ40代半ばと、これからさらなる栄光への可能性が残されている年齢にも関わらず、彼は自らの運命がもはや長くはないことを、様々な天命を通して察していた。

ゆえに、彼は人生における最大の仕上げを行うこととする。

後に遺されし後継者ゲロのために。

誰よりも思いやりがあり、公正な彼が平和にこの国を治められるように。

そのために着手したのが、征服した広大な土地に広がる「ポラーブ」文化との「混合」。

もはや彼らは「異民族」ではない。共に辺境に住まう「きつね」として、新たなる文化を携えて中央の支配に対する狡猾なる抵抗を続けていこう。

そうして、既存のザクセン文化ともまた違う、オーバーザクセン(上ザクセン)文化が形成されていくこととなる。

 

かくして、一族の復讐、異教徒への聖戦、広大な領土の獲得、そして新たなる文化の創設――ありとあらゆる偉業を成し遂げた「隻脚伯」オトゲルは、1085年1月27日、急激な喉の詰まりの果てに、その人生の終焉を迎えることとなった。

齢44歳。偉大なる人間の、あまりにも早すぎる死。

しかしその「きつね」の紋章と魂は、その偉大なる後継者「ゲロ2世」へと継承されていく。

 

 

第二話へ続く。

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