~前回のあらすじ~
17世紀最初の20年間において欧州全土で巻き起こった2度の大戦。
フランス帝国は、ヴェネツィアへの玄関口にあたるトレヴィゾを獲得。
さらにエノー伯領、ルクセンブルク大公領、ブラバント公国、アーヘンをすべて属国化した。
しかし犠牲者も2度の大戦でフランス側だけでも50万を超える規模となり、暫くは平和に過ごさざるを得ないかのように思えた。
だが、平和というのは決して長くは続かない。
それは望むと望まぬとに関わらず、すぐに消えてなくなってしまうものなのだ。
戦間期
今回の大包囲網は規模が大きいため、すぐに次の戦争を始めることはできない。
その間に、枯渇したマンパワーを回復させるほか、その他の軍備も整えていきたい。
ということで、5番目のアイディアとして「攻撃(Offensive)」アイディアを獲得。
白兵や射撃の将軍能力が向上したり、攻城戦性能がアップしたり、陸軍保有限界を増やしたりと良効果が揃うアイディア。
これでさらなる規模の戦争においても十分な効果を見込めるはずである。
また、陸軍伝統が上がるイベントがあったため新たに将軍を雇用。
射撃5も凄いが機動が6というのが半端ない。
(防衛アイディアと君主の性格によるものだが)
騎兵部隊を率いさせて平原での野戦で力を発揮してもらうか? いや、白兵が低いのでそれは微妙か?
30歳になっていた皇太子ルイがルイ14世として即位した。
そのルイ14世の後継者ルイがまた、なかなかな能力。
建造コスト削減効果をもつ「建築における想像力(Architectural Visionary)」という良い性格も保有しており、即位が楽しみである。さすがに譲位するほどではないが。
ルイ14世自身も、将軍の機動能力+1という「戦術の才能(Tacrical Genius)」という性格を持っており、戦争に強い能力だ。
――そして、戦いの幕が上がる。
開戦
1645年3月23日。
スウェーデンがテューリンゲン選帝侯に攻められ、救援要請を飛ばしてくる。
こちらがちょうど攻撃したかったプファルツ選帝侯も相手にいるとのことなので、二つ返事で了承。
早速プファルツ選帝侯領に侵攻しようとするが・・・
5月13日。
ボヘミアを盟主とする反フランス連合が宣戦布告。
フランスを中心とした同盟軍は総勢47万。
敵陣営の方が約1割兵数が多い。
親仏同盟にはポーランド=リトアニア連合王国にハンガリー、スペイン、ポルトガル、スウェーデンおよびそれらの属国たちが。
対仏大連合にはボヘミアのほかイングランドやオスマン帝国が主戦力てして含まれている。
正真正銘の、世界大戦だ。
外交関係MAP。薄い緑が自国、濃い緑が同盟国、そして赤色が戦争相手国である。
しかしオスマン単体で16万の歩兵という時点ですでにおかしい・・・。
1645年
とりあえず本気の戦闘準備を行う。
まずはオスマンの軍事技術レベルが19になっていることを確認し、こちらもそのレベルまで引き上げる。
軍事技術レベル19で解禁される3種類の歩兵のうち、「改良型テルシオ(Reformed Tercio)」を選択する。
重視したのは「士気防御(Defensive Morale)」。
とにかく敗戦しないことが大事、という考えだ。
しかし、一回一回の戦闘で少しでも多く敵兵を削る、という観点では白兵/火器攻撃力を優先して「グスタフ式歩兵(Gustavian Infantry)」にするべきだったかもしれない。
また、軍事君主点が再度貯まり次第、「攻撃」アイディアの最後の1つを解放してコンプリートを目指す。これで規律+5%と陸軍士気回復+5%が手に入る。
軍事顧問は規律+5%と迷ったが、現在雇用している要塞防御向上の顧問をそのまま使うことにした。
1645年12月9日。フリウリの戦い。
開戦初年の本格的な激突がこれのみで終わった。
ボヘミア軍2万6千を、ナポリ・フランス連合5万5千で打ち破る。
だがこんな戦いは、まだまだお遊び程度のものでしかなかった。
1646年の戦い
1646年2月5日。ブラバントの戦い。
同年3月9日。ベルンの戦い。
4月26日。チロルの戦い。
南北で各方面軍が敵連合軍を各個撃破していく。
しかし、いずれの戦いも敵陣営以上の損害を被り、さらに戦勝点は大して稼げてはいない。
このままではじり貧である。
そしてまだ、敵の本命であるオスマン帝国軍は来ていない。
その大軍がこちらに来れば、状況は一変してしまう。
コモンウェルスがそれを足止めしてくれればいいが・・・
残念ながらコモンウェルスはこんな状態。
いつ、脱落してもおかしくはない。
そして9月22日。
いよいよオスマン帝国軍がフランス領に侵入した。
まさかの北方から!
総勢12万とか・・・
これを見てフランス各方面軍は内地に集結。
迎撃態勢を取る。
オスマン軍もこの年はあくまでも威力偵察のつもりだったらしく、本格的な侵攻は行わずに撤退した。
フランス陸軍全軍、気を引き締めた状態で翌年を迎える。
そして・・・
1647年の戦い
1月14日。上シュヴァーベンの戦いでオスマン帝国軍と衝突。大敗を喫する。
敵の司令官はスルタン・オスマン1世その人。
まさかの総大将自らのお出ましである。
5月19日。負けじとフランス全軍、北東フランスに集結。
うおおおおおおおおおお!
6月3日まで続いた戦いの果てに、なんとかこれを撃破する。
しかし死傷者数は敵を上回っているうえに戦勝点も少ない。
実入りの少ない勝利だったというわけだ。
6月19日にはオスマン軍の別の舞台をプファルツで捕捉。
これも勝利。
だがやはり損害はこちらのほうが大きく、戦勝点も少ない。
8月8日。ブラバントの戦い。
ここでようやく、敵軍にそれなりの損害を与えることができた。
戦勝点も高かったのだが、これはキルレシオに比例しているのだろうか。
この後、戦線は膠着状態に陥る。
一進一退の攻防を繰り返しながら、双方の陣営において決めてを欠いたまま時だけが過ぎていく。
1648年12月時点での状況は以下の通り。
開戦から3年が経ってようやく総兵数を上回るようになった。
戦勝点では負けているが、それでも、持久戦に持ち込むことができれば最後には勝つことができるのがフランスだ。
事実、軍事台帳を開いてみれば、オスマンのマンパワーがすでに枯渇していることがわかる。
所持金はフランスが4531デュカートに対しオスマンは776デュカート。
フランスはまだまだ戦える!
こちらが苦しいときは、敵はそれ以上に苦しいはずなのだから!
1649年の戦い
8月2日。
南方、オーストリア領ケルンテルンで、2年ぶりに本格的な会戦が行われる。
始めは2万から4万程度の軍勢同士で始まったこの戦いも、周辺から同盟国が駆けつけ、双方10万以上の軍勢を動員し、2か月以上にわたって激突を繰り返した。
そして結果はフランスの大敗。
およそ4万近い兵を失った。今回の戦争におけるもっとも大きな損害であった。
少しずつ兵力差を取り戻していった中で、この年はフランスが再び危機に陥った年であった。
やはり、敵本拠地に入り込むような進軍はまだ時期尚早である。
まずはじっくりと内地にて兵を集め、敵軍勢が近寄ってくるのを待つのが吉であると判断する。
1650年の戦い
そうして待って待って時機を得たのが、8月3日。フランシュ・コンテの戦い。
フランスの内側で単独行動をとっていたオスマン軍を、同盟国の軍隊で包囲して袋叩きにすることができた。
敵に1.5倍近い損害を与え、戦勝点も十分に稼いだ。
そしてこれが契機となったのか。
ついに、待ち望んでいた事態が到来した。
オスマンからの和平要請。
もちろん白紙和平ではあるが、願ったり叶ったりである。
慎重に審議をしたうえで、これを受諾。
10月26日。
ついにオスマンが対仏大同盟戦争から離脱。
歴史が動いた瞬間であった。
オスマンにしてみれば、叩いても叩いても無尽蔵の資金で傭兵を雇って復活してくるフランス軍は、悪夢のような存在であっただろう。
オスマンが抜けただけで戦勝点は振り出しに戻り、総兵数は2倍近い差にまで広がった。
形勢は完全に逆転した。
12月25日。すべての発端となったスウェーデン征服戦争が、スウェーデンの全面的降伏によって終戦。
スウェーデンはこの後、対仏大同盟戦争からも離脱する。
だがまあ、これは仕方ない。こちらも結局、まったく救援にいくことができなかったのだから。むしろよく持ったほうである。
翌年4月7日にはコモンウェルスも退場。
続々と、大国たちが離脱していき、この長き戦争も終わりが近づきつつあることがわかる。
1652年に入ってすぐ、ボヘミア側から和平の使者が訪れるようになる。
だが、フランス皇帝ルイ14世はこれを拒否。
ここまで苦しめられたこの戦争、何も得ずに終わるわけにはいかない。
ギリギリまで敵を追い詰め、引き出せるすべてのものを引き出して終わりにしたい。
1652年の戦い
ボヘミア軍も、こちらと和平ができないとわかると、5万を超える大軍でもって反撃に出てきた。
フランスもすぐさま援軍を向かわせるが、削れる削れる。
ギリギリまで苦しい戦いが続いた結果・・・
10月4日に1か月半の戦闘が終了。
相変わらず損害はひどいが、戦勝点を稼ぐことはできた。
キルレシオは関係ないのか?
1653年 -終戦-
4月25日。今回の戦争における最後の本格的な会戦が始まる。
しかし、もはや趨勢は完全に決まり切っていた。
12万を超えるフランス同盟軍が3万のボヘミア軍を蹂躙する。
9月28日。ついに講和条約の調印式が開かれ、戦争終結に向けた本格的な話し合いがスタートする。
そして9月30日。
正式な講和条約である「ザルツブルク条約」が結ばれ、8年間にわたる世界大戦が終結する。
この条約によって取り決められたのは以下の通りである。
- アクイレイア公はフリウリをフランスに譲渡。公位は廃止される。
- イングランドは大陸に残っていたイングランド領であるカレーとフランドルをブラバント公に譲渡する。
- シュタイアーマルク公はフランスに従属する。
- ボヘミアはザルツブルク公の独立を承認する。
- スイスはラーベンスブルク公の独立を承認する。
- ボヘミアはフランスとその同盟国に合計で100デュカートの賠償金を支払う。
最後に、この戦争における死傷者数の総数を確認する。
結果として双方に80万以上の死傷者数を生むことになった。
先の2回の欧州大戦の犠牲者も含めると、合計で250万以上にもなることがわかる。
まさに「17世紀の危機」といったところか。
しかし史実における三十年戦争の死者数は(戦場におけるものだけではないようだが)400万人を超えるというのだから、やはり現実とは凄まじいものなのだなと感じる。
敵陣営において損耗による死傷者数が多いのは、防衛的な戦争であったがゆえだろう。
開戦における死傷者数の多さは、戦略的な甘さが招いたものである。
ここに関しては改善の余地がまだまだありうるというわけだ。
いずれにしても戦争は終わった。
もちろん、まだまだ平和には程遠い。
何しろ、当のフランス皇帝自身が、更なる領土拡大を狙っているのだから・・・
第11回に続く。